第五話 カウンターの資格ねーよ(1)


     1


 新幹線、東北本線、中央線、山手線――。

 幾本もの鉄道が束になった日本の動脈。

 その高架の上を、どの路線だろうか、一本の列車が轟音をかき鳴らしながら通過していく。高架の向こう、ほんの何百メートルか先は、スマホの地図によると皇居が表示されている。

 もちろん、皇族に知り合いも用事もない。

 今、風歌ふうかきりと一緒に向かっているのは、ヘイトデモの集合場所だ。

 高架の手前、その脇の、歩道と車道からなる細い通路へ入ると、右手にすぐ目的地――中央区常磐ときわ公園があった。敷地の形は二等辺三角形で、底辺にあたる側の生け垣が、そのまま歩道との境界になっている。ビルと高架の狭間にぽっとある、ベンチとブランコだけの小さな公園だ。ほかに強いて挙げるなら、入り口に公衆トイレも設置されている。

 公園のすぐ奥に見えるコンクリートの建物は、名門小学校のそれとのことだ。

「また、こんな場所を選んで……」

 霧が、生け垣越しに園内を一望し、程なくして、その形のよい眉をひそめた。

 小学校だし今日は日曜日なので、校内に児童たちはいないだろうと風歌は思ったが、霧の凜々しくも険しい表情を横目に見ていると、それだけが問題ではないのだろうと思い直した。

 実際、風歌たちが到着したとき、公園にはひと組の親子連れがいて、子はブランコで背中を押されながら歓声をあげているところだった。

 しかし直後、一人の制服警官が親のほうに歩み寄り、申し訳なさそうながらも何やら告げ、親子をやんわりと園外に追い払ったのだ。

 警官はその一人だけではなかった。どこから現れたのか、数人が左右の出入り口を並んで固め、公園へ通じる周辺の道も、同じようにそれぞれ数人ずつその身でもって封鎖していた。いや、封鎖しつつあった。

 そのうち一人が、今度は風歌たちのほうに寄ってきた。

「君たち、どちらまで?」

「この公園です」

 霧が即答する。

「すいません。このあたりは間もなく――」

「立ち入り禁止になるんですか」

「禁止というわけではないんですが、ちょっと集会がありまして」

「知っています」

 霧の言葉と態度に、警官も勘づくものがあったらしい。要求の前に、一つ質問を挟んできた。

「君たち、どちら側?」

「正義を行う側です。あなたたち怠け者に代わって」

 瞬間、警官の物腰から、多少はあった柔らかさが消えた。警官は後ろの同僚たちにさっと手を振り、目配せとともに合図を送った。程なく、霧と風歌は、制服や私服の彼らに歩道の前後を挟まれてしまった。生け垣の向こうにも一人が立ち塞がっている。空いているのは生け垣の反対側、一段低い車道のほうだけだ。

「怯みませんよ」

 霧がなおも気炎を吐いた。

 吐かれたほうも、譲る気配はない。

「そこをね、お願いします」

「争いになりますので」

「頑張っても仕方ないでしょ」

 警官たちは、言葉遣いだけはなおも丁寧だった。表情のほうはほぼなく、あったとしても作り笑いくらいだ。

 ただ、真顔という点で、霧はそれ以上だった。目もとはおろか、口の端にも声色にも柔和さがない。

「争いを避けたいのなら、違法行為を働く者たちをこそ追い払えばよいでしょう。ボクたちのような普通の市民を排除しなくても」

「違法行為って何。誰が? え、誰のこと?」

「これから、この公園に集まるレイシストたちのことです。本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組みの推進に関する法律――いわゆるヘイトスピーチ解消法の違反常習者たち」

「……」

「ヘイトスピーチ解消法第三条。国民は、ヘイトスピーチの解消が必要だとの理解を深めるとともに、ヘイトスピーチがない社会の実現に寄与するよう努めなければならない。――ボクたちは、この条文の定める義務を果たしに来ただけだ」

「……」

「命令とあれば従います。なにせ、こちらは法令を遵守する善良で模範的な市民ですので。ただし、その際はどのような法的根拠に基づいてのことか、あなたがた公務員には市民に伝える義務がある。なのに、これを告げず、あくまでお願いで通すつもりなら、ボクたち二人は従いません」

 え、二人って、私も?

