十四、一緒に、寝る?
二度目の説得は思いのほかスムーズに進んだ。ユイルがときどきわざと抵抗してみたりしたが、人を欺くということがそれほど得意ではないようで、仏頂面を作っては堪えきれずに笑ってしまっていた。
「私、行くわ」
笑いすぎて目尻に溢れた涙を拭いながら、ユイルはさらりと言った。笑い声や吐息に紛れてしまいそうな決意表明だった。
そうして二人は夜のうちにシャルムに入った。
夜も夜。宿屋に向かう途中の例の歓楽街さえもおとなしくなるような時間――それはすでに夜というより朝のすぐ手前なのだが――そんな時間を使っての移動となった。
それでもちらほら人影は残っている。
誰かとすれ違うたび、隣を歩くユイルの体がこわばるのを感じた。しゃんとした背筋も、いつもと違って無理をしている感じがある。
「そんなにビクビクしていたら余計に怪しいよ」
「び、ビクビクなんて、してないわ」
「堂々と。いつも通りに。ね」
ユイルは無言のまま頷く。
態度もそうだが、それ以上にこの格好は注目を集めてしまう。真っ黒な外套、そして深々とかぶった頭巾。夜であるということに加えて、同行者であるリッドが旅人のような格好をしていたから違和感は多少削がれるが、昼の街を歩くには少々問題がある。
これは何とかしないとなと思ったところで友人の顔が浮かんだ。
「あいつなら何とかできるかな」
うっかり呟いた言葉をユイルが拾う。
「『あいつ』って?」
「いや、なんでもない。こちらのことさ」
誤魔化そうとしたが疑いの眼差しが向けられる。
「ほんとほんと。あ、ほら。着いた。ここが僕が泊まっている宿だよ」
「ずいぶん立派なところに泊まっているのね」
ユイルは三階建ての宿屋の最上階まで見上げて「へえ」と声を発した。
「建物は立派なんだけど、立地的にはそれほど良くないから、思っているより安価で泊まれる穴場の宿なんだ。それに」
リッドは木の扉を力いっぱい引いた。ぎいっと重たい音がする。
すると開いたドアの隙間から、やわらかな光とうまそうな匂いが漏れ出てきた。
こんな時間でも人がいる。
この宿の食堂はいつ来てもうまい飯が食べられると評判で、どんな時間であっても人の姿があった。これが宿を選ぶ際の決め手となった。
今日は三人。別々の客。この店にしては寂しい方だ。
「やあ、ずいぶんと遅いお戻り……で?!」
深夜担当の『姐御』ことサージュはちょうどあくびをしたところだったらしく実に気だるそうにリッドを迎えたのだが、あとに続いて入ってきた人影を見て目を丸くした。人の目なんて気にせず間抜けな顔をさらすものだから、せっかくの美人が台無しになっている。
「なんだ。あんたも一応、そういうことに興味があったんだね」
食堂の正面、バーカウンターの奥でいやらしい笑い方をする。
「絶対言うだろうなと思っていたことを期待通りに言ってくれるあたり、サージュはわかっているというか、わかりやすいというか、――」
「単純で悪かったな」
頬をかすめそうな至近距離を食事用のナイフが飛んでいった。ドスっと鈍い音を立ててリッドたちの後方にあった扉に突き刺さる。隣で見ていたユイルは言葉を失っていた。
「大丈夫。いつものことだよ。ほら」
言って、ナイフを回収しながら扉についた無数の傷跡を指差した。
「サージュ、違うんだ。彼女は郊外に住んでいる子で、明日買い物を手伝うことになってさ。朝早くから動きたかったから、それなら街に泊まった方がいいって話になったんだ。部屋、いくつか空いていたよね?」
「空いてるけど」
サージュはユイルに視線を向けた。探るような目つきだ。
「旅人がよそ者に街を案内するって? その子、この辺の住人じゃないだろ」
目の色や髪の色、着ている服の仕様がシャルムの住人のそれとは大きく異なっているらしい。
「シャルムだけじゃない。ファブール全部で見てもそうだし、うちに来る客と比べてもあんたみたいのは珍しいからさ。どこから来たんだい?」
「ええと、私は……」
「それはまだ内緒なんだ」
リッドはしっと口の前に人差し指を立てて店内を見まわした。三人の客のうちこちらの様子をうかがっていた男と目が合ったが、不意打ちで「やあ」と笑顔を向けるとフッとどこかを向いてしまった。
「内緒? それは仕事に関係ある人ってこと? あ、それともお忍びで来てる、どこかの貴族様だとか」
「まあまあ。そのときが来たら真っ先に教えるよ。だから今日のところは。もう眠たくて眠たくて仕方がないんだ」
リッドはあくびをしながら階段に向かった。
