族長に愛される
沙漠を駆け抜けていく人を乗せたスナドリ。一頭、二頭、三頭、四頭。その背後を全く規格外な巨大生物が追っていく。
スナカバであった。
見上げる程に大きなスナカバが今にも四人を喰らってやろうと、がばりと口を大きく開けたまま強靭な手足で砂上を爆走し、逃げるスナドリを猛追してきていた。大きな暗い口内はウロのように真っ暗で、砂がガバガバ呑み込まれていき、さながらブラックホールに追いかけられているかのようである。
「族長! このままでは追いつかれます!」
「分かっている!!」
集団の先頭を走るスナドリに乗った短い赤髪の女が、前方を向いたまま風にかき消されぬよう叫ぶように答えた。彼女は眉間に皺を寄せ、歯を軋むほどに強く噛みしめる。
状況は困窮していた。
とある大きな村の村長に呼ばれて挨拶がてら、族長夫婦揃って会いに行った帰りだった。争いなどここ最近は全く皆無であり、状況が安定していると思ったが故の判断だったがそれが間違いだった。族長の留守を狙いすましたかのように輩が村を襲撃しているという知らせが入ったのである。挨拶に呼んだ村の族長は何も言及していなかったが、沙漠では貴重な水辺であるオアシスの近くに位置している夫婦の村を狙った計画的犯行であることは火を見るよりも明らかだった。とにかく族長とその夫、護衛の数人は急いで村に戻ることにした。
しかし帰路の途中、”沙漠の大食漢”とも呼ばれるスナカバに目を付けられてしまう。スナカバはこの時期には乾眠に入るし、そもそも彼らが出現するルートは避けているので、このスナカバはつまり放たれたものだった。悪意に利用された憐れで恐ろしい獣だった。
スナドリよりもスナカバの方が移動速度が早く、このままではいずれスナカバに追いつかれる。しかしそうだとしても、逃げる以外の選択肢が無い。弓矢を放っても傷一つつかない程に分厚い皮膚を持つスナカバの狩猟など人間には無謀な行いで、現状に至っては身を隠すことも難しい。それでも、生きて皆が待つ村に帰らなければならない。
彼女は現状を打破する手段を求めて頭をフル回転させる。
なにか、なにか手は……。
思考の中で生存に繋がる道を必死に模索していると、
「俺が囮になるよ」
不意に横からそんな言葉を聞いた。彼女が弾かれたように顔を向ければ、精悍な顔立ちの夫がその優しくて力強い瞳で彼女の事を見つめていた。
「俺がこのデカいのを引き付けている間に村に戻って加勢するんだ。村を、守ってくれ」
「そんなの、駄目だ!」
彼女は彼の提案を食い気味に強く否定した。
「そんなの絶対に認められない! いくらなんでも無茶すぎる!」
まくし立てる。
常に冷静な彼女にしては珍しく取り乱していた。緊迫した状況が、というよりも、大事な人が危険を冒そうとしている事実が彼女の心を乱していた。しかしそんな彼女の心境を理解している夫は、実に穏やかな表情で諭すように言う。
「君は族長だ。村のみんなのために、いつも冷静で公正な判断を下さなければならない。そして俺はこの中で最もスナドリの扱いに長けている。スナカバや呼び寄せられた他の獣を村に連れて行かないためにも、俺が囮になるのが適任だ」
「っけど!!」
「このままだと、全滅する」
「っっっ!!!」
彼がはっきりと口にした単語に彼女は言葉を返せず、ただ喉から声にならない息を漏らした。
それは、どうしようもない現実であった。
そして彼の言っていることは、この最悪な状況の中では最善の選択だった。
”だがっ……!”と彼女は手綱を強く握りしめ見つめる。
その選択は、彼に村の為に犠牲になってくれと頼むようなものだ。族長としては相応しい冷徹な選択なのかもしれない。しかしそれ以前に彼女は、彼の妻なのだ。自分を生かすために死ぬかもしれないリスクを冒してくれ、と愛する人に告げるような非道な妻が一体どこの世界にいると言うのだろうか。彼女には少なくともそんな事は出来なかった。しかしだからと言って村を見捨てる訳にも行かない。
苦しそうな表情で葛藤する彼女を見て、夫はふっと笑った。彼女が顔を上げる。
「人が真剣に悩んでるのに何が面白いんだ」
「いや、随分と悩んでくれるんだなっと思って」
