虚海生物対策局員に愛される

夜が深まって家々の明かりも消えた住宅街を背中に長い筒を背負った一人の若い女性が駆けていく。身体を動かすのに邪魔にならないように肩甲骨に届くほどの長い後ろ髪は結われていて、前髪はセンターで分けられ、切れ長の瞳と薄い唇、スラリと伸びた背筋は凛とした雰囲気を漂わせる。ネクタイを締めた白シャツの上に来ているのは虚海対策局員の制服でもある紺色のコートで、左胸にはその証である白い錨のバッジがついている。


不意に、彼女が足を止めた。


音が聞こえたからだった。誰かが急ぎ足でコンクリの上を踏み鳴らしていく音が。それは段々と近付いて来る。彼女はその足音が、隣の家々の隙間の小道で、自分が今立っている道路に対して平行に伸びている真っ直ぐな路地の奥の方からするものだと予測した。深夜の慌ただしい足音には二種類ある。虚海生物が人間をおびき出すためにわざと立てる足音らしきものと、虚海生物から逃げる人間のもの。いずれにせよ虚海生物に辿り着く。彼女は背中の筒から槍を取り出して握ると、路地に対して垂直な小路に入って待機し、前を通過する物体をじっと待った。


やがて大学生と思われる青年が背後を気にしながら目の前を走り抜けていった。そのすぐ後を、地面から牙の生え揃った口を大きく開けながら泳ぐ巨大なアンコウが追いかけて行った。


予想的中。


彼女はすぐさま地面を蹴ると駆け出し、路地に入り込み、駆け出した勢いのまま見上げる程に高く高く飛び上がった。そうして槍先を真下に構えると、未だ青年を追いかけているアンコウの脳天に狙いを定め、重力のままに一気に落下した。槍はアンコウの身体を容易く貫通し、吸収しきれなかった衝撃は地面を凹ませて周囲に衝撃波として伝わった。ビルの窓が、カタカタと揺れた。


アンコウは全身を白くして動かなくなった。


彼女はアンコウの頭から飛び降りると、尻もちをついている青年に、黒いレザー手袋を被った右手を差し出す。


一般人にとって、目の前で起きた光景はおよそ有り得ない事ばかりだろう。だが、問題は無い。虚海生物とそれに関する全ての記憶は眠りと共に忘れ去られる。だから今の出来事は奇妙な夢と同等だ。尤も今この瞬間だけは、戸惑いや恐怖で正気を保っていられない人がほとんどだが。




「ありがとう!」




青年は違った。まるで何事も無かったかのように、アンコウの怪物に追われていたという非日常など起こり得無かったかのように、随分と涼しい顔で彼女の手を掴んだ。


黒いコートを着た彼は、大学生のような見た目だった。それもかなり容姿が整った、雑誌の表紙にでもなっていそうな如何にも女好きしそうな顔をしていると、女性は一瞬思った。が、どうでもいい事なのですぐに忘れた。


そんな事より重要なことがあった。




「貴方、手が……」


「それじゃ!」




青年はニコリと笑うと、彼女の手を離して路地の向こうへと駆けて曲がって行った。




「あ……」




と彼女は小さく口を開け、その遠くなる背中を慌てて追いかける。だが曲がった先では既に彼の姿は無かった。


彼女は自分の手の体温を確かめるように皮の手袋を外して、直接首に当てた。


冷たかった。


でも、彼の方がもっと冷たかった。


この気温で冷えた、では全く説明できないくらいに。


言うなれば深海のように、冷たかった。






虚海。


それは現実世界とは別に存在する影の世界。そこにはどういう訳か深海に生きる魚介類にも似た姿をした生物たちが多数生息しており、彼らは人目に付かない影のある場所で、時々人間を襲って食糧とした。


それを防ぐために国によって設立されたのが虚海生物対策局だった。局長の娘であり、母を虚海生物に喰われた彼女もまた局員となった。


特別な訓練を受けた局員たちは支給された槍の武器を片手に今日も虚海生物を駆除している。


全ては国民の安全のために。






深夜。その日は雪が降っていた。


気温は零度を下回り、吐く息は白くなる。コンクリの地面には既に薄く雪が積もり始めていた。未だ経験の浅い下級局員である彼女は、初老に差し掛かろうかという白髪の上司の男と共に駅付近の現場へと向かっていた。彼女が一人で向かった依然の現場とは違う、被害者数がそこそこ多い獲物らしかった。




「とりあえず二手に分かれて探しましょうかね」




家電量販店からファストフード店まで雑多な建物が立ち並び、複雑な迷路のように沢山の細い小路を生み出している駅周りの景色を忌々しそうに見渡した上司は、彼女へと振り返って言った。




「分かっているとは思いますが、獲物を見つけたら私に連絡をして到着を待ってください。相手はトラップ型のイソギンチャクです。くれぐれも一人で突っ込もうとは思わないように。死にたくなければねぇ」


