第4話 氷のスノーグース領
スノーグース領までの道のりは長い。
野を越え山を越え、一週間ほどが経過した。お付きのメイドも護衛の騎士も居らず、たった一人の御者はミーシャと目を合わせようともしなかった。
道中は近くの村の宿場で泊まったり、はたまた山の中で野宿したり。そんな時は、焚き火で炙った干し肉と硬いパンをチビチビと食べ、馬車の硬い座席で腰を痛めながら眠った。小窓から見える星空が綺麗で、沈んだ心が少し和らぐ。
(考えようによっては……人生で今が一番、自由なのかもしれない。屋敷にいる時よりも、王宮にいる時よりも。山の夜は怖いけれど、不思議と気分が落ち着くわ。私、星空が「好き」なのかしら……?)
大きな問題もなく過ぎていった旅路だが、最後の山を超えると状況は一変した。
道には分厚く雪が降り積もり、吹雪が全ての音を消し去っていく。刺すような冷気が馬車の中まで入り込み、凍えるミーシャを襲った。父親から持たされた防寒具を身に纏うものの、全く歯が立たない。
指が痺れ、睫毛が凍り、全身が震え……ミーシャが死を覚悟した頃、馬車がゆっくりと動きを止めた。
スノーグース家の屋敷に着いたのだ。
ミーシャを下ろすと、着膨れた御者は一目散にその場を去っていった。ミーシャはガチガチに軋む体を何とか動かし、門の呼び鈴に魔力を込めて鳴らす。
すると、見上げるほど大きい金属製の黒い門が、静かにゆっくりと開いていく。門の先には、城と形容した方が良いような、巨大な屋敷が鎮座していた。
建物をしっかり眺める余裕もなく、風に逆らいながら一歩、また一歩……と歩みを進める。氷血の辺境伯の恐ろしさよりも、今はただ、一刻も早く温かい場所へ行きたかった。
広い庭を抜け屋敷まで辿り着き、倒れるようにドアにもたれ掛かる。すでに体の感覚は麻痺していて、沈み込むような睡魔に襲われた。
その瞬間、唐突にドアが開き、吹雪と共にミーシャの体が屋敷の中になだれ込んだ。温かい室内の空気に触れ、冷えた指先や頬がジンジンと痛む。
「……まさか、サンフラワー家のご令嬢ですか? こんな薄着で!? 従者やお付きのメイドは?」
執事と思しき男性が慌てて駆け寄ってきて、ミーシャの肩に積もった雪を払った。
「たっぷりと厚着をして、火の魔石を仕込んだ上着を着てくるようにと、忠告の手紙を出したはずですが……そのための支度金も、お送りしてありますのに」
歯がカチカチと震えるため何も答えられず、ミーシャは弱々しく首を振った。
「それに、この髪色……。まあ、詳しくは後でお伺いすることにします。死なれても困りますから、今は体を温めましょう」
案内された客間の暖炉の火にあたり、ミーシャはようやく生きた心地がしたのだった。
・・・・・
「貴方は、ダリア=サンフラワー様……ではないですよね?」
先ほどの執事が、毛布をかぶってぼんやりとしているミーシャに向かって問いかけた。
「はい……。私は腹違いの姉の、ミーシャ=サンフラワーと言います。妹の代わりに嫁ぐと……父から、連絡がありませんでしたか?」
執事は細い銀縁の眼鏡をグイッと上げて、ため息を吐きながら首を振った。濃紺の髪はぴっちりと固め上げられ、同色の細身のスーツに白い手袋を着用している。いかにもお堅い執事、といった出立だ。
「こちらは何も……。代わりと言ったって、縁談の条件と合っていないではありませんか」
「縁談の条件、とは……?」
「それもご存じないのですか。……赤毛の癖っ毛に、エメラルドグリーンの瞳を持つ少女、ということになっております」
確かにダリアの髪は自分と違い、燃えるようなクルクルの赤毛だ。それは代々伝わるサンフラワー家の髪色で、血を濃く受け継いでいる証なのだ。
(この方々も、ハレの巫女の能力を求めていたらどうしよう……。)
ミーシャは自分のミルクティー色の髪を隠すように、毛布を深く被り直した。執事はそれに気付かず、ミーシャの小さな旅行カバンを見つめている。
「それに、この荷物と装い……支度金は使われなかったようですね。おおかた、当主が私服を肥やしたといった所でしょう。……困ったことになりましたね」
髪をかき上げ再び大きく息を吐く執事に、ミーシャはおずおずと尋ねる。
「私、出て行かなくてはならないでしょうか? ここを出ても、帰る場所が無くて……」
「帰る場所が?」
