第五章 灰色のクリスマス

第25話 立花瑞希の憂鬱

 寒すぎる。


 山から下りてくる乾燥した風が、砂煙を立て、銀杏の木々を揺らしながら、地上を徘徊し、校舎の窓をガタガタと揺らす。隙間から校舎内に入ってくる風はとても肌寒く、室内、その中でも廊下は特にひどく、コートが手放せない。


 薄暗い特別棟の廊下。その奥に位置する、新設されたばかりの自習室は、多くの受験生であふれている。少し前までは放課後になると、ここは十分もしないうちに八割がた席が埋まってしまっていたが、指定校推薦の取り合いが一段落ついてからは、そこまで混むこともなくなった。今の時代、一般受験をする者のほとんどは、塾や予備校に通い、勉強しているのだろう。


 かくいう俺も、つい最近までは、毎日のように塾に通いつめていた。


「んじゃ、こっちは自習室行くから」


 自習室の前で立ち止まると、教室の前で偶然出くわしてから、ここまで一緒に歩いてきた竜次が声をかけてきた。


「おう」

「山上氏は受験終わっとるもんな。気楽なものやな」

「ふふん。貴様も俺と同じ次元に来られるように、勉学に励むことだなぁ」


 竜次の言葉に対し、少しネタを交えつつ返答する。というか、こういう質問に、周りよりも早く受験が終わった人間は、どのように返すのが正解なのだろうか。


「まあ、竜次も頑張れよん」

「あんたに言われなくても頑張っとるよ」


 いつまでもこのようなくだらない会話につき合わせても、お互いにとって迷惑なだけである。テキトーな言葉で、会話を切り上げる。


「じゃあな」と返し、自習室の隣に位置する図書室へと向かおうとすると、竜次も俺に、聞こえるか聞こえないかに妙な声で、別れの挨拶をしながら、自習室へと入っていく。


 先ほどまで歩いていた廊下の突き当り、そこにある自習室の前で左へと折れて続く通路を曲がる。すると右手に図書室、左手に大きなガラス張りの壁が見えてくる。ガラスの壁の手前には、一階まで続く、広い階段が降りている。


 窓から差し込むオレンジ色の光、その明るさと温かさが、心地よくもあり、それでいて、得体の知れない不安も感じさせてくる。


 この何もない日常。何もない時間。このような何もない空間があるからこそ、光があるからこそ、得体の知れない恐怖、俺の気付いていない影があるのではないか。そんな不安が、心の中を侵食していく。


 俺はその場から逃げるように、足早に図書室へと入る。


「すみません、返却お願いします」


 言いながら、入ってすぐのカウンターの席に座っている司書の先生に、借りていたショートショートの本を、図書室の利用カードとともに差しだす。


「はい。……あれ? この本、返却期限過ぎていますね」


 小論文指導中に、勉強のために読んでおきなさいと言われ、借りていたものであったこの本。東京から帰ってからすっかり存在を忘れており、受験日の翌日に返却予定だったにも関わらず、二か月近くほったらかしにしていたのだ。


「すみません。受験の都合で返す時間がなくなってしまって……」


 できるだけ事実に基づいた言い訳を考えていたが、司書の先生はこのようなことは日常茶飯事だといった態度で、淡々と事務作業を終わらせてしまう。


「はい。では、次から気を付けてくださいね」

「うっす。すみませんでした」


 これで用事は済んだ。部活も生徒会活動もすでに引退済み。受験も終わっているため、特に勉強をする必要はない。毎日塾に行くことも、自習室に入り浸ることもしなくてよいのだ。しかし、周りはこれからが受験本番。友人も暇ではない。この時期、俺のように早く進路が決まった人間は、特にやることがない。


 だからだろうか。無駄に色々と考えごとをしてしまう時間が多い。それも、こういうときに考えることは、大抵がネガティブなものなのだ。


 それに。それに、彼女たちとの件も未だ解決していない。


 俺は頭の中に浮かんだ記憶をかき消すように、周囲のものに目を向けていく。新刊のハードカバーや最近人気のある高校生向け小説、受験を題材にした漫画なんかが置かれている。視界の中に、様々な非現実が広がっていく。