「はい」




自信の冗談めかした口調に眉一つ動かさずに返事をした彼女をつまらなそうに見遣ると上司は振り返って、さっさと捜索のためにビル群の中へと駆けて行った。


一人になった彼女も、上司とは別方向に建物の間の暗闇が広がる細い道へと入って行った。


両隣を建物の壁に挟まれている。閉塞感があった。それに静かだった。まるで雪が周囲の音を吸い取ってしまっているかのようで、生き物の気配などまるで感じなかった。死の世界。振り返って遠くに見えるコンビニの明かりが恋しく感じた。


流石にこんな場所にはいないか。


彼女はそう見切りをつけて踵を返そうとした。しかしその時。ふと、視界の隅で光を見た。反射的に視線を向ければ、それは路地の奥の曲がり角から漏れていた。街灯や店の光とはどうも違う。青白く淡い光だった。


冷静であれば普段とは違う状況を訝しむことが出来たかもしれない。しかし彼女はその光が気になって仕方なく、もはや魅力的にさえ思えてしまっていた。


あえて言えば、この時点で既に彼女は獲物の術中に嵌っていたと言えるだろう。


彼女が光に引き寄せられる蛾のようにふらふらと歩いて行き、角を曲がれば、そこには青白く発光する木が生えていた。降りしきる雪の中で光るその木は神々しさを纏っていた。標的たるイソギンチャクであった。


彼女は気付いていない。


立ち止まって眼を見開く。


木には沢山の実がぶら下がっていた。その実は球状で透明で、その中に映っていたのは彼女の母とのかけがえのない思い出だった。幼い頃に母に髪の毛を結ってもらった記憶、一緒にご飯を食べた記憶、雑貨屋に買い物に行って二人して楽しく商品を選んだ記憶……。


懐かしき日常の数々が、今は失われた大切な時間が、そこには幾つも映し出されていた。彼女が夢見る程に、目覚めてもうこの世に居ない虚しさに涙する程に焦がれた母はそこにいた。彼女はそれを近くで見たくなってもっと木に歩み寄る。伸びている木の枝に手を伸ばして引き寄せて、愛しい記憶の実を真正面に引き寄せる。


夢中になって覗き見た。


網膜に焼き付けるように。寂しさを埋めるように。


その間彼女は無防備で、それが虚海生物の狙いだった。木は彼女の知らないうちに形を変えていく。四方に伸びていた木の枝は徐々に彼女を包むように、まるでパーを閉じていく手のように、彼女の周りを囲んでいった。


それは獲物を逃がさないためであった。後は彼女の足元に虚海へと続く大穴を開けて、落せば良いだけ。しかし彼女が獲物にそうして襲われる瞬間、足元がぐらぐらと揺れた。




「っ!?」




彼女は咄嗟に地面を蹴って距離を取る。同時に木の根元から大きなクジラが飛び出すように現れて、その牙のびっしりと生えた大きな口で木を咥えて噛み潰してしまった。飛び出したクジラはやがて地面の上に大きな地響きを立てて身体を着地させる。彼女は揺れに耐えきれずに後方にバランスを崩して尻もちをついた。目の前で起きた光景の脳卯内処理がまるで追いつかなかった。美しい木を見つけて、母の思い出を眺め、気付けばクジラに変わっていた。


見上げる先、クジラの背中に誰かがいた。飛び降りて雪の上に着地する。




「やあ、また会ったね」




黒コートを着た人当たりの良さそうな青年。そうだ、見た事ある。彼は、先日に虚海生物に追われているところを助けた青年だった。


青年は未だ座り込んでいる彼女に手を伸ばした。




「この前の借りを返しに来たよ」




青年がにこりと笑う。彼女は”ありがとう”と言いながらその手を取って立ち上がった。やはりその手は、驚くほどに冷たかった。とても生きている者の温度ではない。それはまるで虚海生物のような。いや虚海生物そのもの。彼は、虚海生物だ。間違いなく。目の前の巨大なクジラもそれを証明している。それは虚海生物が持つ人間を食べるときに使用する捕食器に違いなかった。何故だか今はそれが、木に、正確に言えば木に擬態したイソギンチャクを食べ、その本体なのか疑似餌なのかよくわからない青年に助けられた。彼女はそう認識した。




「貴方は虚海生物ですね」


「ご名答」


「何故私を襲わないのですか?」


「う~ん、それはねぇ……」




彼が悠長に答えを蚊が得ている間に状況は変わる。




「ああ、無事だったんですねぇ」




地響きを聞いて上司が駆け付けたのだ。上司は青年とクジラを見るとニヤリと笑みを浮かべる。




「おやおやおや。聞いていた話ではイソギンチャクでした化けクジラだったんですねぇ。お手柄ですよ~志貴さん」




上司はそう言いながら背中に背負っていた入れ物から槍を取り出す。




「それでは、さっさと駆除いたしましょうかね」




上司は腕を引いて槍を構えた。青年は”まずいなぁ~”と呑気につぶやく。いくら虚海に逃げ込むことの出来る虚海生物であろうとこれほどの近距離では投擲された槍からは逃げることが叶わない。そうしてただ立ち尽くす彼に上司が槍を投げようとした寸前、彼女が両手を広げて青年の前に立った。




