第32話 楽しかった、運動会!

 ああ、遂に今日という日が来てしまった。

 七時半に鳴る目覚まし時計、俺は当たり前のような顔で教科書をバッグに入れる。

 まるで昨日までの日々が嘘のようだと感じた。


 ドアを開ける。

 こんな朝早くに外へ出たのはいつぶりだろうか?


 俺は晴れた空を睨み、少し肌寒くなってきた事を感じながら通学路を進んだ。


 ……帰りたい。

 学校へと近づくにつれ増える学生の数。

 各々数人で固まって雑談なんかをしながら歩いている。


 俺はそんな姿を見て、意味もなく苛立った。

 この感覚も久しぶりだ。俺がいなくても周囲は勝手に回っていく。

 けれど目につく全てが空転しているように見えて、嫌いだ。


 俺は視線を地面に向けて、ただ歩く。

 夏休みは空をよく見ていた気がしたけれども、社会と直面すると俺は強制的に俯かされるらしい。


 かわいいだの、マジヤバいだの、大衆の表層を撫で合うようなコミュニケーションには嫌気が差して仕方がない。

 ……まあ、結局全ての人間関係から逃げ出した挙句、子供に絆された俺が何を言えた義理でもないが。


 俺は何も見ないようにしながら、ひたすら通学路を消化することに努めた。

 そうしていれば、気が付くと学校に辿り着くことを知っているから。有している処世術の数で言えば、俺はちょっとしたものだと自負している。


 さて、想定通り気が付けば教室は目の前だ。

 今日が夏休み明けだからか、或いは大衆が朝に弱いのか、周囲はシンと静まり返っている。

 俺はガラリと戸を開けた。


 音がした瞬間、咄嗟にこちらの見たのだろう。

 一人だけ登校していた名倉さんと目が合う。


「あ……」


 数秒無言で見つめ合う。


「…………」


 口を開こうとした。すっと視線を逸らされた。


「色々と、ごめん」


 君の全てを受け入れられなくて。


 口の中で呟いた、音にもならない掠れた声は、果たして彼女に届いただろうか?

 返事は無かった。彼女は、こちらを見ることさえしなかった。


「…………」


 まあ、致し方あるまい。

 俺は静かに諦めて、そっと音を立てないよう椅子を引く。


 それと同時に、教室の戸が開かれてガヤガヤと数人のグループが入ってきた。

 あとは波のように断続的に、人の数が増えていく。

 名倉さんは女子数人と「夏休みはどうだった?」なんて当たり障りのない会話を始めた。

 そのときの彼女の表情はやはり上手な嘘に覆われていて、紡ぐ言葉も嘘だった。

 けれど、誰も嘘に気が付かない。


 まるで俺が彼女と二人きりだった夏休みなんて無かったかのようだ。


 時間は八時十五分、夏休みは終わったのだと俺は理解した。



+++++



 ……面倒くさいことこの上ない。

 これが学校というものに対する俺の感想であるが、殊更に面倒くさいのは何と言っても体育祭にまつわるあれこれだ。

 出場競技決め、入場練習、リハーサル、本番。

 これらは運動と協調の両方が苦手な人間に対する拷問と言って差し支えない。


 そして今、このクラスで体育祭の出場競技決めが行われている。

 尤も、うちの学校は比較的体育祭に力を入れていないため、上手い事やれば一人二人は出場する競技を全員参加のラジオ体操と綱引きのみに抑えることができるのだ。


 でもまあ、こういうのは運だからな。

 特に積極的に動くことなく、ただ座って待つくらいしかできることはない。


 誰もやりたがらない競技……例えば長距離走や、教員と合同で行うレクリエーションの参加者を決める番になると、騒々しい連中が音頭をとってその競技に関連する部活をやっている奴や、小さくなっている奴を槍玉に上げる。

 その癖、自分に白羽の矢が立ちそうになると「や、俺はアレやから」などという意味不明な言い訳で一ウケ。それの何が面白いのかはまるで分からないが、取り巻きが笑った後、大衆に笑いが波及する。


 聞くところによれば連中は、言葉と言うよりも空気とかいう目に見えない何かを読んでいるらしい。

 そのときに名倉さんも笑っていて、それが少し不愉快だった。


 まあ、彼女の性質を考えればここで笑うのは当然なのだが。


 俺は腕を組んで顔を埋め、寝たふりをした。

 こんな行動をしては目立つので今の状況では悪手だが、そんなことは知るものか。

 どうせそのうち適当な競技に割り当てられるのだ。


 俺が視界を塞いで思考に耽ること十数分、話は聞いていなかったが、何やら嫌な動きを感じた。

 投げやりで、どこか悪意を伴った声。「まあいいっしょ」「えー」「めんど」「じゃ、決定で」「いちお、聞いた方がよくね?」「別に良っしょ、寝てる方が悪いし」耳に飛び込んできた最後の言葉で、この蔓延するうっすらとした悪意が自分に向けられたものだと理解する。