「本当に真っ先に教えろよー。っていうか、街の案内ならアタシがしてやろうか? とっておきの場所に連れてってやるよ」
サージュが得意げに笑う。
「嫌な予感しかしないから遠慮しとくよ。でも、ありがとう」
それじゃあおやすみと挨拶を交わす。
サージュの舌打ちが聞こえたが、そのあとすぐに他の客と会話を始めたらしく、楽しそうな声へと変わっていった。
そんな彼女が「あ!」と声を上げた。リッドとユイルは階段の途中で振り返る。
サージュはバーカウンターから身を乗り出してこちらに声をかけた。
「部屋は空いてるけど、グルダンが連れ込んでるから聞こえるかもしれないよ」
リッドは「なんだ」と息をついた。いつものことじゃないかと返すとサージュは眉間に皺を寄せる。
「あんたは慣れてるだろうけどさ……」
サージュの視線はリッドからはずれてユイルを見た。
「あ。ああ」
リッドは遅れて理解して頭を抱える。
「ま、二階に上がってみてから判断しなよ。ちなみに空いてるのはそのグルダンの部屋の両隣な」
ごゆっくりと手を振るサージュ。
「なんのこと?」
ユイルは怪訝な顔で尋ねる。
「ああ、ええとね」
階段を一段一段上がりながらどう説明したものかと考えた。考えてみたが、行けばわかると思い笑って誤魔化す。
一段一段、二階に近づくと、それは聞こえてきた。
耳をそばだてる必要もない。
人の声が聞こえてくるのだ。
「これのことだよ」
リッドが言ってもユイルはまだ何ごとか理解していないようだった。
階段を上りきり右へ折れ、空き部屋へ向かう。
三つ先のドアが問題の部屋というところにきて、一際大きな声が響いた。
苦しそうでありながらしかしなまめかしい、女の声。言葉でもない悲鳴でもないその声を聞いてユイルは混乱していた。
「なに? なんなの、これ」
「これは、あれだよ。ほら、男性と女性が一緒の部屋で、仲良くしているというか――」
ユイルはきょとんとしていた。
何のことだか理解できていないようで、リッドが発した言葉を拾って何とか答えにたどり着こうとしている。その間にも問題の部屋からは女のものと思しき声が響いていた。
「男性と女性が、一緒の部屋で? 仲良くすると、こんな声を出すの? ……どうして?」
真顔で尋ねる。
真剣なフリをしてからかっているのではと邪推したが、どうやらユイルは何が起きているか本当に理解していないようだ。
「私だって家であなたと過ごしていたけど、こんな声を出すことはなかったじゃない」
「いやあ、仲良くの具合がちょっと特別で」
「特別仲がいいの?」
「まあ、ある意味そうなんだけどちょっと違うというか。とにかく仲良しの二人がひとつの部屋に入ると起こる現象でね」
「仲良しの二人に起きることだけど……私たちでは起きないということね」
何を思ったのか、そう言ったユイルは少し拗ねたような顔をしていた。
「起こしてもいいけれど、そのあと気まずくなりそうだし」
「気まずくなるようなことなの?」
ユイルが眉間に皺を寄せる。答えにたどり着けないもどかしさもあって不機嫌さをあらわにした。
「もう少しヒントが欲しいわ」
「ヒントと言われても……」
リッドは困って頭を掻いた。
どうしたものかと、対策を練るための時間を稼ぐ。しかしユイルの好奇心は止まらない。
「もっと近くで聞けば何をしているかわかるかしら」
言い終わる前に一歩踏み出した。そんな彼女の腕を掴んで力尽くで制止する。
「それはマナー違反だからやめよう」
「そうなの?」
「そうでない場合もあるかもしれないけど、たいていはそうです」
「でも私はあの部屋の隣りに泊まるのでしょ?」
部屋に近づくのは当然だと主張する。
「まさかとは思うけど、部屋に入るなり聞き耳を立てるつもりじゃないよね」
「そんなことはしないわ。でもわからないままというのは嫌だから、わかるまで耳を澄ますかもしれない」
張り切る姿にリッドは肩を落とした。
「わかった。降参。はっきり言うよ。あの部屋では今、いわゆる繁殖行動とか生殖行動とかのアレが行われています」
『はっきり』と言いながら肝心なところを濁してしまうのは、リッドの方にも多少、照れや何かがあるからだ。しかしそれではやはり伝わらない。
「繁殖行動とか、生殖行動の、アレ」
ユイルは復唱するだけ。
「人間の場合は快楽のためだけにすることもあって、あの部屋で行われているのはソレ」
「快楽のためだけにする、ソレ?」
まだピンとこないようだ。
「もっと俗っぽい言葉で言った方がわかりやすいならそうするけど」
耳を貸してと手招きして、小さな声で告げる。おおっぴらに言うのはどうも気が引けた。
