第二章 墨殺し⑥

 ◆

 観音寺正明との邂逅かいこうを終えると、鐵はおぼつかない足取りで麻耶と真人のもとに戻った。

 どうだったかと期待の目で尋ねる二人に、正明は体調が悪く問診にならなかったのでまた明日改めてうかがうと嘘をついた。


「でしたらここに泊まっていってください。お部屋ならいくらでもご用意できますから」

「いえ、そこまでしていただくわけにはまいりません。駅前のホテルを取っておりますので」


 正直一度この家を離れた方がいいと思った。あの暗い部屋で見た正明の様子や、この家全体を覆う仄暗ほのぐらい影。


 ――この家は何かおかしい。


 それを突き止めるためには、この家の外からこの家の情報を集めた方がいい。

 麻耶の勧めを丁重に断って、鐵は押川の町に出た。街は長閑で雰囲気も明るい。観光地にもなっているのか、平日にも関わらず旧家の通りには旅行客の団体がいた。

 と、古い家屋を眺めながら歩いていると盛大に腹の虫が鳴る。


「そういえば何も食べていなかったな」


 時刻は午後二時を回ろうというところだった。腹ごしらえと情報収集をねて、鐵は近くの小さな食堂に入った。


「はい、お待ちどうさま。日替わり定食だよ」


 ご飯に味噌汁とミックスフライという平凡なメニューだったが、中々に美味しかった。箸を進めながら店内の様子を探ると、観光客の多い中地元の常連客もちらほらと見受けられた。


「お客さん、観光かい?」


 横のテーブルを拭きに来た店員の女が鐵に話しかけてきた。食堂の女将おかみらしい、少しふくよかな熟年の人のよさそうな女性だ。店は夫婦で切り盛りしているようで、厨房の方に夫らしき男性の頭が見える。


「いえ、仕事です」

「そうかい。でもせっかく来たんだから観光もして行きなよ。ここは全国でも珍しい江戸時代の旧家屋が残ってるところだからね」


 確かに街並みはまるで戦前にタイムスリップしたかのような古めかしさがあった。その景観がこの町の売りらしい。


「この店は創業から長いんですか?」

「四十年くらいかな。うちの主人の父親が始めた店だからね。私も元々ここの地元出身だし」


 それなら観音寺の家の事も知っているだろうか。


「でしたら少しこの町の事で聞きたいことがあるのですが」

「なんだい? 何でも聞いとくれ」

「この通りの突き当りにある、観音寺さんというお宅をご存じですか?」


 女将の手が止まった。さらに店内にいた客の何人かがこちらに怪訝けげんな目を向ける。

 一瞬にして、店内の空気が変わった。


「……あんた、観音寺さんとこの関係者かい?」

「いえ、仕事であそこの奥さんから依頼を受けてこの町を訪れたのですが……」


 鐵が詳しい事情を省き依頼の事を説明すると、女将は深く息を吐いてけわしい顔をする。


「ここだけの話ね、この町の住人は皆あの家とはかかわりを持たないようにしてるんだよ」

「と、言うと……」

「あの家は戦前このあたり一帯の土地を所有していた大地主でね、ここに昔から住む人たちは皆、あの家の小作農だったのさ。まあ、よくある話でね。この町の人間はあの家の者には逆らえなかった。もし反感を買おうものなら村八分むらはちぶにされて、移住先にも圧力をかけられたって」


 鐵は目を見開いた。戦前の地方の封建社会は閉塞的へいそくてき陰湿いんしつだが、この地域においてはあの観音寺の一族による支配政権が確立していたのだろう。


「そういう歴史があるから今でもここの町の人間は観音寺さんには極力関わらないようにしてるんだよ。――触らぬ神になんとやら、ってね」

「なるほど」

「それに今のご長男――正明様には変なうわさがあってさ。なんでも生まれながらの物のきの忌み子だって。――咲人のたぐいじゃないかって言っている人もいたね」


 それはおおむね事実だ、と鐵は心の中で頷いた。やはり隠蔽いんぺいされた正明の存在は町の住人の間でも異質にとらえられているらしい。


「学校にも通わずずっとあの屋敷で過ごしてたって、生きていればもう大分いい歳だと思うけど。それで町の人間は、あの家は呪われているなんて噂してさ。今じゃ滅多なことじゃあの家には寄り付かないよ」