「ちょっと待ってください」




今まさに槍を放とうしていた上司は驚いた表情をして腕を止めた。だがそれより驚いていたのは彼女自身だった。自分でもなぜ虚海生物などを庇ってしまったのか分からなかった。ただ衝動的に、この虚海生物は自分に害を与える気が無いと本能が判断し、ならばと、守ってしまったのである。




「どういうつもりですか?」


「この虚海生物は私を救ってくれました。ですから……」


「ですから見逃せとぉ? いやぁ~、それは無理な話ですねぇ」




上司は小さな子供に物を教えるように言う。




「何を吹き込まれたか存じませんが、それが虚海生物である以上は駆除対象ですよ。第一、それが人間を襲わない保証がどこにあるのですか」


「ですが」


「はぁ、分かりました」




押し切られると思った彼女であったが、上司は意外にもあっさりと槍を降ろした。代わりに目を見開き愉快そうな笑みを浮かべた。




「偶にいるんですよねぇ、人間そっくりの虚海生物に心を動かされてしまう愚かな新人が」




上司は槍をケースに仕舞いながら代わりに鎖を取り出す。そして目にも止まらぬ速さで投げつけて、あっという間に青年の身体とクジラの身体に巻き付けて拘束した。


これで一匹と一人は逃げることが出来なくなった。




「ですからそう言う勘違いをしちゃう子には特別な教育を行うんですよね」




言いながら上司は本部のある方に向かって歩き始めた。クジラと青年は上司の握る鎖に引っ張られて行く。




「楽しみにしていてくださいね。後ほど、本部の方から連絡と素敵な贈り物が恐らくありますから」




上司はそう言い残して歩いて行った。






後日。




家に青年がきた。局の偉い人間からの指示もあった。曰く、1か月生活を共にした後に、好きに処分しろと。つまりこの指示の目的は、まだ虚海生物に同情するような新人に対し、あえて虚海生物と共に過ごさせることで、人間との違いを嫌という程実感させることにあった。人間に似た姿をした虚海生物というのは大抵人間をおびき出すための疑似餌であり、似ているのは見た目だけで心などはまるで持ち合わせていないので、共に過ごすだけでその違いはうんざりするほど明るみに出てくるのである。


だが彼女の目の前に立っている青年と言えば、




「やぁ、またまた会えたね」




普通に会話が出来てしまっていた。これは虚海生物にしては随分と稀有なことだった。




「一か月後には永遠にさよならです」


「そっかぁ。なら一か月の間、よろしく」


「呑気ですね」


「今更焦ってもどうにもならないしね。鎖で縛られてて虚海に潜れないし、捕食器もとりあげられちゃったし」


「あのクジラですか」


「うん。まぁ人間にとっては危険だからだろうね~」




彼はつまり人類に仇なす方法を失った完全な丸腰という事である。考えてみれば当然だ。新人に送り付けるのに、抵抗する能力などあってはならない。


彼女はずっと気になっていたことを聞く。




「聞きたいのですが」


「何でもどうぞ」


「なぜ、疑似餌の貴方は仲間である筈のアンコウ種の虚海生物に追われていたのですか」


「ん~、仲間じゃなくなっちゃったからだと思うな」


「仲間じゃない?」


「うん。少し前に僕の主であり、僕を作った王が死んじゃったんだよね。そのせいで僕は虚海生物でとしてすら見てもらえなくなったみたい」


「王とは」


「王は王だよ」


「……なぜ自然に喋れるのですか」


「それはね、賢い王が僕をそう言う風に、文字通り一生懸命に作ったから何だよねぇ」


「……はぁ」




結局、”王”という存在がいること以外は大したことは分からなかった。




「これから一か月、仲良くしよう!」




彼は爽やかに笑った。










……そうして月日が経過した。




「あれからまさか、こうなるとは……」




ベッドに座り透明なテーブルの上で本を読んでいた彼女は、一旦読書を中断し視線を下にずらして、膝の上に頭を置いたいわゆる”膝枕”の体勢で携帯ゲームをしている青年を見下ろした。視線に気付いた青年が携帯ゲーム機から視線を外して、口角を上げながら彼女を見上げる。


期限の一か月を越えても尚、彼女は青年を処分していなかった。




むしろ、好きになっていた。




「どうかしたかい?」


「いいえ。ちょっと過去を思い返していただけです」


「過去を、ね」


「まさか貴方と恋人同士になるなんて夢にも思っていませんでした」




当初は当たり前のように処分する気でいた。この青年が他の虚海生物同様に人間みたく物を考えることが出来ずにただの見た目だけの模造品の人間をおびき出すための疑似餌であったならばそれも果たされていただろう。しかしこの青年は会話することが出来るのみならず、彼女に共感をすることが出来た。彼女にとって不快だと思われることは避け、彼女が喜ぶであろうことを、具体的には彼女が仕事に出ている間に家事を済ませるなどの行為を行っていたのである。