「はい、じゃあこれで決定で良いね?」


 教師の声が響き、なんとなく場の緊張が弛緩する。

 俺はゆっくりと顔を上げた。

 最初に見るのは黒板の出場表、俺の名は応援団の項の下に記載されていた。


「…………」


 想定外に最悪の結果だ。

 応援団に関しては夏休み以前にメンバーが決まっていた筈なのだが。

 寝たふりをして考え事に耽っていたせいで、まるで流れが掴めない。


 周囲を見渡した。

 チラチラと視線を感じる。


 あぁ、こういう時って周り全部が敵に見えるな。


 俺は努めて気にしないふりをして、自然に視線を黒板へ戻した。

 ともあれこれで夏休み明け初日は終了だ。後はホームルームを終えて……部活に顔を出したら帰るだけ。


 教師が前に立ち、ホームルームが始まる。

 話の内容はありきたりで、夏休み明けだからこそ気を引き締めるようにとか、体育祭に全力で取り組みましょうとか、そういった定番の流れ。

 別に教師は感情を殺しているわけでもないのに、どこか淡々としているように思えた。


 まあ、毎年担任を繰り返している彼女にとっては体育祭なんて何十回目かも分からない行事だ。

 今更恒例行事に特別感を抱けと言うのも酷な話だろう。


 俺が何となく話を聞き流していると、教師は最後にこう締めくくる。


「じゃあ、今日はこれで終わり。あと、放課後応援団はミーティングあるから、名倉さんと浅野くんも忘れずに残るようにね」


 俺は心を殺して、ただ諦めることに努めた。


 教室からだんだんと人が消えていくなか、数人の応援団らしき連中がボンヤリと一か所に集まり始める。

 その中心にいたのは野球部の陽キャ、大塚。恐らくこいつが団長なのだろう。

 大塚は授業中いつも騒々しいから、体育祭で一番の騒々しさを撒き散らす団体の長と言えばこいつしか有り得ない。


 そんな益体も無いことを考えつつ席を立ち、俺は人の輪から更に一回り離れた位置に収まった。

 それからしばらく待っていると教室に残っているのは応援団だけになる。

 ……が、一向に何も始まらない。


 元来応援団だった五人は、毒にも薬にもならない頭の悪い雑談を続けている。

 俺はこの場がどういった集まりなのかを理解した。

 それから後は、予想通り酷いものだ。


 応援団の輪から半歩だけ後ろで上手に笑っている名倉さんと、少し離れた席に座って読書をしている俺。

 主体性もなく体育祭に興味も無い人間を加えたのだから、当然と言えば当然の結果だろう。結局、練習らしい練習が始まったのは三十分後だった。


「じゃ、名倉ちゃんと……あー、君、浅野クン。今日はとりあえず俺らの練習見て動き覚えて。あ、てか振り付け、替え歌の元ネタのサビと一緒だから、次までに動画見て覚えて来てよ。もう体育祭近くて俺らも教える余裕とかないし」


 大塚はそれだけ言うと、ウェーイと応援団の輪の中に帰って行った。

 確か、体育祭が二週間後だったか? だとすれば他学年の応援団員へ指導が開始するのは今週中だろう。

 きっと、日程的に教える余裕がないというのは事実なのだろうな。

 まあ、それなら最初の三十分を雑談で潰したのは悪手ではないかと思うのだが、どうでも良いか。


 ボンヤリとそんなことを考えながら、応援団の練習を眺める。

 明日までには覚えるように言っていたが、応援団の中でも振り付けが完璧なのは副団長の女子一人しかいないように見える。


 ……流れとしては、合計三分の内に一曲二十秒のダンスを三曲で一分。残りの二分は、入退場と相手チームへのエール、なんか板を割る奴、なんか一年生に背後でウェーブを作ってもらいながら歌う奴、で消化するらしい。


 俺が覚えるのはダンスとエールの動き、そして一年生をバックに歌う奴の三つか。

 ダンス以外にもエールの動きは妙に凝っていて覚えるのが面倒くさそうだ。団員も案の定覚えきれていないようだし。


 ……動画や歌詞の紙で確認できる歌とダンスは一先ず置いておいて、今はエールを覚えるのに集中すべきだな。


 俺が動きを眺めつつ要所をメモしていると、ふと隣に名倉さんが座って来た。


 ドキリとした。自然と鼓動が早くなった。

 未だ事ある毎に首を絞められたトラウマが癒えていないのだ。


 しかし俺は、彼女の去り際の表情を見た。

 もう首を絞めてくることは無いと分かっている。そして本心を話してくれることも……きっともう無い。


 すれ違って時が過ぎた名倉さんとの関係は、既に終わったことなのだ。


 俺が勝手に作った責任なんて、相手には何の意味も無い。あゆみが窓ガラスを割ってまで俺のところに来てくれたことで、そう考えるようになった。


 けれども、やはり名倉さんに話しかけることができない。

 不用意な俺の行動が名倉さんを傷つけたことは、責任なんかとは関係のない、ただの事実だったから。


 結局俺は練習の時間が終わるまで、メモに集中して隣の名倉さんに気が付かないフリを続けた。

 あんな奇怪な動き、すぐに覚えてしまっていたのに。

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