第32話 黒の聖樹

 白の聖樹なら、治癒にまつわる術を識っていたはずだ。でも、すでに土に還ってしまったものを蘇らせることはできるのだろうか。


「クォーツ、お願い。このひとの下半身をもとの状態に戻せるか、ためしてみてほしい」


 物言いたげな視線は向けられたけれど、彼は聞き返すことなく青い聖樹の杖を構えた。


 自分で出しておきながら、クォーツは白い杖先を少し驚いたような目で見やった。


「……つい出しちまうな」

「そうやってずっと魔法を使ってきたんだもの、当たり前よ。そんなことより、早く」

「ああ。わかってる——」


 杖先がクリフォードさんに向けられる。

 けれど、


「……だめだ。なにも起こらない」

「そう……」


 土塊となった下半身に変化は見られなかった。神樹の加護を持ってしても、滅びて大地に還りゆく命の循環は覆せないらしい。

 やはりゲルニカの杖、もといゲルニカ様だけがその奇跡を可能にするのだろうか。


「それならせめて上半身だけでも助けましょう。わたしが彼を根の下から引っぱるわ。そうしたらあなたは魔法で胴体の傷口を閉じてちょうだい。魔法医じゃないから適切な処置はわからない……でも、失血は防げるはず」


 すぐにクリフォードさんのもとにかがみこんで、細くなった身体に両腕をしっかり巻きつける。

 すると土塊の下半身を食らっていた根が、獲物を離すまいとさらに根先を伸ばしはじめた。まだ血の通う男の背を撫でるように這って、邪魔者であるわたしに照準を定める。


 《矢避けの風》はたやすく弾かれた。

 とっさに歯を食いしばる。

 鋭い根先がわたしの目を貫く寸前、枝は不自然に身を震わせ、ぴたりと動きを止めた。


「——忙げオードリー! その根っこ、捕ったばかりの魚みたいに活きがいい」


 すかさずクォーツの声が飛んでくる。


「あんたまで餌食になるようなら、そいつごと根を攻撃するぞ!」


 クォーツは本当に大魚と格闘しているかのように、両手で持った杖をしならせていた。

 うっかり、ちょっと愉快な気持ちになってしまう。でも、根っこの養分になるのも、しがみつく彼を見殺しにするのもごめんだ。


 深く息を吸いこむ。

 つぎの暗算練習は怪力の術にしよう。

 そう心に誓って、わたしは両の足にありったけの体重をかけた。


「ふんぐうううう……!」

「待ったオードリー笑わせるな。こっちは真剣に根を止めてるんだぞ、なんだよその顔」


 ものすごく失礼なことを言われた気がしたけれど、気にしている場合ではなかった。


 頭脳労働には人並み以上の自信があるけれど、身体を使ったことはてんで向いていない。

 力むあまり酸素が抜けていって、頭が白みかけたそのとき、強かにおしりを打ちつける痛みで我にかえった。

 とたん腕のなかの男が、悲痛な絶叫をあげてわたしにしがみつく。


「ああああああッ! 痛い! 痛いいい!」


 男ごとわたしを捕まえたクォーツが、根の届かないところまで引きずって遠ざける。

 土塊と分離した男の胴からどっ、どっと流れ出す血液が、黒い土に真っ赤な筋を作る。


「クォーツ! 傷を!」


 わたしたちを両腕で抱えるクォーツは、杖を出さなかった。

 けれどミルク色の光がたちまち男の胴を包むのを見て、魔法が成功したことを知る。


「あ……ああ……オードリーちゃん」


 痛みが和らいだのか、呼吸はしだいに落ち着いて、やがて枯れた声がわたしを呼んだ。


 涙や鼻水によごれ、頬を骸骨のようにこけさせてはいるけれど、見慣れた顔だった。


 娘に似ているからと、お菓子や本をたくさん贈ってくれた、ちょっと親バカな行商人さんだ。そう頻繁に顔を合わせるわけではなかったけれど、パパがいなくなってからは、わたしにとっては唯一関わりのある大人の男性だった。