「当たり前だろ! お前の事なんだぞ!」
「ああ、そうだよな。ありがとう」
「ありがとうって……」
自分の事なのに何故か呑気な夫に彼女は呆れるが、それで彼女の張り詰めていた雰囲気が少し緩んで気持ちの余裕が多少取り戻される。夫はそれが目的だったのかもしれない。呆れ顔の彼女を見てほほ笑んだ後に、言葉を続ける。
「何も自ら命を無駄にしようってわけじゃない。ちょっと野暮用をしてから帰るってだけのことさ」
「そんな、簡単な事じゃないだろ……」
夫は微笑を浮かべたまま真っ直ぐな視線で彼女の瞳を射抜く。そして言った。
「━━俺を信じてくれ」
その穏やかな表情にはしかし強い意志が感じられた。覚悟を決めた者だけが纏う圧倒的な風格。彼女の夫は今、一人の男として命を懸けた大勝負に挑もうと言うのだ。彼女にはもはやその尊く熱い気持ちを止める事など出来る筈も無かった。出来るのはただ祈る位な事だった。
「……分かった」
彼女は重たく呟いた。そして彼の瞳を強く見つめ返す。
「一つ、これだけは約束してくれ」
「うん?」
「絶対に無理をするな。必ず私のもとに生きて帰ってこい」
「族長の命令なら逆らえないな」
「違う」
冗談めいた夫の言葉をバッサリと否定する。
「これは妻としての、お前の女としての、私の願いだ」
彼女は真っ直ぐな視線で夫を射貫きながら、堂々とそう言った。どこまでも本心だった。彼が犠牲になって自分たちが助かるなどという展開はまっぴらごめんだった。彼女は、彼のいない未来など望まない。
彼女の言葉を受けて、夫も引き締まった真面目な表情になる。
「分かった。大地の神ファルクスに誓おう。━━愛する妻の元へ必ず戻ると」
これが絡み合ってきた二人の運命の分かれ目となった。彼女は夫の言葉を味わうように瞳を数秒閉じると、次には前方を向いて目をかっぴらき、背後に付いてきている護衛にも聞こえるよう大きな声で叫んだ。
「皆飛ばせえええええぇぇぇ!!!!」
憂いも迷いもない長としての勇猛な叫びに呼応して、護衛たちも
「うおおおぉぉぉっっ!!!」
と叫び声を上げた。スナドリたちも最後の力を振り絞って全速力で加速し、スナカバとの距離をどんどんと離して行った。
小さくなっていく彼女たちの背中を、夫は満足そうな表情で見送る。
「さて」
彼は呟く。
振り返る。
背後では相変らずスナカバが追ってきていた。様子を見ていたのか、顔を砂の中に沈めて赤い目だけを砂の上に覗かせ、その赤い目は獲物の多い方、つまり逃げる彼女たちの方を向いていた。今にも砂の中に潜り、彼女たちを追跡しそうだ。
夫は腰に下げた弓を手に取ると、腕に血管を浮かび上がらせながらギリギリと弓矢を引き絞り、スナカバの瞳を狙って思い切り放った。
風を切って飛んでいく矢。
しかしその矢は瞳の近くの硬く分厚い皮膚に当たり弾き返された。
「おっと」
彼がおどけた調子で言うのとは対称的にスナカバは瞳をぎょろりと彼に向け、明らかに怒りを滲ませた。そして彼の目の前で見上げる程に大きく口を開け、地鳴りにも似た咆哮を上げた。
く゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛っ゛っ゛
あらゆる生物が縮こまりそうなほどに凄まじい迫力で、ちっぽけな人間と巨大なスナカバ、生物としての格の違いを思わせる威圧感だった。
だが、彼はまるで怯むことなくニヤリと口角を上げ笑った。
「さあ、鬼ごっこの時間だ」
「ふざけやがって……」
スナドリを操る手綱を強く握りしめ、彼女は怒りと憎しみに表情を歪ませて呟く。村に近付くにつれて明らかになって行く村の様相は平和とは程遠いものだった。
大量のよそ者が押し寄せ、武器を片手に村を襲っていた。
よそ者には見覚えが無かった。だが右腕の二の腕に皆揃いの焼き印が刻まれていることから、荷物を積んだキャラバンなどを襲う碌でもない集団であることが容易に察せられた。
幸いになことには村人たちには戦闘時の心得があった。村人は、日干し煉瓦の家に立てこもって敵の襲撃から身を守り、屋根の上からもしくは窓から矢を放ったり槍を伸ばすことで襲撃者どもに反撃を試みていた
しかし籠城はどれだけ持つか分からない。