「嫁ぐのが無理でしたら、ここで働かせて貰えないでしょうか? 住まわせていただけるならば、お給金は要りませんし……家事や執務も一通りこなせます!」
必死の形相を見て、執事は僅かに眉を顰めた。ミーシャはハッとして、顔を青くしながら引き下がる。
「も、申し訳ございません……。みっともない真似を……」
「……いえ。貴方が家族からどのような扱いを受けてきたのか、大体検討がつきました。憐れには思いますが……貴方の処遇を決めるのは、旦那様です。ひとまず理由をご説明して、会っていただくことにいたしましょう」
・・・・・
執事に案内され、ミーシャは広い屋敷の奥へと進んでいく。
調度品や絨毯などはモノトーンで統一され、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
派手さばかりを求めるサンフラワー家とは似ても似つかないのに、どこか懐かしさを感じてしまうのは何故だろう。
そんなことを考えているうちに、伯爵の執務室へと辿り着いた。
執事が先に入室したため、部屋の外で待つミーシャの耳にはドア越しに小さな話し声のみが聞こえてくる。
(氷血と呼ばれる伯爵様は、やはり冷たいお方なのかしら。私なんて不要だと、追い出されてしまったらどうしよう。家には戻れないし、他にツテもないし……。近くの町までの旅費だけでも、お借り出来ないかしら? どこかで住み込みの仕事を見つけて、働かせてもらうしか……。)
考えに耽っていると、キィッという音が鳴り執務室のドアが開いた。顔を出した執事が「お入りください」と静かに声をかける。
震える足を何とか動かして入室し、俯いたまま
「ミーシャ=サンフラワーと申します」
恐る恐る顔を上げた先には……大きな窓からの逆光の中、息を呑むほどに美しい青年が、こちらを向いて佇んでいた。
光を受けて輝く銀髪は目にかかるほどに長く、後ろ髪はコバルトブルーのリボンで束ねられている。前髪の隙間から覗く、深く澄んだサファイア色の目の下には、うっすらと隈が出来ていた。
彫刻のような均整のとれた目鼻立ちに、薄い唇。こちらを射る冷めた視線と相まって、人間離れした印象を与えている。
(私も生気のない人形のよう、と良く揶揄われたけれど……。この方の透き通るようなお姿、まるで氷で出来た彫刻のようだわ……。)
「なるほど、似ても似つかないな。その髪の色も……目も」
色味のない唇から紡がれた声は静かに低く、冷ややかだった。
レイモンド=スノーグース伯爵は目を細めてミーシャを一瞥し、興味が無さそうに窓の外へ目を向けた。
「こちらの手違いで……申し訳ございません」
「いや、問題はない。縁談の条件だって、ヨゼフが決めたものだろう? どちらにせよ……亡き妻以外、愛すつもりはないのだから」
感情が込められていない、冷え切った声に体がすくむ。
「ミーシャと言ったか。貴方も、氷の呪いのことは知っているだろう?」
「……存じております」
ミーシャが震える声を絞り出して答えると、レイモンドは着席し机上の書類に目を落とした。
「私のこの手は、触れたもの全てを凍らせてしまうのだ。この手袋をすれば、効力は弱まるが……。それでも今後一切、貴方に触れることも、共に過ごすことも、妻として愛すこともない」
レイモンドは薄い黒の手袋を外し、執務机の上に置いてあったコーヒーカップに触れて見せた。湯気を立てていた液面は瞬時に凍り、ピキピキと音を立てる。
「こちらから申し込んだ縁談だが……ただ周りを黙らせるための、形だけのものだ。お前が望むならば、数ヶ月で破談にしてくれて良い。それとも、今すぐ帰りたいか?」
「いいえ……! 妻としての扱いも、愛を求める事もいたしません。ただ……ここに置いていただけるだけで、十分です」
ミーシャが跪いて懇願すると、レイモンドは表情を変えないまま僅かに首を傾けた。
「貴族の令嬢だというのに、変わっているな。俺に近づかないこと……それさえ守れば、どう過ごしてくれても構わない。最低限の生活は保障しよう」
「ありがとうございます……!」
書類に目を落とし執務を始めたレイモンドを見て、ヨゼフと呼ばれた執事が退室を促す。ミーシャはもう一度
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