君の声で聴かせてほしい 全年齢版

夜行性

君の声で聴かせてほしい

01話 出会い

 しまった、そう思った時にはもうすでにバランスを崩して、その人にぶつかっていた。


 夜のカフェ、店内はいつもより人が多くて、まだ仕事に慣れない俺は、狭い通路をすれ違う時に気をつけていたつもりだった。だがスマホをいじりながら歩いてくる二人連れの若い女性を避けようとして、体を大きく反らせたのがまずかった。


 体を支えようと咄嗟に伸ばした俺の手が、すぐそばの席に座っていた男性客の肩を掠めてテーブルを揺らした。その男性客は、突然覆いかぶさるように手をついて倒れかかった俺に驚いて振り向く。二人連れの女性達はちらりとこちらを見て、何事もなかったように店を出て行った。


「申し訳ありません!」


 俺は慌てて謝る。凍りつくような一瞬に、周囲の視線を集めてしまったのがいたたまれない。幸い左手に持っていたトレーは空だったが、男性客のテーブルの上を見ると、ほとんど氷しか入っていないグラスが倒れて小さな水たまりを作っていた。その男性は、ゆっくりと俺を確かめるようにじっとこちらを見る。


 仕事帰りのサラリーマンだろうか、襟元を緩めたシャツに紺色のパンツ。額に落ちかかる一筋の髪とまぶたの影が、彼の一日の疲れを感じさせる。俺の周りで見慣れた学校の教師とも就活中の先輩とも違う、大人の男性だった。


 眼鏡の奥の視線はどこか遠くを見ているような、何も見ていないような、不思議な光を浮かべていた。涼しげで切れ長の目は伏せ気味で、長いまつ毛が白い頬に影を落としている。驚いて僅かに開いた唇は酷薄な印象だが、微かに血の色を帯びていて目が離せない。俺はつい不躾にその人を見ていた事に気づき、ハッとする。


「あの、服にかかりませんでしたか?」


 慌ててそう言い、すぐに倒れたグラスを直す。先輩のスタッフが飛んできて、テーブルを拭き、俺の隣で一緒に謝る。見たところ服も、テーブルの上のPCも無事なようだ。その人は一人で来て仕事をしていたらしい。突然のことに驚いてはいたが、とくに腹を立てる風でもなく、むしろどことなくぼんやりとした様子で自分のPC を撫でるように触ってから、


「大丈夫です」


 と静かに答えた。先輩が飲み物を新しく持ってくると伝えたが、もう飲み終わっていたから、と辞退して、その人は再び画面に向き直った。ちらりと見えたデスクトップには、三センチ四方ほどの大きな文字が並んでいた。俺は、デザイナーか何かかなとぼんやり考えつつ、もう一度申し訳ありませんでしたと謝ってテーブルを離れた。


「混んでる時はお客さんもこっちが見えてないから気をつけてね、川瀬くん」


 先輩の美咲さんはそう言って俺の背中をポンと叩いた。この店でバイトを始めて二週間、俺はまだホールの片付けやお客へのサーブをどうにか覚えた程度だ。コーヒーを頭から浴びせるなんて失敗は恐ろしすぎる。それにPCも無事でよかった。弁償することになったら……バイトを増やすか? 借金か? ただでさえ部屋代と生活費で精一杯なのに借金なんて考えただけでゾッとする。


 大事には至らなかったものの、ヘマをやらかした俺は沈んだ気分で、ひたすらエスプレッソマシンを洗って冷蔵庫の中身を整理した。夢中でシンクを磨いて、美咲さんにもういいよと言われたときには十時を回っていた。


 ――年上、だよな? 三十代くらいか。俺はさっきの男性客を思い出していた。親父みたいにオッサンでもない、かと言って先輩たちみたいに子供っぽくもない。吸い込まれるようなその雰囲気に俺は思わず視線が釘付けになった。年上の、しかも男に目を奪われるなんて、俺はよほど動揺していたのだろうか。


 肌が白かった。それにあの髪、真っ黒で細い、柔らかそうな髪だった。俺は自分の頭に手をやる。あまり短く切ると立ってしまうコシの強い髪だ。大学の同級生たちはみんな入学と同時に染めたりパーマを掛けたりしていた。あんなに黒くて艶のある、黒猫みたいな髪の毛の人もいるんだな、と漠然とその手触りを想像した。俺はちらりとさっきのあのテーブルを見たが、あの人はもうそこにいなかった。少しがっかりしたような、変な気分だった。


「あの、さっきの人大丈夫でしたか」


 俺は恐る恐る美咲さんに尋ねる。


「ん? ああ、さっきのお客様? そうね、いつの間にか帰っちゃったみたい」


 なんか、不思議な人だったな、と我ながら失礼なことを思いながら、閉店作業を続けた。十一時、営業を終えた店の鍵を閉め、バイト仲間の五人は従業員の通用口から外へ出た。


 夜の駅前はいつも人が多くて、騒がしくて、少し疲れる。五人はまさかの、これから飲みに行くつもりらしい。当然始発が動き出すまで飲むのだろう。俺も誘われたが、明日は一限に出席しなければ。それに何より金が惜しい。俺は朝が早いからまた今度、と断って四人と別れた。


 駅までの歩道、ふらふらとよそ見をしながら歩いてくる連中を避けながら早足で改札へ向かう。飲み屋ならいくらでも開いているのに、本屋はこの時間どこも閉まっている。だから俺はいつもどこにも寄り道しないで、真っ直ぐ部屋に帰るだけだ。


 俺の暮らす部屋はルームシェアという名の雑居房だ。五人で住む部屋は個室ではあるものの、壁が薄く、隣のやつのイビキまでよく聞こえる。俺はワイヤレスイヤホンという魔法でそんな雑音から切り離された自分の世界に入る。PCを開き、今はまだ俺にしか見えない俺の世界をタイピングしていく。


 その夜、俺は遅くまでキーボードを叩いた。思いのほか執筆が捗り、気づいたときにはもう三時を過ぎていた。俺は慌てて歯を磨き、シャワーを浴びて布団に潜り込む。

 

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