賢い王とやらはどうやら彼に人間としての心を作り与えたらしかった。


それに、青年は彼女とは正反対にうんざりするほどに楽天的で陽気で興味津々で冗談が好きで、だから一緒にいる彼女はまるで退屈することが無かった。仕事ばかりの彼女が普段決して行くことが無いようなカラオケや水族館と言った人間の為の娯楽施設に行くことをねだり、くだらない話をやたら饒舌に話して彼女を笑わせ、落ち込んでいる彼女を励ましたりもした。


そうして日々が過ぎるうちに、気付けば彼女は青年の事が好きになってしまっていた。疑似餌の彼にまんまと釣られたと言われれば全くその通りである。彼女はもはや青年を処分などは出来る筈も無かった。だから恐らくはバレていることは承知で、こっそり家で”飼い”続けた。


また。


驚異的な事には、青年は恋愛感情までもを理解していたようだった。王とやらは、恋心を抱けるほどに精密に彼を人間に近付けて作り上げたのである。そしてその対象は無論彼女で、身体を猫のように擦り寄せたり、”好きだよ”だの”可愛いね”だのと歯の浮くようなセリフを言ってみたり、人間よりも聊か直接的な感情表現をするので彼女にもすぐにそれと知れて、結果的に双方向な恋仲となった。


種族が違う事を除けば、おおよそ順調に関係を深めているように見えるがしかし、二人の仲は一定以上の進展は無かった。


二人の間で男女の性的な行為は、一切行われなかったのである。身体を重ねることも無ければキスをすることすら無かった。王の渾身の作品であり同種族において異端である青年にはそういった欲求もどうやら存在してはいるらしかったが、彼女が少しでもその気配を見せると決まって彼は敏感にその空気を感じ取り、のらりくらりと躱してしまうのである。


そうして”ふむっ……”と彼女が不満げに頭を悩ませ、”多少強引にでも押し倒すべきかしら”などと思案している頃だった。


局長室に呼び出された。






局長室は息の詰まるような緊張感のある空気に包まれていた。その中心にいるのは大きな執務机に両肘をついて座っている、白髪交じりの髪をオールバックにし、細い眉の間に奈落のように深い皺を刻み、崖のように切り立った鼻梁を持つ、屈強なスーツ姿の男。この男の風貌からは厳格な内面が滲み出ており、見る者には頭を垂れなくてはいけないと思わせるような威圧感を与える。男の役職を知らない人間であろうと、廊下ですれ違えば口を揃えて言う事だろう。


局長、と。


さらにそんな局長の隣には白衣姿の老婆が立っていた。歳を重ねて柔らかな空気を纏う彼女は虚海生物研究所の所長であり、普段研究所に居る筈の彼女が居ることは、この場に特別な意味合いをもたらしていた。




「それで、どのような御用件ですか。局長」




虚海生物対策局員の制服である紺色のコートに身を包んだ彼女は、机の前で礼儀正しく足を揃え背筋を伸ばした立ち姿のまま、実の父にそう問いかけた。無論、仕事の場では”局長”である。


父は重たい口を開き、よく響く低い声で言った。




「単刀直入に訊く。お前が生かしたままにしている虚海生物の疑似餌と接吻や性交と言った性的行為を行ったか?」


「彼と暮らしていることは知っていらしたのですね」


「質問に答えろ」




父は、答えをはぐらかした娘を言葉の圧を強めて咎めた。その質問がただ娘の色恋事情を興味本意で尋ねているような軽いものではなく、もっと重要な意味を持つことは明らかだった。




「まだ何もしていません」




彼女は端的に答えた。それが、まるで自分に大人の魅力が不足していますと白状させられているかのようで居心地の悪さを感じたが、父には当然そんなことは関係なく、彼女の答えを聞いて張り詰めさせていた緊張を少し解くようにため息にも似た息を吐いた。


空気が少しだけ緩む。




「なぜそのようなことを?」




彼女が尋ねると、父は言葉を返す代わりに隣に立つ所長に顔を向けた。父の視線を受けた所長は緩やかに頷くと白衣のポケットに手を突っ込んで何やら操作した。局長室の照明だったらしい、明かりが消えて真っ暗になった。所長が執務机に乗せていたパソコンを手にして、彼女の顔が浮かび上がる。所長がキーボードを叩けば、3人の中心に3Dの立体ホログラム映像が浮かび上がった。


白いマウスだった。


ケースに入ったマウスだった。




「志貴ちゃん、このマウスは研究所で飼育されている実験用マウスよ」




所長がしわがれた優し気な声で説明を始める。




「このマウスに、最近ようやく培養に成功した例の疑似餌の細胞を移植すると……」




所長がそこで言葉を切ったので、自然と視線は映像に向く。


ケースの中のマウス。


ちょこちょこと動き回るマウス。


毛繕いをするマウス。


次の瞬間。


マウスが、浮かび上がった。正しく言えば、床の茶色いチップの敷材にぽっかり空いた黒い穴からタコの細い腕が伸びてきて、マウスの身体に纏わりつき、掴み上げた。マウスは鼓膜を引っ掻くような甲高い鳴き声を響かせながら暴れるがタコの拘束からはまるで逃れることが出来ずに、最期には憐れにも穴の中へホラー映画の如くずるずると引きずり込まれて行ってしまった。




