第19話 五十嵐の決意

安威川 泰毅との試合で辛くも引き分けた明だったが、その後、豪州最強のテクニシャンで、『マリックビルの誘導弾』と言われる連打で敵を打ちのめす、ダニエル・フェネックという選手を撃破し、東洋太平洋チャンピオンであるグラッチェ浜松との対戦が決まった。


1週間の休養を経た後、試合に向けてのジムでの練習開始前に五十嵐から話があると言われ、明と秋奈はいつもより少し早めに来て待つことにした。待つこと10分。疲れたように五十嵐がジムに入って来た。


「二人とももう来ていたのか。話と言うのは今後の練習についてでな。2ヶ月後から俺がつきっきりで赤居の練習を見ることにする」

これまで練習は全て秋奈と行っていた明は、やっと五十嵐から教わることができると喜ぶ反面、つきっきりと言う言葉に引っ掛かりを覚えた。


「そいつは嬉しいことだが、おっさんは自分の練習はどうするんだ?今まで練習が忙しくて見てやれねえって言ってたじゃねぇかよ」

「そのことなんだが、俺は次の試合を最後に引退しようかと考えているんだ」


「いいのかよ、おっさん。ボクシングが好きで今、14度も防衛してて日本記録なんだろ?このまま勝ち続ければ記録を伸ばせるってのに。まさか、俺のコーチをするために引退するんじゃねえだろうな」


「そうだよ、叔父さん。何もチャンピオンでいる間に引退することはないんじゃない?まだやれるって口癖のように言ってたじゃん」


「お前たちの気持ちは嬉しい。だが、これはもう決めたことなんだ。俺はボクシングを始めた時に最強を目指していつも鍛錬に励んできた。そして今回、最強と言える相手と試合をすることができるんだ」


「最強――どんな奴なんだよ、そいつは?」

明は五十嵐に最強と言わしめる男に興味を示さずにはいられなかった。

「マイク・レイ・ロビンソン。アメリカ、ニューヨーク出身のボクサーだ」

「マイク・レイ・ロビンソン?知らねえな」


明はニュースや新聞など見ないため、世の中のことなど全く分かっていない様子だ。

「お前如きがその名を口にするのも烏滸(おこ)がましい男だ。21戦21勝、無敗。この男に勝てる奴はバンタム級で史上最強と言われるに相応(ふさわ)しい。奴は俺の一つ下の階級のチャンピオンだった。それがこの度階級を変え、俺の前に立ちはだかったって訳さ」

いつになく嬉しそうな五十嵐を見て、明はこの話を受け入れることにした。


「分かったよ。おっさんが決めたんなら、それでいい。7月からよろしく頼む」

聞き分けのいい明に対して秋奈は不満そうだが、口には出さなかったようだ。

「お兄ちゃんにも――話していいかな?」

五十嵐は少し考えた後、柔らかい言葉を選ぶようにして言った。


「お前の好きにしろ。あいつは多分、見には来ないと思うがな」

秋奈は悲しそうにしないように努めた。

「赤居、今度の相手は一段階レベルが上がるぞ。今までの相手とはタイプが異なって来る」五十嵐の言葉は発破をかけるための脅しではない、明は直感的にそう感じた。


「あの安威川よりも強いってのか。一体、どんなタイプなんだよ?」

「今までお前が対戦してきたのは、攻撃型の選手ばかりだ。平凡なコーチでも攻撃型の選手は育てられるが、有能なコーチでなければ防御型の選手は育てられない。防御主体のグラッチェと闘うのは、思いの外、骨が折れると思うぞ」


「その防御型の選手ってのは、なんで今までの奴らより強いんだ?ただ守るだけなら、そこにパンチを打ち込んじまえばいいじゃねえか」

明は一般的に頭が良いと言われる部類ではないが、妙に核心を突くことがある。


「良い質問だ。攻撃型は体重が前にかかり、相手のパンチのダメージをもろに食らうのに対し、防御型は相手が襲い掛かって来るのを仕留める頭脳型の選手だ。KOされにくく、ダメージも受けにくい」

「俺は攻撃型だよな?じゃあ、なんで最初から防御型にしてくれなかったんだよ」

明の鋭さに五十嵐は感心しつつもこう答える。


「経験を駆使し、高度な防御技を身に着けなければちょっとやそっとじゃ防御型にはなれないのさ。打たなければ負けてしまうボクシングの世界で、KOパンチを食らわないようにしながら、虎視眈々と機会を伺うことの難しさが、今のお前になら分かるだろう」   

五十嵐の言葉に一切の嘘はない。


「そうだったのか。まあ、おっさんがそう言うんなら信用するぜ」

「それでだ、赤居。お前にはこれから下半身を徹底的に鍛えてもらう」

「下半身のトレーニングか。一体、何をやればいいんだ?」


「足の親指を強化するために、これから試合の3日前まで毎日欠かさずに、葛西(かさい)海浜(かいひん)公園で一日10本×3セット50mダッシュをしてもらう。1本も手を抜くんじゃないぞ」

