第30話 初めて家に泊めたのは

 駅から歩いて十分ほどの場所に楓子の住んでいるマンションがある。弟の紅葉は物珍しそうに辺りを見わたしながら楓子の後ろを歩いている。


 マンションのエントランスを抜けて、エレベーターで楓子の部屋がある三階まで上がっていく。駅からずっと楓子と紅葉は話すことなく無言で、楓子の部屋までたどり着く。鍵をカバンから出してドアを開けて紅葉を中に招き入れる。


(初めて部屋に泊める男性が弟っていうのはなあ。いや、そもそも、部屋に誰かを泊めるのは紅葉が初めてだ)


 楓子はちらりと弟の顔を盗み見る。大学の美耶以外の友達とは長期休暇の時に会うくらいで部屋に呼ぶことは無い。仕事の同僚でそこまで親しい人はいない。彼氏にいたっては、大学中にできなかったばかりか、社会人になっても出来ずに楓子はいまだに独り身だった。


「お邪魔します」


 紅葉は律儀に挨拶していた。誰もいない部屋に紅葉がやけに大きく響いた。楓子がリビングに入って荷物を置くと、紅葉も同じように荷物を置いて、その場で大きく伸びをする。そして、リビングに置かれたソファに身を沈めて大きく伸びをする。まるで自分の家のようにくつろぎ始める弟の姿に思わず笑ってしまう。


「ちょっと着替えてくる。紅葉はその服のままで大丈夫そうだね」


「それって、もし俺が服を貸してくれって言ったら、貸してくれるってこと?こういう時、姉ちゃんと体型が変わらないと便利だな。それ以外にメリットがないのは難点だけど」


 楓子と紅葉は体型が似ている。楓子は女性にしては身長が高く、反対に紅葉は男性にしては身長が低い。二人はほとんど身長差がなかったため、服の貸し借りが出来るのだった。とはいえ、楓子は男物の服装に興味はないし、紅葉も女物の服に興味がなかったので、服の貸し借りをしたことはない。


 紅葉は一度自宅に戻っているので、楓子と違ってラフな格好をしている。着替える必要はないだろう。


 寝室に入り、楓子は急いでドレスから家用の上下灰色のスウェットに着替える。ふと視界に姿見が目に入り、立ち止まって全身を確認する。そこには二十代半ばの女性が映っていた。どこから見ても女性にしか見えない。もし、楓子が男だったら……。


 どうにもならないことを考えてしまい、楓子は慌てて首を振ってその考えを頭から追い出す。ほかに考えるべきことはたくさんある。


(紅葉を守るためにはどうしたらいいだろうか)


 もとはと言えば、親友の本性を見抜けなかった姉の失態だ。大学を卒業して自分たちのことを忘れてくれたのかと思ったのだが、逆に会えなかった分、感情が暴走して大変なことになっていた。あれはもう、恋愛感情とか愛とかを超えて、もっとドロドロした感情に変質してしまっている。それを元の純粋な感情に戻すことは不可能だ。



「今から夕食作るのは面倒だから、コンビニで何か買ってくる?」

「ああ、食べるもの買うの忘れてた。さっき駅からここに来る途中で買えばよかったね」


「ねえちゃん」

「な、何?」


 マンション近くのコンビニに行こうと玄関に向かった楓子だが、恐る恐る視線を弟に向ける。真剣な表情の紅葉に楓子も背筋を伸ばして話を聞く体制をとる。


「先輩はこれからどういった行動をしてくると思う?もう、俺たちに干渉してこないかな?」


「それはない、と思う」

「だよね」


 今回、どうして自分たちを美耶の家に招かなかったのかわからない。しかし、これで彼女の気持ちが楓子から離れていくとは思えない。どういう心境の変化があったのか、今、楓子たちは自由の身となっている。それがいつまでも続くと思えるほど、楓子も紅葉も楽観的にはなれなかった。


「ぐうう」


 大事な話はここで中断になる。紅葉の身体が空腹を訴えた。楓子は急いで近くのコンビニに向かった。


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