「察している通り、このマウスは虚海のタコに捕まって連れていかれてしまった」




映像がリプレイを繰り返す中、所長は説明を再開する。




「もしかしてと思って尿や血液と言った体液を摂取させてみても結果は同じだった。マウスは虚海に一匹残らず引き摺りこまれた」




所長はそこで一旦間を置いて、彼女の方を見た。




「これが意味することの重大性。志貴ちゃんにも分かるわね?」


「虚海生物が現実の生き物に触れている」


「その通り」




それは、あってはならない事だった。


虚海生物に対する共通認識としてこの世界のあらゆるものに触れることが出来ない、触れたらその瞬間から溶けて、崩れ去って、形を失う。というのが、常識であった。理由は定かではないが、一説には元々虚海生物と人間とは同種であり、古くに袂を分かった両者は世界を住み分け、それが世界の理となり、交わることを許されなくなったと、言われる。故に虚海生物は狩りをする際、疑似餌や何らかの物体や匂いやその他諸々を利用して獲物である人間を目標地点へと誘導し、地面に虚海に通じる穴を開け、落下させ、分解していく。そうでなくとも使い捨ての捕食器を用いて、獲物を捕らえて、溶けるその一瞬よりも更に素早い速度で虚海に引き摺りこんだり、何度も捕食器を再生させて狩りをする(サメ型の歯は人間を噛むと何度も溶けながら新たな歯が生え続ける)。それが人間が虚海生物の生態について今までに知り得た数少ない情報の一つだった。


マウスの実験結果はその常識を覆していた。


タコは平気でマウスを掴んでいた。




「まだ仮説ではあるけれど、恐らくは虚海生物を構成するものを取り込んだ生物は、虚海生物が触れることが出来るようになってしまう、と私たち研究班は考えている」




ここからが大事だとばかりに、所長の声が一段低くなる。




「志貴ちゃん、これをもし人間に当てはめるとしたらどうなると思う?」


「いつでも襲われてしまいますね」


「そうね。でも本人には悪いけれど、それだけで済んだらまだマシ。本当に恐ろしいのは、その人間の生殖能力を利用して、生まれ持って人間に触れることが出来てしまうような虚海生物が量産されられる可能性があるということなの」




虚海生物は今のところ生殖能力が確認されていない。




「捕まれば、男も女も、虚海生物の子作りに利用される」


「忌々しい話だ」




所長の隣でずっと沈黙していた父が吐き捨てるように言った。暗闇でも不機嫌そうに眉を寄せていることは容易に想像がつく。




「虚海生物の癖に人間の真似事をしようとは烏滸がましい」




所長が再び白衣のポケットに手を突っ込んでスイッチを操作し、局長室は明かりを取り戻した。父の鋭い眼光が彼女の瞳を捉える。




「今のでお前も理解した通り、人間に触れられる、イレギュラーと呼べるあの疑似餌は人類に対してひどく危険な存在だ。アレがその気になれば虚海生物にとって都合の良い人間が容易く作れる」


「彼は人間に危害を加えようなどとは思っていません」


「可能性を持つ時点で有害だ」




父は意見に異を唱えることを認めない。




「よってあの疑似餌を処分することにした。研究所の第3実験室を開けておく。予定日になったら、お前がアイツを鎖でつないで連れてこい」


「拒否します」


「連れてこなければお前を重大な規則違反で処分すると言ってもか」


「拒否します」




彼女は毅然とした態度で自らの所属する組織のトップからの指令を拒絶した。


父は机の上に置いていた握り拳を細かく痙攣させると、やがて頭に青筋を浮かべ机を力強く叩いた。




「ふざけるなぁ!! お前の身勝手でどれだけの人間が危険に晒されているか分かっているのか!」


「そんなことは知ったことではありません! たとえどんな事情があろうと愛する人の命を差し出すような真似は絶対にしません!」




父の物言いには誰もが怯みそうな凄味があったが、彼女は間髪入れずに真正面から言葉を返した。父は憎らしそうに娘を睨んだ。




「アレと大勢の命、天秤にかければどちらが重いかは明らかだろう」


「私にとっては彼の方がずっと重いです」


「計算の出来ない頭の悪い意見だ」


「そうして数に囚われていたから、お母さんを失ったのではないですか」


「なに?」




突然出てきた母の名前に父は視線を鋭くする。母が死んでから、両者の会話の中に母の名が出てくることはほとんど無かった。まるで触れてはいけない話題かのように、お互いに意図的に避けてきた。


