碧き海の戦士と天穹の花嫁

那月 結音

 夢の終わりは、いつだって同じ。


 どこまでも広がる青空を背景に、少女は歩みを進める。

 颯々さっさつと吹き抜ける風は冷たく、草花が素足を撫でる感触は妙に現実味を帯びていた。頭上も、眼下も、雲ひとつなく晴れ渡っている。

 空に浮かぶ島、その中をあてもなくさまよえば、そこかしこから清冽な水が湧き出る森へと行き着いた。深緑の樹々の合間を、極彩色の鳥たちがいっせいに羽ばたいていく。

 幼い頃から幾度となく見た光景。知るはずなどない、記憶ですらあるはずのないそれを、少女はどこか懐かしむような気持ちで眺めていた。

 一対の咆哮が、虚空を切り裂く。はるか上空では、二体の影が舞い遊ぶように旋回していた。

 いつもそうだ。いつもここで、得も言われぬ不安と昂揚にさいなまれる。

 それでも、歩みは止められない。このあと待ち受ける展開を知っていてなお、少女は森の奥深くへと進んでいく。

 進んで、進んで、辿り着いた。

 一匹の、巨大な竜のたもとへ。

 真白い鱗に覆われた、しなやかで優美な躯体。陽だまりに悠然と腰を落ち着ける様は、さながら時を重ねた大樹のよう。

 白竜が少女を見下ろす。まるで焔のように真っ赤な瞳で、優しく、慈しむように。

 少女が腕を伸ばす。白竜の首が降りてくる。

 小さな手が大きな口に触れたとたん、ゆっくりと、澄んだ空気が震えた。

『——……、ジーナ……——』






「ん……」

 肌寒さをおぼえて目を覚ますと、最初に映ったのは読みかけの本だった。タイトルはたしか、『薬草と毒草の見分け方』。どうやら読んでいる最中に眠ってしまったらしく、見開きページの両側がしわくちゃになっていた。

 とはいえ、先を読まずとも中身はほぼ把握できている。この本を読むのは、これで21回目だ。

 寝ぼけ眼をこすりながら、凝り固まった上体を起こす。テーブルに長い時間伏せていたせいで、腕や背中がきしきしと悲鳴を上げた。

「また、あの夢……」

 夢の終わりはいつだって、白竜に名前を呼ばれて訪れる。

 何度見ても変わらない結末に一抹のゆかしさをおぼえつつ、ジーナは立ち上がって伸びをした。行き場のない、誰かに伝えることさえできないこの感情にも、もう慣れた。

 ——慣れた。殺風景なこの部屋にも、けっして恵まれているとはいえない、この境遇にも。

 染みついた諦観とともに、視線を屋外へと投げ出す。部屋にある窓といえば、唯一、この小窓だけ。ジーナの顔よりもひとまわり大きいだけのそこからは、茜色の空が見えた。もうすぐ、山の端に陽が落ちる。

 ここは塔。城の、尖塔。

 カルヴァリア帝国の皇女として17年前に生を受けたジーナは、物心ついて以来ずっと、ここに幽閉されている。はじめは母とふたりで過ごしていたが、五歳で母を亡くしてからは、ひとり孤独に月日を重ねた。

 春も夏も秋も冬も、ずっと。嵐の日も雪の日も、ずっと、ずっと。

 ジーナを幽閉したのは、実の父親である皇帝アングイス二世。異常なばかりの野心家で、目的のためなら手段を選ばない人物だ。

 父を父として慕ったことは一度もない。異母兄がいるらしいのだが、話したこともなければ会ったことさえなかった。そもそも、いるはずのない存在として扱われている自分には、会わせる必要すらないのだろう。

 ジーナの存在は、国民はもとより、城の人間にも明かされてはいなかった。城内でジーナのことを知るのはごくわずか。父と兄、それから、食事や着替えを運んでくる侍女と、この塔を見張る衛兵たちだけである。

 しだいに濃くなる黄昏に包まれ、群れ立つ小鳥が帰っていく。

 今日もまた、代わり映えのない、空虚な一日が去っていく。

 自分が生きているというこの現実を呪いながら、ジーナはベッドに力なく倒れ込んだ。

「……?」

 と、ここであることに気がついた。おもむろに、ベッドの縁へと座り直す。

 もうすぐ夜だというのに、まだ夕食が届いていない。いつもなら、もうとっくに食べ終えているはずなのに。

 それだけではない。三時間ごとに時刻を告げる鐘の音が、この日は正午以降、一度も鳴っていないのだ。

 ……なぜ?