 風歌の額に汗がにじんだ。

 とはいえ、霧の言うことだ。正論なのだろう。なぜなら、警官たちは誰一人として、この小生意気な一高校生にまともな反論ができずにいたからだ。

 論理面ではるか高みに陣取った霧が、あらがうすべを早々になくしたような無抵抗の公務員たちに、どうやらとどめを刺しにかかった。

「警察法第二条。警察は、個人の生命、身体および財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧および捜査、被疑者の逮捕、交通の取り締まり、その他、公共の安全と秩序の維持にあたることをもって、その責務とする」

 霧は一度に言い切った。が、思わぬ誤算か、その条文は、彼らのうち、唯一それなりに法に詳しそうなある一人の制服警官をして、帽子のつばの裏側で、ひそかにニンマリとほくそ笑ませるものだった。

 ところが、だ。

「ただし、その第二項――」

 その誰にも気付かれないでいる笑みを、霧は霧自身も気づかないまま、再び反転させることに成功した。

「警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであって、その責務の遂行にあたっては、不偏不党かつ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法の保障する個人の権利および自由の干渉にわたる等、その権限を濫用することがあってはならない――だ!」

「……」

 両者の間に、春の強い風が吹き抜けた。

「……権限を濫用するな。たとえ奴らが今日、この公園の使用許可を中央区に出し認可を受けていたところで――足もとをよく見てみろ。ここは公道だ。公園ではない。――どのみち、君たちに、ボクたちを排除する正当な理由はないということだ」

「……」

 もはや霧を笑う者はない。ただし、笑みとともに上辺の礼儀正しささえも、彼らは制服私服を問わず、すっかり脱ぎ捨ててしまった。

「つべこべ言わず、いいから早く立ち去れ」

「子供のくせに生意気な」

「ガキども、大人をなめるんじゃあないぞ」

 どちらかといえば、私服警官のほうが口汚い。

 が、言葉の苛烈さにおいても、霧が再び上回った。

「それはこちらのセリフだ。公僕こそ市民を舐めるな。何だ、その言葉遣いは。ご主人様には敬語を使えと警察学校で習わなかったか。『国民主権』は、小学校でも学ぶ我が国の根幹だぞ。お前たちは小学生未満か」

 霧がぴしゃりと言い放った。

 はるか年下の少女に一喝された警官たちは、一様に、いよいよひどく顔をゆがめた。ゆがめつつ、何やら口ごもる者もいる。それをどうにか吐かずに呑み込むと、ふうっと深い息をつき、再び無表情に戻って仕切り直した。

「……暴力沙汰になったらマズいでしょ」

「その時こそ、君たちの出番だ。ボクたちを守れ。市民を守るために君たちは警察組織に入り、税金から給料を受け取る身分となった」

「あのねえ……。とにかく、ここにいられちゃ困るんですよ」

「錯覚だ。実際は何も困らない。むしろ、カウンター不在のほうが社会は困る」

「いいから! もう、いいから!」

 我慢は持続せず、結局は粗雑な言葉に回帰する。ただ、今度はそれを推進力に、彼らはじりじりと間合いを詰めてきた。車が走っていないのをよいことに、職権も腕力も行使することのないまま二人を車道に追いやり、公園から少しでも遠ざけようという算段だ。

 迫りくる人間の壁に、風歌はつい、これを手で受け止め、押し返したい衝動に駆られた。

 が、すんでのところで、霧の言葉が脳裏によみがえった。

 ――いいか、くれぐれも警官の体には触れないように。少しでも触れたら、奴らは大げさに痛がったり、わざと転んだりする。公務執行妨害で逮捕するための転び公妨という手口だ。時には触れていないのに転ぶこともある。そこまでされてしまうと最早どうしようもないが、なるべく隙は与えないにかぎる。だから繰り返すが、少なくとも、こちらからは指一本たりとも触れてはいけない。触れさせようとする誘いにも決して乗るな。

 確認するように、霧がちらちらと視線を投げかけてくる。

 ――うん、分かってるよ。お巡りさんには触れないよ。

 風歌も目で返答し、かつ内心で繰り返した。

 触れちゃダメだ、触れちゃダメだ、 触れちゃダメだ、触れちゃダメだ――。

「――あの!」

 風歌は緊張感もたっぷりに、毅然と警官たちに顔を上げた。

「……お手洗い、行っていいですか?」

 電線の上で、春の小鳥たちが陽気にさえずる。数百メートル離れた駅のホームでは、優しいメロディが乗客たちに一時の安らぎをもたらしている。

 結果として、風歌は公園のトイレに行かせてもらえなかった。近くのコンビニで用を済ませた彼女は、外で待っていた同級生の胸にわっと泣きついた。

「ま、まあ、あれだ。この悔しさをバネに変えてだな」

「下着に替えたよ。なけなしのお小遣いをね……!」

「……ドンマイ」

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