その名が、娘の口から出た。




「お母さんを助けることも出来たのに、貴方はそれを選択しなかった」


「……」


「確かに、あの時は虚海生物の未曽有の大量発生が起こった年で、局員の数がまるで足りていなかったと聞いています」


「そうだ」


「その中でも当時黒錨で班長だった貴方は、自由に班を動かすことが出来る立場にあった」


「それも正しい。だからこそ私は、人々が多くいた都市部へと応援に向かった」


「そうですね。その選択によって都市の外れの避難所に避難していた私たちは見捨てられた」


「責めようと言うのか」


「いいえ。貴方の、大勢を救うという選択は決して間違っていなかった。ですがその結果として、あの避難所にいた人間はほとんど死ぬことになりました」




「お母さんも。私を守るために私さねtの身体を突き飛ばして、目の前で口を閉じたラブカ型に身体を半分に千切られながら虚海へと引き摺りこまれてしまった」




「生き残った私は涙が涸れる程に泣いて、そうして決意したのです」




「将来自分に大切な誰かが出来たら、何よりも優先して守ろうと」




父は”ふんっ”と鼻で笑った。




「現実を考えない、子供らしい意見だな」


「いくらでも笑ってもらって構いません」


「それで? 理想を語るのは勝手だが、アレの持つ危険性は何も変わらない。まさかお前のその我儘だけでアレを野放しにしろと言う気ではないだろうな」


「はい。彼の動向を私は常に掴んでいます」


「どうやって」


「彼を拘束する鎖の先のアンカーを私の心臓に引っ掛けています」




彼女は言いながら右手を心臓のある位置に添えた。父は目を見開いた。彼女は続ける。




「これによって、私は彼がどこで何をしているのか何時でも把握することが可能です。また探知不可能になる虚海水深5mより下には潜らない事を約束し、それが破られた場合、私の心臓は引き千切れて死にます。まあ、不安であれば私の生死の状態に拘わらず、私の身体を調べてもらえれば、繋がった鎖を辿って彼の在処を知ることが可能です」


「お前、自分が何をしているのか分かっているのか?」


「ええ」


「アレに自分の生死を握らせているんだぞ!」


「そうですね。でもそれで、彼を自分の元に繋ぎとめておけるのならば安いものです」




彼女は悲しげに笑った。




「自分の大事な人を失うのは、死ぬよりよほど辛いことですから」




悲哀をたっぷりと含んだその笑みには、美しさとある種の狂気が感じられて空気が一瞬静まる。


”それと”と彼女が畳みかける。




「私を疑似餌として使うのはどうですか」


「どういう意味だ」


「私が彼と関係を持つことで虚海生物にとって魅力的な存在となり、奴らをおびき寄せるのです」




彼女は平然と言った。父は、再び机を叩いた。




「そんなの認められるわけないだろ!」




父は激怒した。実の娘が自分を囮として使えと言っている。それは親としての心が許さなかった。そんな父を宥めるような冷静な声で彼女が、言う。




「今、人類は虚海生物に対して常に後れを取る状態が続いています。いつも被害が出た後に現場へと向かい対策をすることになる。しかも奴らは末端の所謂雑魚ばかりで、おまけに虚海生物は無数にいる。これではキリがありません。」


「分かっている」


「私一人に沢山の虚海生物を集中させることが出来るかもしれません。それは未然の被害を防ぐことに繋がります。それにもしかしたら、彼が”王”と呼ぶような虚海生物を作り出している上位種をおびき寄せることが出来るかもしれません」


「分かっている」


「私という少ない犠牲を払ってより多くの命を救う。それは局長の主義に合致しているのでは」


「分かっている!」




彼女の言っていることは合理的で認めざるを得なかった。だが娘に危険が降りかかることが分かっていて、ただ頷くわけにもいかなかった。だからせめて危険が少なくなるように条件を出した。




「一年だ。あと一年で黒錨になって自分で自分の身を守れることを照明しろ。それが出来たらお前の言った策を実行する」




それはひどく無茶な注文であった。


黒錨は局員に与えられる最も高位な階級であって、膨大な数の虚海生物の駆除や名前の付けられるような一筋縄でいかない狂暴な虚海生物を討伐するなどの功績を必要とした。それを成し得るのは大抵10年以上のベテラン局員で(10年も駆除局員として前線に立ち続けるのは既に異常なことである)長年の戦闘経験や飛び抜けた戦闘センスを必要とし、ベテラン局員が200人いたら一人いるかと言った割合であった。それ程に難しく、故に局員の誰もが憧れる。


父はその黒錨になれと娘に言った。たった二年に経験しかない娘に。残り一年で。




しかし、彼女は物怖じせずに堂々と言った。




「かしこまりました」






”一つ目の壁はクリアですね”