彼女は急く気持ちでスナドリから飛び降りると、そのまま前に転がりながら衝撃を殺して着地。目の前に落ちてた曲刀を拾い上げながら流れるような動きで立ち上がり一直線に駆け出し、途中で何人かの輩を斬り殺し、勢いそのまま背の高い建物の屋根に窓を足場にしながら駆け登る。
そうして剣を曇天に掲げて、天地を揺るがすほどの大声で叫んだ。
「皆聞けええぇ! 族長フレア、ここに戻った!!!」
突然に響いた彼女の声に悲鳴と怒声に満ちていた村は一瞬静まり返る。彼女は、村人と輩の注目を一身に集めた。
彼女は宣言する。
「皆よく堪えた! 私が来たからにはもう何も恐れなる必要はない! 誰も死なせない! 愚かな族たちを皆で成敗するぞ!」
胸の内にあるのは夫との約束を果たす事。夫の帰る場所を守る事。
大気を轟かせて宣言した彼女の背後では雲の割れ目から太陽の光が差し込み、後光のように輝いた。
その神々しい姿に誰もが神話の英雄を幻視した。
村の窮地に救いをもたらす絶対的存在であり勝利の女神。
それを目にした村人たちは、爆発するような歓声を上げた。彼女は悪を指し示すように剣を正面に向け、目を見開き、吠える。
「輩を追い返せええぇぇぇぇ」
「「「「うおおおおおおおおお」」」
そこからは、今迄の劣勢を覆すように激しい反撃を喰らわせることとなった。彼女に鼓舞されて奮起した勇敢な村人は各々槍やら剣やら武器を持って賊共に立ち向かい、そうして注意が引き付けられている間に周りの村人が弓矢などで射殺した。
みな素晴らしい勇敢さで、その根本にあるのは族長がいるから負けるはずがないという確信であった。
彼女たった一人の存在が、戦況を覆したのだ。
村を守るための戦いは日が落ちるまで続いた。
……気付けば夜の帳が降り、空には星が輝いていた。その夜空に向かって灰色の煙が立ち上る。村の中央では、乾燥した木材を組んで、巨大な焚き木が行われていた。先程から村人たちの手によって運ばれメラメラ燃える橙色の炎に放り込まれているのは、襲撃者たちの死体である。身体に執拗に刺し傷があるのはサーベルで身体を切り刻みながら拷問に掛けたからで、彼らの親玉がやはり例の村の村長であることは確定した。死体は、放っておくと血肉の匂いを嗅ぎ付けた砂の獣たちが寄って来るので、こうして火に放り込んで燃やす。祝いの意味合いもあった。炎を取り囲む村人たちは燃える死体を見て勝利の余韻を味わい、その感情を共有するように皆で躍ったり跳ねたり唄を唄っていた。
族長である彼女はその輪には加わらず、少し離れた場所に座っていた。その顔は返り血で濡れているが拭う事もせず、ただそこらに転がっている死体を睨むように見つめていた。
結局夫は、帰ってこなかった。
「手の空いている者はそこの煉瓦を向こうに運べ」
「お前は食料の備蓄の確認を頼む。お前は怪我人の確認と報告をしてくれ」
「武器はそこじゃなくてあっちの倉庫に入れろ。敵が連れていたスナドリ達は向こうに繋げておけ」
仁王立ちする彼女は村のみんなにテキパキと指示を飛ばす。
襲撃によって損害を受けた建物の修復や怪我人の処置が必用だった。更に村には大砂嵐が迫っていた。それは生けとし生ける全てのものに渇きと死をもたらす沙漠の悪夢であり、人探しどころか歩き回る事すら困難な程に強烈に砂を巻き上げさせる天災であり、そのため彼女は村人に準備を急かす。その様子は極めて冷静で、夫がいない事への悲しみや探しに行けないことへの焦燥などはまるで感じられない。
だが、彼女のそれが虚勢であることを、村人全員が知っていた。
族長夫婦が互いに愛し合っていたという事を、知っていた。
二人で寒空の下に身を寄せ合って高台に座り、澄んだ夜空の星を仲睦まじく眺めている姿は度々目撃されているし、炎を囲んで村の大人たちが肉や酒を喰らう愉快な宴の夜には、族長夫婦両者に周りがたらふく酒を勧め、囃し立て、べろべろに酔わせ、特に普段は気を引き締めている彼女はその反動のように一度酔えば露骨に愛情を表出させ、彼女が夫を抱きしめたりキスなどして惚気ているのを肴に揶揄いながら酒を飲むのがお決まりの流れになっていた。
