第118話 仕事



 オニキスと執事フォルを追い食事の部屋から出たスピナは黙って大人しく、後ろをついていく。しかし彼らの話(仕事)にまるで興味のない彼女は陽気に「ふふぅん、うふふ♪」と、鼻歌を歌い始めた。


 そのご機嫌な声を気に留めることもなくオニキスたちの話は、続けられる。


「本日は午後より、街で行われる洋服店の――」


 先方の勝手で時間の早まった交渉の席。しかし来客を待たせるのはオニキスの主義に反する。やむなく朝食前とは別の通路を通り急ぐ、オニキス。向かう客間まで続いている美しく毛足の短い絨毯じゅうたんの床を大股で、足早に歩いた。


 その歩幅にしっかりと合わせ予定を簡潔明瞭に伝える執事のフォルは真っ直ぐとした姿勢で悠然と歩きながら、進んでいく。いつも通り淡々と話すその様子から先程起こった食事の部屋での出来事を、全く気にしていないことがうかがえる。


「あぁ、分かった。十六時からはどうなっている?」


 これが二人にとって特別な朝、という訳ではない。この見事なやり取りは毎日、行われているのだ。


 一日の始まり。

 光輝く太陽が上り、そして暮れ暗くなるまでのオニキスが動ける限られた時間の中。彼がこなさなければならない仕事はとてつもなく、多い。その為、移動中は貴重な時間なのだ。


 それがどんな場所であろうと、幾重もの確認を怠らない。


「はい、旦那様。本日その時間は……書斎にて書類確認の予定でございますが」


「そうか。それは良かった」


 夕方からは屋敷での仕事だと分かるとオニキスは一瞬、安堵の表情を浮かべ、フォルに目を合わせる。


「旦那様、言わずとも承知いたしております。わたくしはその時間、皆と茶会の準備を」


「あぁ、とても助かるよ。フォル」

「いえ、滅相もないことでございます」


 すぐ後ろにスピナがいるからか二人とも深く言葉を発することは、ない。『あるじの視線が、何を語っているのか』と、今の状況を瞬時に把握出来る執事フォルの澄ました顔がベルメルシア家で持つ力をより、一層漂わせていた。


「ははは、ありがとう。頼りにしているよ」

「身に余るお言葉、恐縮です」


――そんなオニキスには、心休まる時がなかった。


 ベルメルシア家の主として普段から本音を見せず、周囲に疲れの色も感じさせない。


 そのオニキスが唯一このベルメルシア家の一切を任せることが出来ると慕う相手――執事のフォルに笑顔を送るとすぐに仕事の顔へと、表情を変える。


 そう、辛くとも。

 周囲に魅せる表情はいつだって涼しいのであった。

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