彼女は心の中でそう呟く。










それから彼女はひたすらに虚海生物を狩り続けた。


元々、局長の娘であり数少ない女性局員でもある彼女は何かと局員の注目を集めやすかったが、その仕事に対する姿勢が局員の間でいつしか話題になっていた。


局内の喫煙室で、二人の男性局員が話をしている。




「なぁお前、局長に娘さんがいるの知ってるか?」


「そりゃ勿論。あの娘、美人だよなぁ。黒髪ロング清楚系……。正直、めっちゃタイプだわ」


「話しかけてみたら?」


「無理だろ。局長に殺されるわ」


「間違いないな」


「ていうか、最近あの娘めちゃくちゃ現場で見るんだけど」


「俺も見たわ。昨日も見たし。噂じゃ毎日現場に行ってるらしいぜ」


「流石に嘘だろ。そんなの死んじまう」


「だよな。ただでさえ大怪我多いし死亡率高いのに休みなしとか死に急いでるわ」


「ああ……。でも、それは合ってるかも」


「え?」


「前、現場が一緒だったんだけどよ。あの娘どんどん前に行くんだよ。何て言うか恐怖心が無いって言うか。まじで死に急いでるじゃねーかってレベル」


「あぁ」


「でもよ、全然敵の攻撃とか当たんねえの。全部予想してるみたいに躱してさ」


「俺も見た見た。すげーよな、あれ。ベテランかよってな」


「なー」


「しかもめっちゃ強えんだよな。最低限の手数で確実に急所にぶっ刺していって……。俺、やること無かったわ」


「マジでそれ。あれで黄錨とか絶対嘘だわ」


「きっとああ言う天才が黒錨になるんだろーな」


「天才っつーか狂気だろ、あれは」


「違いねぇ」






それからやがて、虚海生物対策局の定期総会が行われる。会場に大勢集まった局員たちの視線を受けながら、彼女は壇上へと上がり、演台で待つ局長の前に立つ。




貴殿は……。


現在までの虚海生物の総討伐数は……。


さらに、タカアシガニ種『断切』、オオグチボヤ種『丸呑み』、ラブカ種『暴食』、クラゲ種『幻惑』、ダイオウイカ種『全知』の討伐……。


これらの功績によって……より……。




貴殿に”黒錨”の称号を授与する。






彼女は黒錨となった。


3年目での昇進は異例であり、最年少記録であった。


彼女は、父との約束を果たした。














”2つ目の壁もクリアですね”


彼女は心の中でそう呟く。














その日の夜、寝床に着く時間を迎え二人して寝室に向かった。床の上には横並びの布団が二つ。いつものように彼はしゃがんで布団に入ろうとしたがその前に「ちょっとお話しませんか」と眼鏡を外した彼女が切り出した。「勿論いいよ」と彼は返し、二人して布団の上に向かい合って座る。


青年はあぐらで、彼女は正座で座った。




二人は視線を交わらせる。




「さて、どんな話をしようか? 寝る前にとっておきの怪談話でも披露するかい?」


「それはちょっと気になりますね……。でも、今聞いたら眠れなくなっちゃいそう」


「トイレに行く度に起こしてくれて構わないよ??」


「そんなの恥ずかしくて私が嫌ですよ」




彼女は可笑しそうに笑いながら言った。それから一呼吸置いて彼女は微笑みを浮かべながら切り出した。




「今日の私の晴れ舞台。見てくれていましたか?」


「それは勿論。人が多すぎたからドームの屋根の梁にこっそり座って眺めさせてもらったよ」


「どうでした?」




彼女は青年に問いかけるように少し首を傾けた。その柔和な表情にはしかし、内なる自信が見て取れた。


長い付き合いになる青年はその期待を見逃さない。彼は瞳を大きくして口角を上げた。




「とてもカッコよかったよ。僕ら虚海生物が震え上がっちゃうようなおぞましい数の局員たちの視線を壇上で一身に受けながら、局長から”黒錨”に任命された堂々たる君の姿は本当にクールだった」