「ほんとうに君は……ルーチェによく似ている。湖のように澄んで、まっすぐな瞳……」


 うっすらと微笑んでそう呟いた直後には、みずからの目を覆ってしまう。


「そんな目で見ないでくれ……」

「クリフォードさん……」

「僕を、見ないでくれ……っ!」


 わたしの腕のなかで、彼は上半身だけになってしまった身体をガタガタと震わせた。けれど、涙を流すだけの体力も残っていなかったのだろう、すぐに脱力して動かなくなる。


 気絶してしまったらしい彼を、わたしはそっと地面に休ませた。


 おばあちゃんに薬を売った犯人だとわかったのに、怒りやかなしみではなく、このひとを死なせてはいけないという思いだけが胸のなかを満たしている。


「ほらな、結局あんたはこうやって助ける」


 お腹にまわされたクォーツの腕が、ぐっとわたしを引っぱり起こした。ふり向けば、わたしを見透かす瞳がすぐ間近にあった。


 わたしたちを見おろす翡翠の光たちはすでに天井じゅうを満点の空に変えていて、闇のなかに隠されてあったものも、いまははっきりと姿を表していた。どちらからともなく、部屋の最奥に身体を向けて、顔を上げる。


 わたしの知っているそれよりも、はるかに大きい。四、五本が束になったかのような太さの大樹。隆々と地に張られた根は脈打ち、みじろぎして、一つ一つが息づいていた。


 本来の黒の聖樹にそんな特徴はない。


 黒の人工聖樹。


 幹にはあのサインが刻まれてあった。


「……『ディケンズ』の、聖樹」

「街で売られていた黒の杖はたぶん、これのものよ。彼らはお金のためだけに杖を売り捌いていたんじゃない。この木を育てるために、杖を介して魔力を集めていたんだわ」


 言葉にしながら、妙な違和感を覚える。

 ……だとしたらどうして彼らは、アカデミーの学生にばかり杖を売っていたの? 多くの魔力を集めたいなら、単純に大勢の人々に杖を渡したほうがずっと効率的なのに。


 売られていた杖がよりによって黒の聖樹だったというのも、なんだかできすぎている。


 彼らが真に狙っていたのは、クレメール魔法アカデミーと黒の森に関係のある人物?


 それって——


「お父上の研究所はいかがですか、オードリー嬢」


 わたしの頭のなかをのぞいたかのようなタイミングで、しわがれ声に呼びかけられる。


 白布をたっぷり身体に重ねた、司祭風の男。《転移の門》があった部屋で、意味深な言葉を残して消えた彼が、目をしわのなかに隠すように笑って聖樹のそばに立っていた。


「博士のご令嬢に、さきほどは名乗りもせず、大変失礼いたしました。私の名はカナン——オリバー博士の意志を継ぐ者です」


 カナンは慇懃に頭を下げて、続ける。


「あなたが来てくださるともう少し早くわかっていれば、おもてなしの準備をしたのですが」

「よく言うわね。アカデミー付近で杖を売ったり、あんなわかりやすいところに《転移の門》を刻んだり……最初から、ここにわたしを連れてくるために仕組んでいたくせに!」

「うふふふ……」


 男は、上品に口もとをおさえて笑った。


「やはり、オリバー博士の類稀なる頭脳が、あなたにも受け継がれているのですね。彼は本当にすばらしい研究者でした。あの伯爵アールが片腕と認めるほどの。色恋など惑わされて裏切りさえしなければ、いまごろは当初の彼の願いも叶えられていたかもしれないのに」


 うそぶくようすでもなく、心底残念そうに額にしわを作るのが、言いようもなく不気味だった。


「どうでしょう。よろしければ私どもと彼の志を継ぎませんか、オードリー嬢」


 ゲルニカの杖を使った、人類の進化。


 わたしたち人間が女神様に匹敵する力を持つことがはたしていいことなのかどうか、わたしにはわからない。


 けれどその過程でクォーツのような犠牲が出るのなら、わたしの答えは決まっている。


 首を横にふったわたしを見て、男は肩をすくめた。形ばかりの、残念というポーズ。弓形の目はさきほどからずっと笑っていない。

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