物静かだが常に冷静で動じない夫と、死んだ父から若くして族長の座を継いだばかりに多少の危うさがありながらも持ち前の才覚と気の強さで皆を引っ張る彼女。両者はまるでピースの凹凸のように互いにぴったりと嵌っていた。
その、精神的支柱でもあった最愛の夫を失った状態の彼女の心が穏やかな筈がない。実際、連日の凍えるような沙漠の夜に彼女は一人、大地の神ファルクスを祀った石碑のある村の高台に登り、じっと祈りを捧げていた。
今の彼女は村人たちを不安にさせないために胸の内を隠し、皆の為に族長として堂々振る舞っている。村人たちは誰もがそれを察していたが、だからと言って口にすることは憚られた。口にしたところで、”彼女の夫がまだ帰ってきていない”という事実が色を濃くするだけだった。
大砂嵐は三日の間、続いた。
朝も夜も空気が砂に覆われ、村人たちは家に籠っていた。四日後の朝には嘘みたいに砂嵐が止んだ。村人たちはぞろぞろ外に出てきて、輝く太陽の下、肺いっぱいに淀みない空気を吸い込み、その爽快感を味わって天災が過ぎ去ったことをはっきりと感じた。
すぐに、族長である彼女の立派な大きさの日干し煉瓦の家に村の大人たちが集まって、居間で、今後の話し合いが行われた。族長の夫を捜索しようという声が当然のように上がった。彼女も同じ意見だったが、彼女自身は”行かない”と言った。この前に襲撃を受けたばかりで自分がまた村を不在にするのは得策ではないと判断したからだった。彼女は族長として個人的な欲求よりも村の安全を優先したのだ。その言葉を聞いて、その場にいた村の大人たちは閉口した。彼女の言っていることは尤もかも知れないが、家族の安否が分からない状況で自分にそこまで厳しく出来るモノなのか、と驚愕していた。誰も何も言えない中、村で一番の高齢で”長老”という名と共に敬われている白髭の立派な男が今まで閉じていた重い口を開いた。
「フレア、お前は行くべきだ。村では儂が指揮を執っておく。行ってきなさい」
その言葉には有無を言わさぬ年長者の迫力があり、彼女は素直に頷く他なかった。それは長老の優しさであり、その瞳で現実を見据えてきなさい、という厳しさでもあった。
彼女は、夫を捜しに行く。
彼女を乗せたスナドリが砂の上を駆け抜けていき、その後を付き人を乗せた二羽のスナドリが追いかけていく。沙漠は広大で無限。灼熱の太陽に照らされて沙漠に黒い影を落としながら駆け抜けていく三羽のスナドリ。
目的地は無論、彼女が夫と別れた場所である。
スナドリを操り風を切っていく彼女の表情は硬い。ただ未来を信じるように鋭い眼差しが前方を見据えている。一同は気付けば緩やかな砂漠の上り坂を登っていて、その視界には上り坂の切れ目が現れる。
「止まれええぇ」
言いながら彼女はスナドリの手綱を引き、スナドリは”くぇーっ”と甲高い鳴き声を上げながら静止した。付き人も彼女に倣って後ろでスナドリを止めた。
前方の景色は一気に広がる。傾斜の緩い下り坂はすり鉢状になっていて、彼女たちが立っている場所は丁度山の頂上のようになっていて、どこまでも砂地を見通せた。
彼女が夫と別れたのは丁度この辺りだった。
彼女はスナドリの背から降り立って砂を踏みしめ、辺りを見渡した。
……何も無かった。彼女の夫がいた痕跡は何一つ見当たらず、あるのはただ一面の砂の海である。しかしこれは当然の事で、沙漠とは瞬きしている間にも風に吹かれた砂が新たに積って全てを覆い隠してしまう地形である。それこそ人の死体などは、数日あれば砂の中に呑まれる事になる。
初めから無謀だと分っていて、それでも納得するために来たのだ。手ぶらでは戻れない。彼女と、一緒についてきた二人の付き人は手分けして周りを探し回った。
太陽にじりじりと身を焼かれ、時間が過ぎる。そこら中に無数に辛うじて残っている足跡が、彼女たちが如何に探し回ったか、そしてそれがどれだけ徒労に終わっているかを如実に表していた。
彼女は疲労を吐き出すように深く息を吐き、腕で汗をぬぐった。そのときふと横目で、自分の乗っていたスナドリが、砂地のとある一点を、首を伸ばしてその嘴で執拗に突いている姿を目撃した。餌を探しているだけだろうと思ったが彼女は何となく気になって、スナドリに近付いた。そうして、目を見開いた。
