(16)
「――ハルさん! ハルさん!」
酔っ払いのエルンストを家に残して、学園へとやってきたハルの気分は最悪と言ってよかった。
ハルは自分が、エルンストの問いに満足な答えを出せたと思っていない。その不甲斐なさに腹を立て、また八つ当たり気味にわざとこちらを煽るような言い方をしてきたエルンストにも腹を立てていた。
今は授業を受ける以外にだれにも会いたくない――。そう思っているときに限って、声をかけてくる人間が現れる。
背後に迫る靴音と、声だけで振り返らずともだれかはわかる。アンジュだ。
ハルはアンジュともソリが合うとは思っていない。アンジュはハルより真面目で、優等生的で、杓子定規なところがある。そんなアンジュと今会話をすれば、喧嘩になってしまいそうな気がして、気分が重く沈む。
ハルはアンジュのことは嫌いではない。アンジュのような生真面目な人間は世に必要だとも思っている。しかしそれはそれとして、なんだかソリが合わないから、ふたりのあいだでささやかな言い合いになるのは珍しいことではなかった。
駆け寄ってきたアンジュを振り返る。「用があるならあとにしろ」と言うつもりだった。しかし――
「ユーリさんが元の世界に帰るかもしれないって噂、知ってます?」
アンジュは、ピンポイントで今ハルがして欲しくない話題を持ち出した。
ハルはうんざりとした気持ちになって、それが顔にも出ていたのだろう。アンジュはハルの表情を見て、こちらが噂をすでに聞き及んでいることを察したようだ。
しかしつい今しがた、その件でエルンストとやり合ってきたことまでは、さすがのアンジュもわかりはしない。それどころかハルが噂について聞きつけること一度、その件について問われるのはアンジュで三度目だ。ハル自身が明確な答えを出せていないこともあり、うんざりもする。
けれど、よくよくアンジュの顔を見て、ハルは虚を衝かれたような気持ちになった。
「ユーリが元の世界へ帰れるかもしれない」――噂話。それを口に出したのは他でもないアンジュだというのに、彼は――今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。
ドがつくほどに生真面目なアンジュは、同じくらい気も強い。それこそ、ハルと口喧嘩をしばしばするくらいに。そして特にハルに対しては余計にアンジュの気の強さが発揮されるところがあった。
歳がひとつしか違わないから、ということもあるだろうし、同じゾーイーという人間が後見を務めているから、というのもあるだろう。そしてふたりは親に捨てられたという過去を持ち、今は同じ人間を妻としている。共通項がそこそこあるからこそ、性格の違いがなおさら浮き彫りになる。
だからきっと、アンジュは自分には弱味を見せないだろうとハルは思っていた。ひとつ屋根の下で暮らす家族ではあったが、そういう関係ではないと、ハルは思っていた。
だから意外だった。今、自分の前でアンジュが泣きそうな顔をしていることが、ハルはなかなか信じられなかった。
「……知ってるけど」
「いつからですか?!」
「ンな食い気味に聞くなよ。聞いたのは昨日」
「そう、ですか……」
アンジュは目を伏せ、顔をうつむける。そこにはいつもの自信にあふれた彼の姿は、どこにもない。
アンジュは明らかにショックを受けていた。たかが噂話に。――いや、ハルもその「たかが噂話」に大いに胸をかき回されているところだった。けれども、アンジュの様子はハルにはかなり意外に映った。たしかに、ゾーイーはアンジュが精神的に不安定なところがあるという風に言って、心配していたが……。
「たかが噂話だろ」
「でも、こんなに具体的な話が噂として出回るのは初めてですよ」
アンジュの言う通り、これまでにユーリたちのいた世界へ戻れる手段に関して、流言が飛び交うのは珍しくなかった。けれどもそれらはどれも突飛な眉唾物の噂話ばかりだった。それに比べれば今回の「去年発見された遺跡が云々」という話は、これまでのものよりは多少それっぽい。
しかし、ハルやアンジュが噂に動揺している最大の理由は、ユーリとの「子作り解禁日」が間近に迫ってナイーブになっているから、というものであった。
元の世界へ戻れる可能性があれば、ユーリは翻意するかもしれないと、ふたりともどこかでそれを恐れているのだ。
子供が産まれるというのは、ひとの一生において間違いなく大きな
だからこそ、元の世界へ帰れるかもしれないという話が現実味を帯びたとき、ユーリが子供を作ることを拒否する可能性や――なんだったら、今の家庭を破壊しかねない行いをする可能性も、あるにはあるわけで。
ユーリはそんなことをしないと思う一方、ハルは故郷への郷愁などは理解できない。理解できないから、そうなったときにユーリが現実にどういった振る舞いをするのか、あまり予測がつかない。
アンジュも同じなのだろう。いや、彼のほうがハルと違って故郷への未練が多少なりとも残っているぶん、ユーリが元の世界へ戻りたいと願うかもしれないということを、危惧しているに違いなかった。
「ユーリさんは、どう思っているんでしょう」
「知るかよ」
「ハルさんは気にならないんですか?!」
「気になるに決まってるだろ! でも」
でも、直接聞くのはまだ憚られた。もうすでにユーリが帰る気持ちを固めていたら、ハルは心臓を八つ裂きにされるような苦痛を味わうことになるだろう。ハルにはそれがとてつもなく恐ろしく感じられた。未来に希望を持てず、スラム街でくすぶっていたときよりも、ずっとずっと恐ろしく感じられた。
「僕は……ユーリさんを縛りつけることはしたくないです。ユーリさんがもし『帰りたい』と言ったのなら、その意思を尊重したいと思っています」
アンジュの答えを聞いて、ハルは無意識のうちに肺の底から息を吐きだした。
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