 答えてくれない可能性のほうが高いが、外の衛兵に尋ねてみようか。

 そういえば。

 先ほどから、なんだか階下が騒がしい。

 空気がひりつく。

 うねりが、押し寄せてくる。


 ド・ォン


 轟音を伴い、部屋の扉が一瞬にして吹っ飛んだ。

 目を開けていられないほどすさまじい衝撃波。それと同時に、ひとりの衛兵がごろっと転がってきた。

 正確には、

 かろうじて胴体と繋がった頭部はぐちゃりとつぶれ、腹部からは臓物がどろりとはみ出ていた。錆びた嫌な匂いが、たちどころに充満していく。

 声を上げることすら、目を逸らすことすらできないまま、ジーナはこの蛮行に及んだ兇徒きょうと三人と相対した。

 返り血を浴びに浴びた浅黒い肌。鋼のヘルメットから垣間見える、色素の薄い髪と瞳。けっして魁偉とは言いがたい容貌だが、軽装備から覗いた肢体は固くひき締まっていた。

 ジーナは気づいた。……気づいて、戦慄した。

 男たちの右上腕に彫られた、太陽を模したトライバルタトゥー。それは、彼らがとある島の戦士であることの表徴であった。

 サクラ・インスラ。帝国と覇権を争う連邦の一構成地域で、大海に浮かぶ小さな島。

 いつだったか、史書で読んだことがある。いわゆる戦闘民族である彼らは、戦になれば常に最前線に駆り出され、多大な戦果を挙げるのだと。最前線で敵を殲滅しては、連邦での地位を確固たるものにしていったのだと。

「衛兵がいたってことはそういうことなんだろうけど……帝国に皇女がいるなんて話、聞いたことねーぞ」

「白い髪に赤い目か。皇帝や亡き皇后とは似ても似つかないな。……どうするマリス。この女、殺すか?」

 男たちは訝しそうにジーナを見やると、ジーナの処遇について、もうひとりの仲間に伺いを立てた。

 蔦の模様が精緻に施されたアイガード、そこから炯々と覗く碧眼がジーナを捕らえる。三人の中ではいっとう若く見えるが、どうやらマリスと呼ばれたこの男が、彼らを率いているらしい。

「……オマエ、ほんとに皇女なのか?」

 血まみれの戦斧を片手に、マリスがジーナに詰め寄る。

 彼がその手を振り下ろせば、自分など一瞬でただの肉塊と化してしまうだろう。仮に首を横に振ったところで、状況が好転するとはとても思えなかった。

 ここで、ジーナは目を伏せた。そもそも……と、自問する。

 そもそも〝好転〟とは……?

 自分は、道具。父の野望のために囚われ、そのためだけに生かされている、ただの道具。

 はたしてこのままでいいのだろうか。いっそのこと、今ここで彼らに殺されたほうが、自分にとって好ましいのではないか。

 彼らに殺されれば、確実に血が流れる。それも、大量の。

 ジーナは、例のあの夢を思い浮かべた。母の言っていたことが事実なら、地上に降りてくるはずだ。

 が——。

「……わたしはジーナ。カルヴァリア帝国の、第一皇女です」

 マリスと対峙したジーナが、凛然と告げる。まるで珠玉たまのごとく玲瓏な声で、凜然と。

 迷いなどない。思いの定まった赤い双眸には、一片の翳りもなかった。

 城が、陥落する。

 歓喜の雄叫びが、濃紺の空へ駆け上がる。

 祝福の篝火が、唸りとともに明滅する。

「合図だ」

「おい、マリス」

 ジーナをどうするか、いまだ明確な指示がないことに痺れを切らし、後方から急かすように声を飛ばす。おそらく撤収の刻限が迫っているのだろう。彼らの仕事は、ここで終わりだ。

「……決めた」

 ようやくマリスが口を開いた。待ちわびたとばかりに、ふたりは揃って息をつく。

 彼が出した指示に従う。たとえそれがどんなものでも。それが、島の掟。

 ……が、戦場という地で、ともすると、ふたりは失念していたのかもしれない。

 マリスという人物の、ぶっ飛んだこの思考回路を。

「島に連れて帰る」

 瑞々しい口もとが笑みを象るやいなや、マリスは大胆不敵にこう言い放った。

 予想外も予想外の返答に、ふたりの目が点になる。意表を突かれ、思わず口をつぐんでしまったが、「ああそうだ、こいつはこういうやつだった」とすぐさま反論した。

「馬鹿お前仮にも皇女だぞ!! 何考えてんだっ!!」

「まったくだ!! それにそんなこと上の連中が認めるわけないだろうっ!!」

 ぎゃいぎゃいと、弟を叱りつける兄のように、ふたりして一気にまくし立てる。間違いなく、ふたりは今この日一番興奮していた。

 一方のマリスは、ふたりの諌言などどこ吹く風。あどけなさの残る、されど自信に満ちた表情で、はっきりとこう言い切った。

「認めさせるんだよ。今回の作戦はオレらありきで進められた。現にこうして成功してる。……誰にも文句は言わせない」

 こうなったマリスは誰も止められない。意見を曲げることは絶対にない。そもそも自分たちは反対できる立場にない。

 ふたりは頭を抱えながら、先ほどよりもさらに大きな溜息をついた。

 しかし、このあと。

「……もし認められたとして、だ。連れて帰ってどうする? 奴隷にでもするのか?」

「いや」

 もはや呼吸も忘れるほどの衝撃が、この狭い空間を震撼させた。

「嫁にする」

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