スナドリが突いていたのは確かに夫が着ていた筈の服だった。全身を覆える程の大きさがある布製のダボダボの外套。スナドリはそれを砂の中から掘り起こしたのである。
沙漠で外套を脱ぐという行為は“自殺行為”に等しい。
外で素肌を晒せば昼は太陽の熱に焼かれて火傷を負うことになるし、夜は寒さに耐えきれない。夫が如何なる理由によって外套を脱ぎ捨てたのかは分からない。ただ一つ分かる事は、彼の生存が絶望的であるということであった。
何かを抱えてその場で動かない彼女を見て、他の場所を探していた付き人の二人が傍にやって来た。すぐに、彼女の腕からぶら下がっている布が何なのかを理解し、唖然とする。
「族長……」
「これって……」
「戻るぞ」
明らかに動揺している二人に対し彼女は手元に視線を落としたまま、ただそう言った。呆気に取られている二人を他所に、彼女はすたすたと歩き、服を抱えたまま自分のスナドリに跨る。二人に顔を向ける。
「何をしてる。早く準備しろ」
平然としていた。
少なくとも二人にはそう見えた。
見た目には心の乱れが一切ない様子で、族長らしく二人に指示を下していた。
「どうかしたか」
「い、いえ」
「すぐに」
二人は急ぎ足でスナドリに跨り、三人はまた村へと戻った。
その晩。
「クソッ!クソッ!クソッ!クソォッッ!!!」
部屋には負の感情に色を付けたかのような暗闇が充満している。床には割れた壺や机や食器が無惨に散らばっている。その凄惨な風景の中心にいるのは彼女だった。彼女は正気ではいられなかった。声を荒げながら彼女は、髪を振り乱し、壁を殴り物を蹴り壊し、家の中で暴れ回っていた。そこには村人たちの前で見せているような頼りがいのある冷静なリーダーの姿は微塵もなく、代わりに怒りや悲しみと言った感情に呑み込まれ獣の如く暴れ回る苛烈な彼女の姿があった。
彼女は目に入ったものをほとんど壊し溢れる激情を向ける矛先を失うと、幽鬼のように立ち尽くし、やがて電池が切れたようにその場で崩れ膝立ちになり、今度は床を拳で殴り始めた。
「……クソッ。クソっ。なんでだよぉ!なんで!!」
彼女は歯を剥き出しにして瞳には怒りを滲ませながら涙を零す。顔を上げれば、床の上に転がる、大地の神ファルクスを象った、頭が鳥で身体が人間の姿をしている石の偶像と目が合った。村人の家には必ず一体この偶像を守り神として置いている。
彼女はそれを鷲掴みすると怒鳴り散らした。
「アイツは私のだ!アイツの身体も心も、命だって私のだっ!お前のじゃない!返せ!返せよおおっっ!!!」
それは、愛の孕んだ生々しいまでの独占欲だった。
彼女の本能が狂おしい程にそれらを求め、所有権さえ主張した。
しかし当然いくら感情をぶつけたところで夫が戻ってくることは無く、ただ虚しさが募るばかりである。それでも今は、胸の内から止め処なく湧き上がってくる感情を外に逃がさなければ彼女自身がどうにかなりそうだった。
「クソがぁっっ!!」
壁に投げつけ、偶像は粉々に砕けた。
窓から差し込む月の光に照らされて映る彼女の影は、部屋の暗闇よりもずっと黒かった。
絶望を経た彼女の纏う空気は張り詰めた矢の如く鋭くなり、世界を恨むその瞳には底知れぬ暗闇を宿した。以前までは族長という目上の身分を気にすること無く村人が気軽に話しかける事が出来る程度の人間の隙というものを残していたが、今はこれ以上の悲しみが心に侵入するのを許さないとばかりに完全に心を閉ざしていた。
暫くは平穏な、彼女にとっては孤独な日々が、過ぎた。
しかし彼女の怨念を晴らす機会はやがて訪れる。
それはある日の昼下がりだった。
「大量のスナカバです! スナドリもスナザメも! 群れになって村に押し寄せてきます!」
物見櫓に立って双眼鏡を用いて村の周囲を偵察していた男が突然に叫んだ。それを聞いた彼女は急いで櫓に掛けられた梯子をよじ登り、見張りの男から双眼鏡を借りて、自分の目でその様子を確かめた。
男の言った通りだった。大量の砂埃を上げながら太陽に焼かれる砂漠の上を大小様々な砂上生物が村の方向へと進軍してくる。
中央は大口を開けて砂を呑みながら爆走するスナカバの群れ、左は逞しい二本脚で奔走しているスナドリの群れ、右は身体をくねらせて砂上を滑るスナザメの群れ。
