第150話 幻影


 開けた窓からふわりと入ってきたそよ風は、朝から忙しく動いているオニキスとフォルの働きを労うかのように、頬を優しく撫でる。


 一度ゆっくり瞬きをしたオニキスの瞳。そこに映る木々の葉は緑濃く、気持ちよさそうに揺れ、花々には様々な色のドレスを纏った蝶が蜜を嬉しそうに分け合い、舞い踊っている。


「皆が素敵な一日を、送れるように」

 愛する女性――ベリルの言葉を自然と口にしたオニキスは心の中で、願う。


――私の愛しいベリルよ、どうかアメジストを護り、支えてあげてほしい。


 いつも凛とした表情で皆に接する愛娘をずっと見守ってきたオニキスは、蝶に語りかけた。


 その願いを聞くように一頭の薄緑色をした蝶がオニキスの前を楽しそうに、舞い始める。それはまるで彼女ベリルが天使となりこの場に降り立ち、美しき蝶の姿で『ダイジョウブ』と、微笑んでいるように視えた。


「ふふ、そうか……ありがとう」

(いるはずのない君の影を追いかける。そう、叶わぬ私の幻想だとしても)


――またいつか、君に逢いたい。


「旦那様、お茶をお持ちしましょうか?」

 フォルの一言で我に返ったオニキスは振り向き、答えた。


「あぁ、そうだな。商談が早まったおかげで、時間が持てたよ」

「はい、三十分程予定が空きましたが――」

「そうか。では一度、書斎へ戻る。――書類確認を先に終わらせておこう」

「かしこまりました」


 商談前、本日の予定をフォルと確認した際にオニキスが言った時間――十六時。それは彼が食事の部屋を出る前、愛娘アメジストにしか聞こえぬよう急ぎ伝えた言葉。「話がある」と、約束をした時間であった。


「午後から行く洋服店。店主と会うのも久しい」

「はい、年に一度でございますので」

「うむ……そうだ。アメジストに、新しい服飾を見繕ってやろう」

「それは良案でございますな。旦那様からと聞けば、お嬢様も飛び上がってお喜びになられることでしょう」

「はっはは、それは言い過ぎだ、フォル。まぁ、そうだと私も嬉しいがね」


 珍しく嬉しそうに笑い娘へ贈り物を、と考えるオニキス。

 そんな彼の父親としての顔に、アメジストにとって祖父のような存在でもあるフォルは目を細めた。娘を思いやる親心が良き変化を起こしているとはオニキス自身、全く気付けていない。


「さて、祭典が楽しみだな」


 この時はまだ服飾の祭典開催の時間と場所の変更があったことを知らない彼はその後、ジャニスティの報告を受けると厳しい表情へと戻るのであった。

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