後編1

 ひとみは以前に仕事で取材をしたというバーに案内してくれた。

 半地下に構えられたそのお店の看板は路地裏に行燈的役割を持って白色に輝いている。店名は【みゆき】。なんだか、スナックみたいな名前だ。


 ドアを開けると、取り付けられたベルが鳴って私たちの来店を店内へ告げる。私たちのお店でも同じ物だ。丸く素朴な音色が落ち着ける雰囲気を作ってくれる。


「いらっしゃいませ、あら、ひとみさんじゃないの」

 グラスを拭いていた女性がカウンターから出て、出迎えてくれる。

 真っ黒なニットで細身のラインがくっきり出ているのに弛みがない。照明の落とされた店内でもわかるほどに肌が真っ白だ。若々しくもあり、それでいて大木のような頼もしさも見られる。店を切り盛りする人間として、感嘆する。私にも旦那にも、まだこのような雰囲気は出せない。


「世話になるね、マスター。今日は友人と2人で来た」

「そう、じゃあいつもの席でいいわね」

 そうして案内してくれたのは店奥のボックス席だ。仕切りは無いが、近くに置かれたレコードプレーヤーのおかげで内緒話がしやすそうだった。


「よく来るの?」

「仕事で来て以来、すっかりハマってね」

 ここは元々マスターのお母さんがスナックを開いていた店を改装して出来たそうだ。


「だから、みゆきなんだ」

「そうなの。居抜きさせてもらう条件が名前を残すことだったからね」

 ドリンクを持ってきたマスターが教えてくれる。

「こっちが、ひとみさん。これがお友達ね」


 1杯目はひとみのおススメを注文した。カクテルグラスの淵に塩でデコレーションされたソルトスノウカクテル。全体的に赤色だが、下から上に濃淡のグラデーションとなっていて真ん中あたりが綺麗な桜色の層を作っている。

 ひとみの前にも同じものが置かれている。マスターがわざわざ区別して置いたことを不思議に思いつつも、彼女がグラスを掲げたので、私も同じく掲げる。


「乾杯」

「乾杯」

 グラスを合わせようとして、2人が動きを止める。


「1杯目にこれは失敗だったかな」

「塩が落ちないようにしないとね」

 笑いあって、遠慮がちに音を鳴らす。

 淵の塩を舌に乗せながらグラスを傾けると、フルーツ系、塩で引き締まった味覚がグレープフルーツの甘みを引き立て、そのあとにザクロ系の粒だったような酸味が後味を爽やかに纏めた。


「美味しいっ」

「それはよかった」


 まじまじとグラスを眺める私を見つめるひとみはどこか自慢げだった。美味しいものを勧めて、私が期待通りの反応をすると、彼女は決まって同じ表情をする。私も嬉しくなって、つい美味しい美味しいとオーバーに喜んでしまう。

 なんとなく、ここでスイッチが入った。

 さっきまで風前の灯火だった熱がアルコールのおかげで高まったのかもしれない。


「ねえ、今もなにか企んでるの?」

「企んでるって。悪者みたいな言い方だな」

「いいでしょ。面白いこと、私にも教えてよ」

 そうだね、とひとみが口を開く。今携わっている雑誌での新企画。ずっと、暖めている新しいタイプの雑誌創刊。出版と言う枠を飛び越えるような、イベントの開催。どんどん出てくる、ひとみの夢。実現できるかどうかは考えていない。必ずさせるし、そのために必要なステップも披露してくれる。私もカフェ経営をしているし、前職で得た知識からも可能なアドバイスを挟む。


 私も私で、やりたいことをひとみに語る。旦那とやっているカフェの今後。新メニュー。SNS戦略。


 なんだ、戻れるじゃないか。やっぱり、ひとみは以前の通りだ。5年という月日で見た目に変化こそあれ、彼女は昔通りの熱を持っていて、火を放てる。


「ごめん、お手洗い」

 3杯目の途中でひとみが席を立つ。

「大丈夫?」

「うん、心配しないで」

 彼女は弱い方ではない。ただ、同じものを注文していて、少しアルコールが強いカクテルが続いているから、もしかしたらと気にはなってしまう。


「もう、こんな時間か」

 スマホで時間を見る。

 終電にも近い時間だ。

 そろそろ、次を考えなくてはいけない。


 左手に嵌めた指輪の上に、旦那の顔が浮かぶので目をつぶってかき消す。ごめん、これは違う。愛しているのは本当だ。恋を忘れられないだけで。

 瞼の奥、沈みそうになる眼球にかつてを再生する。


 1人暮らしをしていたひとみの部屋。荷物は全て、就職先近くの新居に発送して、ベッドすらなくなったフローリングの上。私たちは最後の夜を過ごした。


 コンビニでお酒や食べ物を買い込み、だらしなく胡坐をかいたりしながら、駄弁って、笑って、珍しく叫んで、寂しくなるのが嫌で、なぜか電気を消して寝ることにした。余計、しんみりした気持ちになりそうだが、当時の私たちはその日が最後だと認めたくなかったのだろう。無理してこの日を謳歌する必要はない。なぜなら、同じような日をまた迎えられるから。社会を知らない私たちは、そんなものを簡単に手に入れられると考えていた。


 だけど、電気を消したらやっぱり駄目だった。2人は無言で、車のエンジン音だけが響くのに耐えられなくて、少し泣いた。固くて冷たいフローリングにも耐えらなかった。


 温もりと柔らかさを求めて、どちらからともなく互いの背に手を回した。おでこをくっ付けて、2人の髪が床に落ちて混ざり合ってできた影の形は今でも鮮明に覚えている。


 さぁ、唇を求めたのは果たしてどちらからだったろう。そこだけは、丁寧にこしたクリームみたいに曖昧だった。確実なのは唇が触れた瞬間、私が身を引いたことと「ごめん」と澄んだ呟き。


 ごめん、ひとみ、あの時は。ずっと、引きずっていたんだ。気づいていたんだ。自分の臆病で、ひとみが遠ざかってしまったことを。なんで、あの時応じなかったのだろう。もっと、強くぎゅって抱きしめられなかったのだろう。1人になるとそんなことばかり考えているんだ。


 だから、今日はちゃんとハッキリしようと思ってきた。5年の間に知らないひとみになっていたらどうしようって不安だったけど、そうじゃなくて安心した。謝って、伝えよう。


 ひとみがトイレから戻ってきた。


「ひとみ」

 名前を呼んで、踏み止まる。戻ってきた彼女の顔が青白い。

「ごめん。そろそろ出ようか」

 彼女は席に座ることなく、壁に掛けてあるコートに手をかけた。

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