砂上生物たちは皆背中に人を乗せていて、その中でもとりわけ頭部に鎧を被った大きなスナカバの鞍上に乗るふくよかな男に見覚えがあった。自分たちを呼んでその隙に村を陥れようとした東の村の村長。夫が命を落とすきっかけをもたらした憎むべき対象。双眼鏡から目を離した彼女は遠くに見える砂埃を睨んで、軋むほどに強く奥歯を噛みしめる。
殺してやる。
死んでいた筈の彼女の心は俄に沸き立つ。体内を激しく流れる血流に乗って憎しみが身体中を満たし居ても立っても居られなくなった彼女は、櫓の高台から村人全員へ戦闘準備をするように大声で指示を飛ばし、自身は梯子を駆け下りて外に繋がれていたスナドリに跨がり、家々を抜けて村の外へと駆けていった。
勿論奴らを迎え撃つためである。村人にはとある事情で合図を送るまで来るなと命じた。やがて手綱を引いて立ち止まった彼女は、砂漠の上で一人、スナドリに乗って奴らを待ち受ける。砂上生物の群れの進行方向で立ち止まっている彼女は下手をすればそのまま轢かれかねないが、彼女の表情には一切の恐怖が無い。ただ静謐な怒りを視線に込めて真っ直ぐに砂上を睨みつけている。
やがて遠くに何体もの砂上生物たちの小さな姿が見え始め、それが地響きと共にどんどんと大きくなり、やがて砂煙が掛かる位置まで距離が近づくと砂上生物たちは一斉に動きを止めた。どうやら族長である彼女を無視することは出来なかったらしい。
彼女は真正面に鎮座する巨大なスナカバの背中の上に座る、嫌らしく煌びやかな装飾品を身に纏ったでっぷりとした体型の村長を見上げる。
「よくもおめおめと私の前に姿を現すことが出来たな! ザビデ!」
「おや、何のことですかな??」
ぱんぱんの頬肉に下瞼を圧迫されて常に胡散臭い笑みを浮かべる村長が白々しく言った。彼女はその言葉を聞いて目をつり上げる。
「とぼけるな! お前が村から戻る途中の私たちをスナカバに襲わせ、村に賊をけしかけたのだろう!」
「はて? そんな非道い事をわたくしがするとは心外ですなぁ。我々は友好を深め合った仲では無いですか?」
「どの口が言う! お前がやったことは村を襲った賊から全て聞き出した! この腐れ外道め!」
「おやおやおや。あの屑共は碌に仕事も出来ない上に情報漏洩までしましたか! 全く……使えませんねぇ……」
嫌みたらしく嘆いた言葉には村長の黒い本性が滲み出ていた。村長は細目をぎょろりと開いて彼女を見下ろす。
「まあ、それなら話が早くて助かります。今日はですね、役立たずなゴミ共に変わってわたくしが直々に交渉に伺いました」
「交渉だと?」
「ええ。我々はもうオアシスが欲しくて欲しくて堪りませんで。どうです? 村人の皆さんには出て行って貰って、村を譲ってくれませんか? フレアさんには報酬を渡しますので」
「……巫山戯るのも大概にしろよ」
「ああー残念ですねー。このままじゃ村人全員皆殺しですねぇー」
「私の夫のみならず村まで奪おうなどと! 冗談じゃ無い!!」
「ほお。それで!? どうします!?」
楽しげに煽る村長を、そして周りで見ている取り巻き達を睨み回して彼女は鋭く言い放った。
「お前らを殺す!!」
その瞬間、空気は一瞬の静寂に包まれた。そして
「「「ぶははははははははは」」」
男達の下品な笑いに包まれた。村長が腹を抱えながら言う。
「うひひひひ。全く面白いですねぇフレアさん。その目玉は飾りですか? 状況が理解できていないのですか? 貴方の村ではスナドリ以外碌に飼われていない一方で我々はスナカバを始め、大量の砂上生物がいる。どう見たって勝てるわけないじゃないですか~」
村長の馬鹿にした物言いに対して彼女は湧き上がる怒りを言葉に変えて冷然とぶつける。
「黙れ豚野郎。直ぐにあの世に送ってやる」
放たれた鋭い言葉は嘲笑の中でもよく響いた。
村長はたちまち額に青筋を浮かべ
「全員突撃いいいぃぃぃっっ!!!!」
叫んだ。
これが開戦の合図となった。
スナカバとスナドリとスナザメの群れが大挙して押し寄せる。彼女を轢き殺して勢いのままその背後に広がる村も潰そうというのである。だが迫る砂上生物にも彼女は全く臆さない。表情を変えない。
