第29話 それは運命か

 私が彼女と出会ったのは、エルハルド教会の助任司祭となってすぐのころだった。


 近隣の家々に挨拶まわりに行くなかで、黒の森はもっとも重要な場所と教わった。女神の知恵を守る管理人らは、複雑な歴史のうえにあるものの、決して教会に与しているわけではない。彼らは彼らで女神との関係を築いている。慎重に付き合うように、と。


 紹介された管理人は、おっとりして見えて芯の強そうな女性だった。そしてその一人娘がマーガレット——私の運命だった。


「朝起きるとね、こんな、両手でいっぱい山盛りの粉薬をぜんぶ飲まなくちゃいけないのよ! それで朝ごはんも食べなさいだなんて、お腹が破れて粉が出ちゃうわ。ねえ司祭様からもお母さんに言ってくださらない? せめてもう少し量を減らしてくれるように」


 マーガレットは生まれつき、身体の弱い娘だったという。医者からは二十歳まで生きられないだろうと言われていて、私が出会ったときにはすでに十八歳だった。


「お薬だけでは元気が出ませんよ。早く健康になって、森の管理人を継ぐのでしょう? そのためにはしっかり食べなくては」

「もう、司祭様ったら真面目なんだから。あのね司祭様、こういうときは『そうだね、粉薬飲むの大変だよね。それじゃあ私が愛情を込めて手料理をふるまうから、それを食べなさい』と優しく諭してあげるの。すると女の子はたちまち目をとろんとさせて、司祭様のとりこになっちゃうんだから……あらだめね、それだとライバルが増えちゃうわ」


 だがマーガレットは、まったく自身の人生を悲観していなかった。いつか健康になって、尊敬する母親の仕事を継げるようになる日が来ると、心から信じていた。


 底抜けの天真爛漫さは、あるいは彼女なりの心の盾だったのかもしれない。


 それでも彼女は日々楽しそうで、なぜだか私にあけすけな好意を寄せてくれていた。


 終わりのない本のように魅力的な女性だった。めくってもめくっても、まだ知らないところが隠れている。森の管理人にだけ伝わる不思議な計算法を見せてくれたときは、まるで妖精がダンスを踊っているようにも見えた。彼女を愛さないではいられなかった。


 それが自然であるように私たちは交際に至り、間もなく結婚した。ちょうど、伯爵アールがあの哀れな赤ん坊を連れてきたころだった。


 神樹が順調に成長していくにつれて、マーガレットの命の灯火は細くなっていった。


 いつしか彼女は、朝食の粉薬に文句を言わなくなった。私はついに彼女が絶望してしまったものと案じたが、そうではなかった。


「せめてあと十月、どうにかして生きなくてはならないの。わたしのなかにはいま、わたし以外の小さな命があるわ。きっとこの子はあなたに似て好奇心旺盛だろうから、なんとしてでも外の世界を見ようと必死になっていると思うの。わたしはこの子の母親だもの、せめてそのくらいは叶えてあげたい」


 骨の浮き出る手が、まだ膨らみのない腹を愛おしげに撫でていた。薬も食事も意欲的に摂っているのに、日に日にその身体は痩せ細っていく。医者は首を横にふった。出産どころか、このままでは腹のなかの子供より先に母親が死んでしまう。十月も保つまい、と。


 因果めいたものを感じた。

 一人の赤子の未来を狂わせた業が巡ってきたのだ。


 あれほど熱心に研究していた神樹にさえ、私はぱったりと出向かなくなった。


 すべてが女神ゲルニカによる神罰のような気がして、おそろしくて、後ろめたくて、とても顔を向けることができなかった。


 ゆえに伯爵アールに経過報告を頼まれたとき、私はおよそ数ヶ月ぶりに神樹を訪れた。


 あの赤ん坊に加護を与えたときから、神樹は目を見張る速度で巨木へと成長していったものの、相変わらず葉も枝もつけないままだった——しかし久しぶりに目の当たりにした神樹は、想像だにしない変貌を遂げていた。


 幹の腹に、小さな虚が空いていた。

 そこにただ一つ、杖が生えていたのだ。


 ゲルニカの杖だ。


 全知の杖が神樹を寝床にするようにしてあった。念願が果たされた瞬間だった。すぐに研究者仲間へ、伯爵アールへ連絡をしなければならない。たしかめなければならないことが山積みだ。いまは一つきりだが、今後どうやって量産するべきかも考えなければならない。


 膨大な思考が頭を駆けたはずだった。


 しかし気づけば私は、涙を流しながら神樹の前に跪いていた。「どうかマーガレットを、オードリーをお救いください……愛しい妻と子に女神様のご慈悲を……」信仰などとうに摩耗したと思っていた。だというのに、とめどない祈りがこの口から溢れだす。


 十二種の聖樹が識らない奇跡、


 蘇り——


 ゲルニカの杖ならばそれを識っているかもしれないと、伯爵アールは言っていた。ゲルニカは大地、豊穣、死と生をつかさどる女神だ。


 さて、伯爵アール

 冷酷なる芸術家ウィリアム=ディケンズ。


 きっと君はいまごろ、血眼になってこの書を読んでいるね。ゲルニカの杖がいったいどこに消えてしまったのか、君のことだ、もう大方の予測はできていることだろう。


 私は杖から、ゲルニカの神託を聞いた。


 マーガレットの心臓にゲルニカの杖を突き立てろ、と。さすればたちまち杖は心臓に根を張り、悠久の鼓動を刻ませる。そのかわり無事に子供が誕生したあかつきには、マーガレットに世界を巡らせること——女神はその足で大地を歩むことを望んでいた。いつも支えるばかりだった地上が、どんな場所なのか、幼い少女のような憧れを抱いていた。


 そうしてオードリーが生まれた。


 森の妖精そのもののような、愛らしい女の子だった。彼女をはじめて腕に抱いたとき、あの哀れな赤ん坊にどれほど非道な仕打ちをしたのか思い知らされた私の痛みなど、君は少しも理解しないだろう。伯爵アール。私は研究者ではなく父親になってしまった。


 女神との約束通り、私はマーガレットと旅に出る。その果てで彼女を自然の摂理へと戻し、大地に還そうと考えている。君の探すゲルニカの杖はきっとそこに眠っている。


 女神が君を求めるのならそこに神樹が立つし、また大地に還ることを望むなら杖はあとかたも残らない。意外にもゲルニカは、私と君同様、飽くなき探究心の持ち主だ。地上をまだ満喫したいと、根を張る可能性のほうが高いと考えている。伯爵アールよ、世界から神樹を探してみろ。私はマーガレットと共にこの大地から、君の奮闘を見守らせてもらおう。

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