五十嵐は練習についての話をする時、いつも目を輝かせて話していた。


「分かってるって。そんじゃあ、勝ったらまた雷鳴軒に連れて行ってくれよな」

「雷鳴軒!!お前も行ったことがあるのか?俺はあの店のラーメンが大好きなんだ」

「何言ってんだよ、おっさん。一年前に一緒に行っただろ」

 五十嵐は目を見開いた後一瞬真顔になったが、すぐに話しを再開した。


「そうだったな。いや、なに、軽いジョークで言ったまでさ」

「ビックリさせんなよ。まんまと騙されちまったぜ」


 五十嵐の蟀谷から顎にかけて、一筋の汗が滴り落ちる。

「はっはっは。まだまだ未熟な奴だな」

 何気ない会話でのこの言葉を、二人は違う意味で捉えていた。


「それからな。試合前に取って置きを教えておいてやろう。クロスクリューは破られる可能性のある技だ。しかし、俺は『改良』する方法を知っているからな」

 明は嬉しそうな笑顔を見せている。

「おお~頼もしいな。流石は世界チャンピオン」

“脳天気なのは悪いことばかりではない”五十嵐はそう感じていた。



それから秋奈にタイムを計測してもらいながら、毎日メニューを熟し、50m走が6.2秒から6.1秒で走れるようになった。


そして迎えた決戦の日。1984年6月9日、名古屋国際会議場で、3000人の観客の前で東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松との対戦が行われようとしていた。中部国際空港があれば、時間を惜しんで空路という選択肢もあるだろうが、1984年には1964年10月に開通した東海道新幹線で向かうのが関の山であった。


この日のために明は秋奈と一致協力して練習に励んできた。負ける訳には行かない。

この試合に勝てば、初めて『タイトル』を手にすることができる。ボクサーにとってベルトとはつまり『憧れ』であり、どんな苦難を乗り越えてでも手にしたい至高の一品なのである。試合開始一時間前、わりとリラックスした明が控え室を出ようかと扉を開けると、偶然にもグラッチェ浜松が通りかかった。


「おう、赤居くん。君もトイレか?」

彼の素っ頓狂な言葉に明は思わず笑ってしまいそうになる。

「なんだよ、おっさん。俺は今からやる、安威川と古波蔵のおっさんの試合が見たいんだよ」


眼中にないと言われた気がして、一瞬グラッチェの目つきが鋭くなる。

「そうか~今日はいい試合をしような」

「そうだな。だが悪いけどベルトは俺が貰うぜ。五十嵐のおっさんとの約束だしな」


「ふふっ。そう言えば五十嵐くんの教え子だったな。残念だけど、東洋太平洋のベルトは僕の腰に巻かれている方が似合っているのさ~」


そう言い残すと、グラッチェは自分の控室へと帰って行った。大一番の東洋太平洋タイトルマッチとあって、声が裏返りそうなほど張り切っている司会の男がアナウンスを始める。


「今日の対戦は皆さんご存知の東洋太平洋チャンピオン、グラッチェ浜松選手と先日、安威川 泰毅選手と激闘を繰り広げた浅草の闘犬、赤居 明選手の対戦です」

観客が沸き上がり入場曲が流れ終わった後、両者リングへと上がった。


「グラッチェ選手は身長167cm、体重118ポンド(54kg)で34歳。高知(たかち)ジム所属で、銅色のトランクスがトレードマークです。戦績は29戦22勝4敗3分5KO、頑固で意思が強い選手として有名です。ジムで教えていた後輩を叱り飛ばし、泣かせてしまったことがある程です。赤居選手は拳を縦に重ね、まるで小さな武士のような格好で構えるボクサーです」


軽快な口調に、会場のボルテージが一気に上がって行く。審判の男がルール説明を終え、五分後に試合が開始されるという。米原との最終確認にも余念がないよう留意する。


「いよいよここまで来たな。どうだ、今の気分は?」

「興味ねえよ。俺が目指してんのは世界チャンピオンただ一つだ」

「頼もしい限りだな。昔、敬造が言った言葉と同じことを言うとは」


「絶対におっさんのベルトは俺が引き継ぐぜ。空位になるバンタム級の世界王座に就こうとするには、東洋くらいは制覇しとけって言われてるからな」


 本気の本気。今日という日まで、これで勝てなければ、おかしいというところまで追い込んで来た。


「相手が日本人で良かったな。OPBF、東洋太平洋ボクシング連盟が仕切る試合では、地元判定に泣かされる選手が多いというのに運の良いことだ」

 米原は遠い目をしながらそう語った。


「運も実力だからな。俺は今日の日のために、それを活かせるだけの努力をして来た。だから、勝ちが巡って来る可能性は十二分にある筈だぜ」


「その通りだ。国内王者、ナショナルチャンピオンになりたかった訳ではないだろう。さあ、栄冠を勝ち取って来い」

明は米原に促されるままに、リングへと躍り出て行った。


矛盾ばかりの組み討ちありて、尾張の中心(なから)で雌雄を決す。

『絶対防御』グラッチェ浜松。


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