俺が推しの代わりなんか出来るわけがないだろう?
蒼風
0.プロローグ
0.どうしてこんなことに。
そうだ。
これは夢に違いない。
この時の俺は、そんな楽観的なことを考えていた。
そりゃそうだ。自宅の布団で寝ていたと思ったら、気が付いたらなんだかよく分からない機械がある部屋にいて、演技を求められるなんて、そんな頭のおかしな話、普通はよくできた明晰夢ですねははははははって笑って処理するじゃない。
だって、これが夢の中なんだったら、例えいつもの人生と全く違う状況に置かれたとしても、自分には一切ない専門的なスキルを求められたとしても、自分から発せられる声が明らかに女性のものだったとしても、そんなことは全て知ったうえで、きちんと対応する自分がそこにいるはずじゃない。
そんなはずはないのに、その状況を全く理解していないで、呆然としながら指をくわえて見つめている自分と、状況を完璧に飲み込んで、きちんと対応しきるパーフェクトな自分という二つの自意識が併存しているはずじゃないか。そうだろう?夢って言うのはそういうもんだ。
だけど、この日の夢はその辺が妙にリアルだった。
「どしたの、
本番(って言っていいのかは分からないけど)が始まっても、俺が何もしなかったからか、一体誰なのかも分からない見知らぬ男の人が声をかけてきた。どうやら自分は「やるべきこと」が出来なかったらしい。しかも困ったことに、俺は今、その「やるべきこと」が一体何なのかが全く分からない。
でもね、そんなことはどうでもいいんだよ。
だって、今、俺はとんでもない情報を耳にしちゃったから。
彼の言った言葉。それは一見なんの変哲もない、日常生活のちょっとしたコミュニケーションに過ぎない。だから、その内容は、それこそ一日すれば八割方が忘れ去られ、一か月もすれば、「そう言えばあの時心配をかけたよな」みたいな「情報」だけが頭に残っていくような、他愛もない言葉。だけど、その中に、トンデモ重要な情報が隠されていたのを、俺は聞き逃さなかった。さあ、もう一度、さっきの台詞を振り返ってみよう。
「どしたの、“咲花さん”。何か気になることでもあった?」
分かりやすいように、重要な箇所は強調する。これが大事。
そう、咲花さん。
今俺は、ガラス越しに視線を送る彼に「咲花さん」と呼ばれたんだ。咲花っていうのは名前じゃなくて苗字だ。しかも、田中だとか佐藤みたいに、数の多いものじゃない。人によっては“彼女”を知るまでは、人生で一度も出会うことの無かった苗字じゃないだろうか。
咲花あやめ。
今をときめく(表現が古い?)人気売れっ子女性声優だ。今、この瞬間が、深夜四時という、朝と夜の境界線みたいなタイミングに眠りについた俺の生きていた時間軸と全く同じだというのであれば、年齢は二十六歳。
最も、学年で言うのであれば、昨年の内に誕生日を迎えた二十七歳の面々と一緒で、俺からすると二歳ほど年下、ということになる。誕生日が一月の末なので、時間軸がずれるみたいなトンデモSFなことになっていなければ、そろそろ彼女も二十七歳になるはず。
デビューは早くて、高校生時代。それからあれよあれよという間に人気声優としての道を駆け上がり、今や、一クールの深夜アニメを全てチェックすると、彼女がメインキャラクターを演じる作品がひとつは必ずある、というレベルで、声優オタクでなくとも、ある程度アニメを見たり、ボイス付きのゲームをやっていれば、名前くらいは聞いたことがあるはず、という位の知名度を誇る。
俺は、ガラス越しにこちらを見つめる面々に軽く会釈をして、手元にあるそれに目を通す。
台本だ。
それもそんじょそこらの台本とはわけが違う。
なにせ、裏表紙のところに、小さく「咲花」と苗字が書いてある。
聞いたことがある。
彼女は台本を現場に忘れがちで、その裏表紙に、自らの苗字「咲花」を書くことを習慣にしていると。
更に重要なことがある。
表紙の側には台本なので、当然のように作品名が印刷されているのだが、それにも見覚えがある。
タイトルは……長いからいいや。昨今蔓延ってる、無駄に長いだけでセンスの欠片もないタイトル。
ただ、内容はいい。俺が最近見た作品の中でもダントツで、アニメ化が決まり、メイン格ヒロインの声優が咲花あやめに決まってから手を出したけど、実に面白い。
所謂恋愛アドベンチャーゲームっていうやつで、元をただせば成人向け……分かりやすく言うと「エロゲ―」だ。
ただ、咲花あやめが演じるヒロインは、成人向けではサブヒロインになっていたキャラクターで、メイン格、所謂「攻略対象」に昇格したのは全年齢版からというなんとも絶妙な立ち位置。
それでも、メインかそうでないかで言えばメインの側と言えるし、台詞だって多い。どういう形のアニメになるかは分からないけど、内容が好みだったこともあって、割と期待していた作品だ。
アニメ化企画が進行しているという話がつい最近出回ったばっかりだったと思ったけど、やっぱりというべきか、割とタイムラグがあるみたいだ。まあ、当たり前と言えば当たり前なんだろうけど。
違う。
今問題なのはそんなことじゃない。
視界に映る、耳に聞こえる、全ての情報が、ある一点を指し示す。
そんなこと、ありえるはずがない。頭の中でどれだけ否定しても、事実はそれを認めてくれない。
台本を手に持ったことで、それを置いていた台が視界に映る。
幸か不幸か、綺麗に磨かれて“鏡のようによく映る”金属製の台。
間違いない。
そこに映っていたのは、俺、
多くのファンを抱える、超人気声優・咲花あやめ、だった。
(はああああああああああああああああ????????)
声は、我慢した。よく出来ました。めでたしめでたし。
……いや、めでたくねえよ。どうすんだ、これ。
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