ボソボソと、なるべく単調に告げる。
ユイルの動きがぴたりと止まった。
次第に顔が真っ赤に染まったということは、そういうことの知識は少なからずあるようだ。
「この扉の向こうで、ソレが行われているの?」
ゆっくりと視線が問題の部屋の方へと向かう。
「そういうこと」
「こんな声が出るものなの?」
「まあ、人によるんじゃないかな」
「何がどうなればあんな声が出るのかしら」
恥ずかしさを感じながらもまだ好奇心が
サージュが心配したのとは別の心配ごとが湧いてきてリッドは頭を抱えた。
ユイルのことだから、時間も気にせずことが終わるまで耳をそばだてるかもしれない。
それだけならまだいい。
音だけではわからないと隣の部屋を訪問しかねない。
「そんなことするわけないじゃない」
ユイルはそう言って頬を膨らますが、その言葉を素直には受け入れられなかった。
「本当に?」
「当然よ。第一、夜更かしするほど長くなるものじゃないでしょ」
本で読んだという知識をもとにユイルがふんと嗤う。どんな本のどんな情報かはさておき。
「一晩中ということもあったよ」
言うと目を丸くして驚いた。
「ソレって、そんなに長くするものなの?」
「人によるよ」
「あなたはどういう――」
「僕が何?」
「な、なんでもない! ……そう! ほらサージュさん? が、あなたは慣れてるって言っていたから」
「ああ。僕の部屋はだいぶマシだからね。余程激しくならなければ聞こえてこないし。でも隣りとなるとなあ……。相当つらいと思うけど、どうする?」
「どうするって?」
「いや、あの声を一晩中聞きたいと言うのなら別に構わないけど、そうじゃないなら、僕の部屋に泊まった方がいいんじゃないかと思ってさ」
「私が、あなたの部屋に?」
「そう。嫌?」
「い、嫌じゃないけど……」
また一段となまめかしい声が響いた。
思わず顔を見合わせたのだが、どうしてかユイルは慌てて目をそらした。よくみると、耳の先まですっかり赤くなっているではないか。
さては勘違いをしているなとリッドは笑いを堪えた。
「代わりに僕があっちの部屋で寝るよ」
リッドはそう言ってわざとらしく大きなあくびをしてみせた。
「ああ、そういうこと」
一方、ユイルは胸をなで下ろす。
「どういうことだと思っていたの?」
わざと意地悪な質問を投げると、新しい薪をくべた暖炉のようにいっそう顔が赤くなる。
しかしユイルは恥じらいを振り払い、キリッとした表情を取り戻してみせた。
そして言うのだ。
「でもそれじゃあ、あなたが眠れないじゃない」
と。
言いながら、リッドの腕を引く。
しっかり掴むのではなく、控え目に、ちょんと外套の一部をつまんだだけ。そうしてリッドが空き部屋に向かうことを阻止する。これに上目遣いでも加われば男としては弱いのだが、ユイルはそういうことはしない。
睨まれていると誤解してしまうほどの力強い眼差しをリッドに向けた。
「協力してくれるあなたを差し置いて、自分だけすやすやと眠るなんてできないわ。だから、交換じゃなくて一緒に寝ればいいんじゃない、かな」
強気は最後まで保たれず。深夜の宿屋の廊下に語尾が消え入る。
「一緒に、寝る?」
一瞬の静寂におかしな緊張が生まれたせいで、リッドの声は裏返ってしまった。
まるで動揺しているみたいで情けない。
しかしその一声により、ユイルの方はむしろいつもの調子を取り戻したようだ。
「いやあね。何を想像したの?」
ここぞとばかりにさっきの仕返しをする。
「一緒の部屋で、っていうことよ。それが一番平和な解決策でしょ」
ユイルは毅然とした態度でそう言った。
ある意味では平和じゃないような気がするけれどと思ったが、まあいいかと飲み込んでユイルの表情をうかがった。背筋をしゃんと伸ばしツンと澄ました顔をしてはいるがまだまだ頬が赤かった。
本当にいいのかと問うと、こくりと頷く。
「あなたのこと、信用しているから」
まっすぐな瞳でそう言われてしまった。
その言葉は嬉しくもあったが、こんな時に言われる言葉としては嬉しいばかりではなく。男の身としてはなんとも複雑な気持ちになるものだなあと噛みしめた。
そんなことを考えているなどと知られぬように、リッドはありがとうと言ってユイルの言葉に応える。
ユイルは「どういたしまして」と言って無防備に笑った。
「これは……つらい夜になりそうだ」
リッドの弱々しい呟きは、この夜一番の悩ましいあの声にかき消された。
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