ただ首から提げた笛に手を伸ばす。薄く黄色みがかっていて、上顎と下顎が前に突き出て凹んだ眼窩を持つ蛇の頭骨のような笛である。その笛の“首”と呼んで差し支えない方向から咥え、息を吹き込んだ。地鳴りと雄叫びの喧騒の中を猛禽類の鳴き声に似た甲高い音が貫いた。
その直後である。
彼女に迫らんとするスナカバ達の足下の砂が急激に盛り上がり、やがて巨大な何かが顔を出して、鋭利な歯がびっしりと生えた大きな上顎と下顎でスナカバを三頭ほど噛み潰した。
悲鳴を上げる男達。
無理も無い。最強を謳われる砂上生物を軽く殺す上位の存在が急襲してきたのだから。
「スナヘビだ!」と誰かが叫んだ。
今もなお砂から巨大な頭部だけを出してスナカバを咀嚼するその生物は確かに蛇に似た外見をしていた。表面は鱗で覆われていて、深紅の瞳の中央は時空の狭間の如く黒い縦長の瞳孔が開いていてる。ただし
突き出た上顎の先端の鼻腔の横から二本の立派な白い髭が生えているところと頭頂部に黄色い角が生えているところ、そして何より砂漠の大型哺乳類であるスナカバを軽く餌にしてしまうサイズ感が一般的な蛇とは異なる。彼らは“スナヘビ”と呼ばれるが厳密には龍なのであった。
スナヘビは口の中のスナカバを平らげてしまうと、地中へと潜り、そして今度はスナザメ達の足下から豪快に顔を出し襲った。
「何でこんな所にスナヘビが!!」
混乱の中で誰かが口にする。
その答えはオアシスにある。
このスナヘビはオアシスの澄んだ水を愛飲し、オアシスを形成する地下水で冷やされた砂中で眠ることを好み、地下深くに棲み着いていた。しかしオアシスはいつの時代も欲望の的であり、スナヘビが眠っている間に人間の手によってオアシスが枯らされたり汚されたりする危険があった。そこで族長は代々オアシスを守るという盟約をスナヘビと交わすことで、スナヘビに村の存在を許されてきた。
そして彼女は今、先祖より渡されてきた笛を鳴らすことで、スナヘビの目を覚まさせた。それはいざというときにスナヘビに助けを求める最終手段であり、賊に襲われたときとは違ってまだ村に敵の侵入を許していない段階だからこそ取れる選択だった。
スナヘビは侵入者達に容赦なく牙を剥いた。
スナヘビに襲われて砂上生物の背に乗っていた男達が次々と地上に振り落とされていった。
彼女はそれを見て右手を太陽に掲げて円を描くように回した。“来い”の合図であった。それを見ていつでも駆けつけられるように待機していた村の男達はスナドリに乗って、村から一斉に駆けつけてくる。
「殺せ殺せ殺せえええ!! 一人残らず殺せえええ!!」
集う仲間達にそう号令を飛ばし、雄叫びを上げる仲間達に混じって自身もスナドリで駆けて地上の敵に向かっていく。
スナドリに跨がって高さを作って戦う方が地上の敵に対して有利なのは言うまでも無く、スナドリ自体も縄張り意識が強く敵と見なした対象に放たれる強靱なキックは人間の肋骨を軽く粉砕するが、慈悲は無い。村を脅かす人間は誰であろうと許すわけにはいかないのである。
有象無象の中で戦場には似合わない上質な服に身を包んだやたら丸っこい人影を見つけて、彼女は一目散に向かっていく。
村長であった。
スナカバの背から地上へと叩きつけられた村長は脚の骨を折ったようで、スナドリと共に近づいてくる彼女の姿を認めると恐怖で顔を歪ませながら砂の上を這って必死に逃げようとした。しかし当然彼女はそれを許さない。スナドリから降りた彼女は村長の髪を掴んで背後から首元に右手に握ったサーベルの刃を当てた。
「ひいいっ!」
「何か言い残したことは無いか?」
「お助けを! どうかお助けを!」
村長は威厳を捨てて涙ながらに訴えた。その無様な姿を見た彼女の感情は“不快である”という、ただその一点のみであった。
殺意が腕を動かした。
「死ね」
村長の首から垂れた大量の血が砂を赤黒く染めた。
砂漠に大量の死体と食い散らかされた砂上生物の残骸が転がっている。蓋を開けてみれば数時間で襲撃者は殲滅された。
太陽の下、彼女は死体の上で呆然と立ち尽くしている。感情の宿っていない真っ黒な瞳で見つめる先には彼女が自らの手でサーベルを何度も突き立てて穴だらけにした村長の死体。