「ありがとうございます」


「さながら、新たな王の誕生を目にした気分だったね」


「それは、ちょっと大袈裟かもしれません」


「いいや、ちっとも大袈裟じゃないさ。君を見ていた人間たちの目には驚愕と尊敬と羨望が入り混じっていた。君はあの瞬間、間違いなく”特別な存在”となったんだ」


「ふふ。そこまで言われると照れちゃいますね」


「君の偉業には誰も文句は言えないし、もっと胸を張れば良いと思うよ」


「分かりました」




彼女は照れくさそうに笑う。




「それなら……私が胸を張るために、”頑張った”って自分自身を認めてあげるため、ご褒美をくれませんか?」




彼女のお願いに青年は笑みを返す。




「実に良い考えだね。欲しいもの何でも言ってみてよ。まあ、僕がいつかにしていたコンビニバイトで手にしたお金で買えるものかは分からないんだけれど」


「そこは安心してください。私が欲しいものはお金じゃ決して買えないものですから」




そうして彼女は青年の目を真っすぐ見据えて言った。




「キスを、してくれませんか? 」




彼女がこれほどに直接的に性的行為を求める旨の発言をしたのは初めての事だった。


彼は虚を突かれたように目を見開いた。が、それも一瞬の事で、余裕の無い姿を見せる事を最も嫌う彼はすぐに元の爽やかな笑みを取り戻した。




「いいよ。おでこが良い? ほっぺがいい?」


「唇に。恋人同士が愛を伝え合うような深いやつを」


「……んー」




誤魔化そうとした青年。


誤魔化さない彼女。




青年は笑みを浮かべた表情を崩さぬまま口を閉じて唸り、やがて彼女に問いかけた。




「君はタブーって知っているかい?」




話題を変えられた事を理解しながらも、青年が遠回りをしながら慎重に自分の想いを伝えようとしていることを察した彼女はこれに乗っかる。




「禁止事項、ですか?」


「そう。法律などとは別に人間が感覚として嫌うような事柄。例えばそれは、殺人とか食人。あとは近親相姦とか」


「それは……何となく分かります」


「僕は、君と性的な行為をすることについても、そう言ったタブーに似た感覚を強く意識させられるんだ」


「……?」


「つまり、”人間である君と虚海生物である僕がそう言う事をしてはならない”と、本能が強烈に訴えてくる」




どうやら彼は、彼女との行為が何か良くない事を招くと感覚で理解しているようだった。


だが彼女にとってそれは気にする必要のない話である。そのために散々準備をしてきたのだから。




「それで、貴方が言いたいことというのは」


「うん。申し訳ないけれど、君とはキスもその先もすることは出来ない」


「はぁ……」




彼女は深く息を吐いた。呆れて、という訳ではなく、予想通り上手く事を運べなかった自分に対する落胆であった。


こうなれば多少強引な方法に打って出るしかない。


彼をその気にさせるために。




「結局、最後の壁は貴方なのですね」




彼女は呟きながら正座からゆらりと身体を起こして膝立ちの姿勢になると、両手を彼の両肩に伸ばして軽く押した。それほど力が込められているわけでは無かったが、完全に不意を突かれた彼は目を丸くして驚いた表情のまま姿勢を崩し、背中から布団の上に倒れた。その上に彼女が馬乗りになる。


天井の明かりを頭上で受ける彼女の作り出した影に、青年は呑み込まれる。青年の見上げる先、暗がりの中で彼女は蠱惑的な笑みを浮かべて、青年を見下ろしていた。




「なかなか強引だね」


「偶には良いかなと思いまして」




彼女はそうして語り始める。




「私って、多分貴方が思っている何倍も卑しくて下品で欲深い人間なんですよ」




下心を、浴びせる。




「例えば……貴方と話している時に首元の喉仏が動く様をこっそり観察して心の内で悶えたり、お風呂から上がってまだ濡れた髪の貴方が色っぽくて自然と目で追ったり、隣で寝ている貴方を見て襲ってしまおうかと今まで何度も思ったりしたんですよ」


「全然気づかなかった」


「ふふ。それだけじゃありません。黒錨として任命されるように頑張ったのだって、黒錨になれば貴方とそう言った行為をすることを認めるという約束を局長に取り付けたからです。局員ならば誰もが憧れ死に物狂いで目指す誉高い称号を私はただ、貴方と淫らな行為をしたいという”下心”のみで手に入れたのです」




局員の間では清純な美しい女性だと勝手に噂されていた彼女の心の中は、想い人への情欲でドロドロに煮えたぎっていた。それを言葉ではっきりと分からされた青年はその思いに応えたいという衝動を感じるが、それでも未だにタブーの意識が頭の理性的な部分から離れずに現状を回避する方法を考えている。彼女はそれを遮るように、上半身から青年に覆い被さった。




「余計なこと考えないでください」




──私だけを見て。




彼女は笑みを深めてそう言いながら、青年の片手を掴んでその手の平を自らの胸に押し付けるように当てた。




「すごいドキドキしてるのが伝わりますか? もう少しでようやく貴方と愛を交わし合えるっていう期待と興奮でこんなに早くなっているんですよ」


「うん、分かるよ。全力疾走した後みたいに早いね」


「貴方はどうですか?」




気付けば彼女の顔は青年と鼻先が触れ合う程に近くにあって、彼女の長い黒髪が彼女と外界を隔てる幕のように青年の顔の周りに垂れていた。青年の視界には顔を赤く染めて扇情的な微笑みを浮かべる彼女の顔だけが映っていた。


その熱を湛えた瞳から目を離せなくなる。


自ずと支配されていく。




「胸がドキドキして身体がウズウズして頭がぐつぐつしませんか?」




それは問いかけであり誘導である。彼女から向けられた情熱的な視線と彼の手の平で激しく鼓動する胸と言葉が、彼女の性的衝動を虚海生物である彼に生々しく伝える。彼女がどれほど青年を求めているかという事を、教え込む。




「貴方の事が好きです。どうしようもなく愛しています」


「ははっ……。参ったなぁ……」




青年はもはやお手上げだった。彼女の強烈な情愛を浴びせられて共感の最中にその激情に呑み込まれてしまった。取り込まれてしまった。彼女の言葉は自分の言葉となり、彼女の感覚と自分の感覚の区別がつかない。身体が彼女と同じ熱を持つ。


理性は消失した。


情欲と肉欲が彼を支配した。




「ではもう一度」




微笑を浮かべる彼女は、青年の心にそびえていた虚海生物としての壁を自らの愛で跡形もなく溶かし切った事を理解している。


その上で、ようやく剥き出しになった彼の心にトドメを刺すように言った。




「人間としての貴方は、何を望んでいますか?」




青年は自虐的に笑った。


彼女が欲しくて欲しくて堪らなかった。


直接的な愛を求めた。


抗う術はなかった。


余裕が無かった。


だから彼は……返事の代わりにゆっくりと腕を伸ばし、彼女の後頭部を引き寄せ、それから唇を重ねた。




彼女はとても嬉しそうに目を細めた。。

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