第四章 鱗剃り③

 ◆

「名前、つぐみ眞白っていうのか」


 最後に眞白を買った男は若い男だった。咲人を陳列した『女郎花』の店で出会った男、檻の中にいた眞白を食い入るように見つめていた人間。

 その男に檻から出されて久しぶりに店とは違う場所に連れてこられた。都内の郊外にある小さな寺、男はここに住んでいるのだろうか。


(何がそんなに気に入ったのかしら?)


 眞白の鱗が売れると思ったか、それとも身体目当てか。どちらにしても眞白にとっては何の変わりのない地獄だ。


(もういっその事、こいつを殺して追われる身にでもなってやろうかしら)


 咲人が人間を殺したとなればすぐに追手が掛かって死刑になるに違いない。そうした方がこれから受ける凌辱りょうじょくに耐えるより幾分とましな気がした。

 男は若く体格もいいが隙が多い。男は居間でこちらに背を向けたまま何か書類を読んでいた。こちらの様子など一切眼中に入ってない。


(鱗で喉を切ってやる。一瞬だ、すぐに楽にしてやる)


 眞白は音もなく男ににじり寄った。手の爪先から新たな鱗が生えより鋭利になる。小型のナイフと同等の殺傷力を持つそれを、男の喉元に突き立てるために眞白は背中に飛び掛かかった。

 眞白は男の首を抑えつけ馬乗りになった。呆気ない、後はその喉を掻き切ってやればすべてが終わる。――だが、


『動くな』


 その瞬間、呼吸すら止まるほどの強い覇気に身体が動かなくなる。この感覚はよく知っている。長年眞白を縛り続けてきた、黄蘗というあの醜悪な男がよく発していた感覚だ。

 眞白は男の身体から引きずり降ろされ、畳の上に頬を擦り付けた状態で這いつくばった。いつの間にか周囲が黒い靄に包まれている。苦しい、何も見えない、呼吸が出来ない。


 ――怖い。


(ああ、やっぱりこいつもあの男と同じだ。眞白を力で縛り付けるだけの無慈悲な悪魔だ)


 絶望と畏怖いふに涙が出る。この後眞白に襲い掛かるのは理不尽な暴力か、伸ばされた手にぎゅっと目をつぶる。


「大丈夫か⁉ ごめん、加減がよくわからなくて……」


 しかし眞白に与えられたのは今までにない言葉だった。すぐに眞白にまとわりついていた靄が晴れる。

 男は鱗塗れの眞白の手を取ると眞白を起き上がらせる。鋭い鱗は触れるだけでも皮膚を傷つけるのに、その男は躊躇ちゅうちょなく触れた。

 男の顔を直視した。その男はひどく慌てたようにこちらの様子をうかがっていた。


「五帝の力、使うの初めてなんだ。俺自身もまだ感覚がわからなくて……」


 その男は眞白よりずっと大人びているのにまるでしかられた少年みたいな面立おもだちをしていて、


「君を傷つけるつもりはなかったんだ。……ごめん」


 彼は本当に申し訳なさそうに、眞白に頭を下げた。


「……俺は鐵洸輔。五帝の――五帝になったばかりの人間だ」


 その人は曇りのないまっすぐな目で眞白を見た。化け物と呼ばれ続けた眞白の姿に物怖じなど一切なくて、


「俺は君を買った。――けど、君を縛り付けるつもりはない」


 温かくて、柔らかくて、眞白の全部を受け入れてくれそうな力強さで、


「君が……普通の女の子として生きれるようにしたい。ダメかな?」


 少し躊躇いを帯びた笑顔に、眞白の奥底で忘れていたはずの光が灯った。




 息苦しさに目を開けると、そこはいつもと違う天井だった。


 ――ああ、私。体調崩して寝ちゃったんだ。


 確か吉川の病院で眠っていたはずだけど、今眞白がいたのは気を失う前に横たわったベッドではなかった。狭い部屋にベッドが二つ、見慣れない部屋。でも、


「起きたか?」


 すぐ側には彼がいたのでほっとした。彼の大きな手が眞白の額を包む。冷たさが気持ちよくて眞白は目を細めてほうっとため息をついた。


「良かった。熱下がったな」

「……」

「ここホテルだよ。病院から運んできた、全然起きなかったから」


 窓の外はすでに暗くなっていた。どのくらい意識を手放していたのかわからない。


「食欲あるか? とりあえず食べられそうなもの買ってきたけど」


 鐵は手元のコンビニの袋から飲み物やゼリーを取り出した。そのうちの一つが目に留まる。


「……これか?」


 眞白の指の先にあったのはプリンだった。どこにでも売っているポピュラーなものだが、スーパーに売っている三個セットのものと違って、内容量が大きい単品のものだ。


 ――それがいい。


 眞白が目で訴えると、鐵はプリンのふたを開けて、小さなスプーンですくった。起き上がった眞白は餌を要求するひなみたいに口を開けてそれを待つ。


「美味いか?」


 眞白は首を縦に振った。美味い、というより懐かしかった。


『あんたそんなにこれが好きなの? 安上がりだね』


 昔女郎花にいた頃、琥珀の客の一人が琥珀にいつもお菓子をくれるらしくて、良くおすそ分けをしてもらった。中でもお気に入りだったのが三個セットになった小さなプリンだ。

 一つは眞白、一つは琥珀。そしてもう一つも眞白。琥珀がもらったものなのに、いつもその多くを眞白に与える。眞白はその優しさに甘えて生きてきた。


 プリンの甘さとカラメルのほろ苦さが、脳裏にあった思い出を鮮明に引き起こす。辛く悲しい想いしかなかった過去に潜んでいた、二人だけの甘美な記憶を。


「眞白?」


 ハッと我に返ると目の前にはスプーンを差しだす鐵がいた。引っ込められそうになったそれを追いかけるように眞白はスプーンに飛びつく。


「……そんなにプリン好きだったんだ。初耳」


 彼はおかしそうに笑っていた。その笑顔が記憶の琥珀と重なる。


 ――ああ、私は、また人の優しさに甘えている。


 与えてもらうばかりで、眞白は一向に返せない。自分には彼らみたいに出来る事がないから。

 いつも誰かに寄生する。そうして眞白は生きている。


『側にいてやるだけで十分だよ』


 一か月前に出会った老婆はそう言ってくれたけれど、眞白は与えられるだけじゃなくて、きちんと返したい。返したいのに、


「早く元気になれよ」


 そう言って差し出される甘いはずのプリンは、口の中でほろ苦さを残して溶けた。

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