恨みは晴らされた。心の中のどす黒い感情は殺人行為を以てして吐き出された。それで彼女は救われると信じていた。しかし空っぽになった心に残ったのは救いとは正反対の圧倒的なまでの虚無感であった。結局のところ彼女は、復讐心によって夫を失った現実から目を背けていたに過ぎず、復讐の果たされた今、嫌でもその虚しさと向き合わなければならなくなってしまった。それは真綿で首を絞められるような、薄く延ばされた絶望だった。
「置いてきぼりか……」
彼女の呟きは風に攫われて掻き消される。
「遠くから何か来ます」
不意に隣に立った村人が指を指しながら言った。彼女も指が指し示す彼方の砂漠に視線を向ける。彼女の立つ位置からでも目視出来るほどに、もくもくと凄まじい砂煙が立ち上りながら村に向かってきていた。
「何だあれは?」
「分かりません。砂煙が酷くて」
「こいつらの応援か」
「前に来た賊の残党かもしれませんね」
「可能性はあるな……よし、皆に知らせろ。外で迎え撃つぞ」
「かしこまりました」
村人は連れていたスナドリに乗って村に向かいながら「追っ手が来たぞー」と大声を上げて砂漠に散らばる同士たちと村にいる者達に呼びかける。
彼女は気怠げな視線を距離を詰めてくる砂煙に向ける。
もはや憎しみも怒りも沸かなかった。ただ村を守らなければという使命感だけがあった。
村の男達はスナドリに乗って村を守るように外で隊列を組み、その中央には彼女の姿もあった。
やがて迫り来る砂煙は村に近づくと共に徐々に速度を落としていき、彼女の前に来る頃にはすっかり静止した。シルエットから砂煙は絨毯のような広い腹で砂を巻き上げながら進むスナエイの仕業らしい分かった。
村人達が身構える中、砂煙の中から三人ほどの人影が歩いてくる。
「何者だ!」
彼女が威勢ある声で尋ねた。
人影はやがて砂煙を抜けてはっきりと自分らの姿を露わにして、立ち止まった。
三人の真ん中に立った男が口を開いた。
「久しぶり」
彼女は息を呑んだ。
彼女の鼓膜を心地よく揺らすその低い声には聞き覚えがあった。
彼女は目を見開いた。
その精悍な顔立ちの偉丈夫の姿には見覚えがあった。
見慣れない白い幾何学模様の刺繍の施された緑の布服を纏っているけれども、髭も伸びていたけれど、その男は間違いなく、夫であった。
彼女は驚いた表情のままスナドリから降りる。
「お前……」
「やあフレア。ただいま」
「本当に……本物……なのか」
彼女に事情の説明を求められたと思った男は、彼女と別れた後のことを話し始めた。スナカバに追われ続け逃げられないと思って匂いの付いた服を脱ぎ捨てて囮にし自分は偶然に見つけた死んだばかりのスナヘビの死骸に身を隠してやり過ごしたこと、水も尽きて死を待つばかりだった男の傍を偶然にもスナエイに乗った遊牧民が通りかかり拾ってくれたこと、そのまま村に連れて行ってもらって世話になったこと、村にオアシスがあると聞いて是非とも交易をしたいと言ってくれたこと、スナエイを借りて遊牧民二人と共にここまで来たこと……。
勿論彼女には夫の話など全く耳に入ってこなかった。重要なのは夫が生きていたと言うことであった。
それが何よりも大切で、それだけで充分だった。
彼女はゆっくりと夫の元へと近づき身体に腕を回した。
「遅いんだよ馬鹿……どれだけ心配したと思ってる……」
彼女はその存在を確かめるように夫の身体を強く抱きしめる。夫もゆっくりと背中に腕を回して抱きしめ返す。
「それは、すまなかった」
「私は、もう会えないかと……」
「本当にすまなかった」
やがて彼女は身体を震わせながら、言った。
「よ゛か゛っ゛た゛ぁ゛……生゛き゛て゛て゛よ゛か゛っ゛た゛ぁ゛……」
彼女は顔をぐしゃぐしゃに歪めて大粒の涙を流しながら大泣きしていた。そこには族長としての威厳など無くて、ただ愛した人間の無事を噛み締める一人の女の姿があった。
騒ぎを聞きつけていつの間にやら集まってきていた村の人たちも皆、男の帰還を喜んで泣いていた。
彼女は男の身体をいつまでも抱きしめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます