翠のたまご

 さようなら。さようなら。さようなら、友よ。また会う日まで。


 親しい人が去る時は、名前を呼び交わして別れを惜しむ。そんな当たり前のこと。


「世話になったな」

「さようなら、ルキウス」

「……まだ慣れねえな」


 聚合の魔法使いは大きな手で巻き毛をバリバリ掻いて照れくさそうに笑った。ルキウスなんて大層な名だ。僕も慣れない。

 ルキウスはすっかり旅装を整えて、長く太い杖で地面を軽く叩く。


 あの日、永きに渡る誓約から解放された彼は涙ぐんでいたように思う。

 少しばかりの軽口と大袈裟な身振りで誤魔化していたけど、茶色の目が潤んでいたのを僕は知ってる。

 だから巻き毛を毟るのはまだ先延ばしにしてあげようとちょっとだけ思った。


 小さくなる彼の背中を見送って、僕は後ろに立っていた両親を振り返った。


「父上。母上も。ありがとうございます」

「私達は何もしてないよ」

「すべては女神さまのお導きね」


 彼らは来た時と同じように僕を両側から抱き締め、静かに微笑んで去って行った。

 一度はヌンドガウに返却しようと思った銀の珠は、どうあっても僕とお師匠さまの手首から外れないので、ローズには事の仔細と謝罪を伝えてある。


『加護が無いのは今までだってそうだったわ。何か起きたらわたくしが何とかしてみせる』


 ローズならきっとそう言うだろう。頼りない夫の尻を叩きながら、勇ましく笑う彼女の姿が目に浮かぶ。

 もちろん何かあったらできる限りのことはするつもりだ。友人であり、遠い縁続きである君のためにね。


 みんなが去るのを見届けてから、僕は繋いでいたお師匠さまの右手を引いて歩き出した。

 家の前を通り過ぎ、さらに森の奥へと進む僕に、お師匠さまは不思議そうに首を傾げる。


「レピ?どこへ行くの?」

「いいから一緒に来て」


 道は細くなり獣が通る道筋すら消えた頃、鬱蒼と茂る繁みを掻き分け、その奥へ進んだ。

 目の前に広がるのは澄んだ水を湛えた清らかな泉。下生えを少し踏み固めて、泉の前にお師匠さまを立たせる。


「ここは?」

「僕が精霊に出会った場所だよ」

「何をするの?女神さまにご報告?」

「……ある意味そうかも」


 僕はお師匠さまの両手を握り、緑の柔らかな草の上に片膝をついた。さっきからさりげないふうを装っているけど、緊張で口から心臓が飛び出そうだ。

 けれど僕は真っ直ぐに彼女の翡翠の目を見上げ、大きく息を吸い込んだ。


「お師匠さま……これからも僕をずっとあなたのお側にいさせてください」

「……?そんなの当たり前じゃない。私たち家族でしょ?」

「いいえ、あなたの育てた竜の子ではなく……これからは伴侶として」

「!」


 お師匠さまは息を呑み、その場で固まった。白い頬にじわじわと朱が昇り、視線が落ち着きなく辺りをさまよう。


「でも、わたし、レピよりかなり年上よ?」

「森のふくろうが言ってたけど、この森は出来て100年と少しなんでしょ?お師匠さまの年と同じくらいなら、僕もそんなに変わらないはずだよ」

「だって、でも、私、だらしないし、めんどくさがりだし、すぐ物を爆発させるし、えっと、えっと……」

「そんなこと知ってるよ。今さらそんなことで引くと思ったの?ずっとお側にいます。たとえダメと言われても」


 他に懸念材料は?あるなら全部潰す覚悟だけど?決意を込めて見上げると、彼女は観念したように僕の目を見つめ返した。


「ダメ……じゃないけど……」

「けど?」

「ちょっと待って、追いつかないわ」

「………」


 埒が明かない。戸惑うように揺れる翡翠の目を見つめながら握った彼女の手の平に唇で触れる。こいねがう口づけ。


「……ジェイド」


 彼女の名前。美しい緑の宝石に似た煌めく瞳。

 名前も存在も全てが愛おしい僕のお師匠さま。親であり、子供であり、姉であり、妹であり、大切な家族であり……そしてこれからは恋人でありたいし、生涯寄り添う伴侶でありたい。

 拒まれないことに力を得て、もう一度。いつもと同じように。いつもよりも強く言葉に心を乗せる。


「ジェイド。愛しています」

「……ずるいわね」


 お師匠さま、いや、ジェイドはふくれっ面で紅い髪をひるがえす。そして両の膝をついた彼女は細い両腕を伸ばして力いっぱい僕に抱きついた。


「わたしも」


 呟かれたささやかな音は僕の耳にしっかり届く。歓喜に包まれ抱き締め返した腕に嵌る銀の環が、木漏れ日に照り返してキラキラと輝きを増す。


 静かに抱き合う僕らを祝福するように、泉の青い水面みなもが風の精霊たちの笑い声と共に楽し気に揺れていた。


【完】


番外編に続きます。

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