 自分の生活から極端に離れている創作された世界。表紙のイラストと、個性的なフォントで描かれたタイトルだけでも、その非現実の世界に対する高揚感と、期待が胸の中で膨らんでいく。


 しかし所詮、非現実は非現実。それらの世界が俺を待っているなどということはない。俺は読者という立場から、それらを眺めることでしか、非現実に触れることはできないのである。


 だからこそ、その届かないものを取りに行きたくなってしまう。

自分の望む世界を。


 自分の思い通りに変化していく世界を。


「――そうだね」


 本棚を見つめていると、遠くから馴染みのある声が聞こえてくる。ここは図書室。さらに隣も自習室ということで、多少遠くにいる人間の声も、耳に入ってくのだろう。姿は捉えられずとも、会話の内容ははっきりと聞こえる。


「私も……矢野咲さんにもう一回連絡してみる」

「お願い」


 そう話している声の主は、立花と紫月さん。無意識に、彼女らの居場所を探してしまう。会ったところで話すことはないし、できれば顔を合わせることもしたくもないのだが、それでも、二人と話さなければいけない。そんな気がしてしまうのだ。


 しかし、そう思っていても実際に声をかけることはできない。本棚の影から顔を出し、様子を覗う。


「やっぱり、矢野咲さんとレコードとの接続を完全に遮断しないと……」


 立花に対し話をしていた紫月さんがそれを中断し、席を立つ。彼女は「お手洗いに行ってきますね」と話し、歩みだす。俺は気付かれないよう、本棚の影へと逃げ込む。


「和也くん」


 しかし、隠れるのが遅かったのか、はたまた、彼女はすでに俺の存在に気付いており、わざと席を立ったのか、瞬時に話しかけられてしまう。幸いなことに、その声は立花には聞こえていない。敢えてだろうか、紫月さんの声はとても小さかった。


「ど、どうも」


 彼女のことをしっかりと視界に捉えることができない。


 昔から俺のコミュニケーション能力は絶望的だったが、最近は人と話す機会が増え、少しばかり改善されてきたと思っていた。しかし、こう二か月近くも話していない人物が相手となると、どのように話していたのか、うまく思い出せない。


「和也くん、もしかして聞いていた?」


 彼女の表情から、何を考えているのか読み取れない。レンズ越しに見える彼女の瞳。そこには微笑みのような正の感情も、悲しみのような負の感情もないように感じてしまう。本当は確かに存在するそれを、俺は認識できない。


「いや、本を返しに来たら、たまたま二人が居たってだけで、別に聞き耳を立てていたわけではないですよ。すみません、帰りますね」


 嘘をつく。そして、逃げるようにその場をあとにする。


 紫月さんが、背を向ける俺へ、ゆっくりと右手を伸ばす。その様子を視界の左端に捉えながらも、気付かないふりをし、図書室に出口へと向かう。


 廊下へと出た俺を待ち受けていたのは、先ほどもこちらを照らしていたオレンジ色のまばゆい光であった。太陽が沈んできているのか、照らされている面積は比較的小さくなっている。しかし、それが俺に与える感情は、全くと言っていいほど変わってない。世界に対する希望、心地よさ、暖かさ、そして、その中に垣間見えるささやかな絶望と不安。


 相変わらず、寒い。


 凍える手を温めるように、ポケットへと突っ込む。


 頭の中を整理するように、目を閉じる。


 俺は一体、何がしたいのだろうか。刺激的な戦場、嘘偽りのない人間関係、仲間と再び笑い合うことのできる世界線、そして将来の夢……。皆、非現実を求め、そして、俺はそれを否定し続けてきた。なのに、あのときは立花瑞希を止めた。


 その理由が、俺にはまだはっきりと分かっていない。


 気付くと、太陽が雲に隠され、オレンジ色の光は消えていた。

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