第6話 父と母と里帰り

*ぼくのお父さんの話

ぼくの父は山口の田舎の育ちで、こち亀の両さんの父親にそっくりな人物であった。口ぐせは『だまされる方が悪い』で、怒りっぽくて荒い人だった。


けど、遊びに関してはいろいろ知っていて、父と二人で風呂に入った時に『タオル気球』という浴槽でタオルに空気を入れながら、水の中に入れて膨らませる遊びを教えてもらったことがあり、その時期は嵌ってよくやっていた。これは浴槽で時間をつぶすには最適で、よく肩までつかって100数えてなどと言われる時にやっていた。


また、家族でファミレスに寄った時に、『指かくし』という遊びを教えてもらったこともある。これは両手の掌の指を交互に組んで、その内の一本を内側に折り込み、どの指が中に入っているかを当てるゲームである。これは待ち時間にやるのが丁度いいくらいのゲームで、複数人でもできるので、家族4人のうち誰かが出題し、他の3人が当てるという形で遊んでいた。


それと、川に行った時に『水切り』という遊びを習ったこともある。この遊びはまず河原で平らな石を探して来て、次にその石を持って構え、最後に水面と水平に勢い良く投げるというやり方だ。放たれた石は地面にバウンドするのと同じ要領で水面を何度も跳ねて行き、最終的に勢いがなくなった時には水の中に落ちて行くのである。


 距離よりも跳ねる回数を競うことが多い遊びで、どれだけ勢いよく水面に対して水平に投げられるかがポイントであった。跳ねる際には最初は間隔が大きいのだが、最後の方になると小刻みに跳ねるようになり、失速して少し右に曲がりながらもちょろちょろと跳ねて行くのがなんとも言えずおもしろかった。


 このようにいろいろな遊びを教えてくれたのだが、『テレビを見ている間は集中するために会話をしてはいけない』という岡本家特有のルールがあったのと、夜9時には床に就くような『かなりの変わり者』だったので、土日以外はほとんど会話をしないような感じだった。


 剣道をやっていたことで足が短くなったと語っており、確かに見た感じ他の子のお父さんと比べて短いような気はしていた。凄く字がきれいで“ぼくは大人になってもこんな字は書けないな”と思っていた。

父親(ぼくの祖父に当たる人)がぼくが生まれる前に早世したことがキッカケで健康マニアになり、青汁や野菜ジュースを山ほど買い込んではせっせと飲んでいたのをよく覚えている。



*ぼくのお母さんの話

 ぼくの母はセルフサービスというわりには死ぬほどおせっかいだったり、30点を100点と思っているような節があり、何かと抜けていて、自己肯定感が強い人だった。基本的に『人の話を聞かずに自分が一方的に話す』というスタイルを貫いており、ぼくがこうやって文章をしたためるようになったのも、幼少期から誰かに話を聞いてほしいという欲求を溜め続けて来たからに他ならない。


学生時代はテニスをやっていたのだが、練習をサボって友達とダベって帰ることが多かったようで、あまり真剣にはやっていなかったらしい。


 唯一頑張ったのは受験勉強らしく、その時期には10円ハゲができるほど勉強し、有名な大学の教育学部に入って勉強に励んだそうだ。その後、教育実習を経て山口の離島で教師になり、2年務めたあと、見合いで父と結婚したらしい。


 国語教師であったことに強い誇りを持っているようで、『勉強しなさい』と全然言われなかったぼくも、漢字の書き順についてだけは、いつも口うるさく言われていた。とにかく話すのが好きな人で、寝る前に本を読み聞かせてくれたり、妹と3人で自分で創った出鱈目な話、『でたばな』をしたりして遊んでくれていた。


 因みにぼくはこの『勉強しなさい』を人類最低の発言だと考えていて、これは「今からロケットで月に行きなさい」と言っているようなものだと思う。設計図を渡して現物を見せ、技術者と協力しながら作成しなければ、到底このようなことは無理なのである。


 やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かないのである。


*田舎への里帰りの話

 千葉から母の実家がある下松の家に行くのはいつも大変で、まず東京駅まで在来線で出てそこから新幹線のぞみに乗って広島まで行き、こだまに乗り換えて山口県の徳山駅まで行って、更に在来線で二駅先の下松駅まで行かないといけなかった。


 1987年、国鉄がJRになった年に生まれたぼくではあったが、音(こだま)より光(ひかり)が速く、目に見えない望(のぞみ)がそれより速いということを、当時のぼくはよくわかっておらず、親に言われるまま着いて行っていた。


道中は約8時間くらい掛かり、ほぼ半日潰れるので、おじいちゃんとおばあちゃんの家に着いた時には一仕事終えたような感覚になっていた。


 東京駅へ向かう方を『上り』東京駅から出て行く方を『下り』と言うが、田舎へ帰るのは長期休暇の時だったので、東京からの下り電車の中はいつも混んでいた。ぼくが子供だった頃の1990年代後半には東海道新幹線のぞみは時速270kmで走行しており、東京―大阪間は約2時間30分で走破できていた。


 だが、それは度重なる技術革新があったためであり、開業年の1964年(東京オリンピックがあった年)まで、ひかりが210kmで4時間かけて走行していた。その翌年に徐行区間(ゆっくり走るところ)がなくなったことで3時間10分で行けるようになったものの、それから約20年ほどはその状態だった。


この頃は九州と東北、北海道にも新幹線がない時代で、1992年にのぞみが開通してからしか乗ったことのないぼくは、かなりラッキーだったのかもしれない。

ほとんど毎回父は後から合流することになっており、母と妹と3人での帰省で徳山駅まで親戚のおばさんが迎えに来てくれて、駅舎の中にあるフグのハリボテの前で待ってくれていた。


それから車で昔は光市と呼ばれていた今の周南市を通り、母の実家まで連れて行ってもらっていた。ぼくたちの乗った車が家の前に着いてバックで駐車場に入ろうとすると、おじいちゃんとおばあちゃんが待ちきれずに駐車場で出迎えてくれていて、それが凄く嬉しかった。


タクシーで土気駅へ向かって在来線で行った東京駅は、小学生の少年にとってはとても大きく見え、ここが日本の首都なんだと思うとなんだか胸が高鳴る気持ちがあった。1995年までは今とは違って明るい雰囲気があり、景気が低迷し続けていても悲壮感などは漂っていなかった。


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