「次男の真人さんの事は何か聞いたことがありますか?」

「ああ、あの人はよく町にも顔を出しているね。厳格な人だから近寄りがたいけど、仕事は真っ当な事してるみたいだし。だけど……ねぇ」


 女将は言いにくそうに厨房にいる夫に視線を投げかけた。昼時の仕事が一段落して手隙てすきなのか、夫もカウンターから身を乗り出して鐵の話を聞いていた。


「あそこの次男坊、言っちゃ何だがかなり怪しいぞ。今の観音寺家は海外製品のおろしをやっているそうだが、正直儲もうかっているようには見えない。その割に羽振はぶりがいいし、何か怪しい売買に手を染めてるんじゃないかってもっぱらの噂だ」


 確か本人もあまり儲かっているわけではないと口を滑らせていた。その割には豪勢な屋敷を所有し、使用人も大勢雇っていた。怪しいと言えば怪しい。


「時折あの人の商売仲間らしき人があの屋敷を出入りしているらしいが、そいつがどうも胡散臭うさんくさい奴でね」

「商売仲間?」

「ああ、俺も一回見たことがあるが、派手な服着た恰幅かっぷくのいい男で腕や首にジャラジャラと宝石を付けた悪趣味な奴だった」


 その瞬間、鐵の脳裏にある人物の顔が思い浮かぶ。まさか、という思いを飲み込んで、鐵はぐっと奥歯を噛んだ。


「怪しいっていやぁ、あそこの奥方二人も変だな」

「ああ、滅多に顔出さない真人様の奥さんと、正明様の若奥様ね」


 琥珀こはくと麻耶の事だ。


「あの二人の結婚も突然だったな。式も内々でやってたみたいだし」

「真人様は再婚だったしそんなもんじゃないかい? 正明様の奥さんは……あれはどう見ても遺産目当てのような気がするけどね。年も相当離れているし」

「いやあ、俺が見た感じではあの家の中では一番まともそうだったがなぁ。それよりも次男の嫁の方が――」

「いやいや、正明様の方が――」


 夫婦は何やら自分の知る噂を語りだし白熱し始めた。関わり合いにならないようにしていると言っていた割には色んな事情を知っているものだ、と鐵は苦笑する。

 時計の針はまもなく午後三時を指そうとしていた。一度駅前のホテルに行ってチェックインをするか、と鐵は立ち上がった。


「そういえば、真人さんの奥さんの弟の事はご存じですか?」

「ああ、あくた君の事? あの子はいい子だよ。愛想はあんまりないけどね」


 レジで会計をしながら奥さんが笑いながら教えてくれた。


「そうですか、ありがとうございます」

「こちらこそどうも。またいらしてくださいね」


 営業スマイルに見送られて、鐵は店を後にした。




 駅前のホテルにチェックインし終えると、鐵はホテルのロビーで公衆電話を借りた。何度かのコールの後に、礼儀正しい女の声が返ってくる。


『はい、東京医科大学付属総合病院でございます』

「すみません、私鐵というものですが、吉川葵に繋いでもらえますか」

『吉川科長ですか、かしこまりました、少々お待ちください』


 待機メロディが流れ程なくして気のいい男の声が受話器から聞こえてきた。


『もしもし、洸輔。何か用か?』

「ああ、悪いな葵、忙しい時にかけちまって」

『いいよ、さっき問診巡回が終わって休憩してたんだ。それで、用件は?』

「お前に少し聞きたい事があるんだ」


 鐵は呼吸を整えると、受話器を握る手に力を込めた。


「お前最近黄蘗おうばくがどうしてるか――」


 だがその時、ぷつりと電話が不自然に途切れた。ツーツーと鳴る受話器に呆然ぼうぜんとしていると、


 カチリ


 冷たい金属音がさわがしいはずのロビーに響いた。背後から背中に冷たい金属が押し当てられる。


「動かないでください」


 若い男の声がした。鐵は視線だけで様子を窺う。受話器の切断ボタンを押したのだろうその男の手が戻され、そいつの姿は完全に視界から外れる。

 背中に突き付けられているものは見えない。その男はそれが周りの人間に見えないように鐵に密着していた。


「受話器を置いて、まっすぐ部屋に戻ってください。声を上げずに、いいですね?」

「……わかった」


 鐵は男の指示通りに受話器を置き、不自然に思われぬようゆっくりと歩き出した。男は離れ、突きつけられていた金属も離れたが、それがまだ鐵に向いている事はひしひしと肌で感じる。


(畜生、一体なんだってんだ……)


 エレベーターの中でも男は始終鐵の背後を取り無言だった。気まずいどころの話ではない沈黙に冷や汗をきながら目的の階に到着するのを待った。

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