第33話 ―椎衣那― The Coward's Soliloquy

 ――私は、君を守りたった。……雪音ゆきね


 椎衣那しいなが発症したのは十八の時だった。医学校に首席で合格して、その後も優秀な成績を納めていた。これで花總の家に認められる、認めさせてやる、そう思っていた。母にも美味しいものを食べさせてあげられる、そう思った。

 

 だが、〈吸血餽〉に発症した事で、すべてを失った。……元々ほとんど何も持っていなかったけれど。母は男と逃げた。元々さっさと逃げたかったのだ。でも椎衣那はそれを認めたくなかった。医者になって立派になればお母さんだって愛してくれると思っていた。花總の家は決して認知しようとはしなかったものの、母にずっと金を払っていたようだった。けれど椎衣那が〈吸血餽〉となった事で金蔓にならないと知って、あっさりと母は椎衣那を捨てたのだった。学費にと大切に貯めていた金もなくなっていた。

 

 椎衣那は何度か雪音を見た事があった。十も歳下の小さな女の子だ。

 始めて見たのは新聞でだった。軍艦の竣工パーティーを報せる記事だった。父に抱かれ、母に手を添えられ、幸せそうな家族がそこにいた。自分とは大違いだと思った。

 

 次に彼女を見たのは首席での医学校入学が決まったのを、花總の家に報告に上がった時だった。ようやく当主にお目通りが叶うのだと、揚々とした気持ちで門を潜った。だが正門ではなく裏門だった。

 おまけに会うと約束してくれたはずが、実際に会ったのは彼の甥の一人だった。場違いだと詰る視線に泣きたくなった。

 その帰り道、馬車から降りる雪音を見かけた。幾人もの使用人たちに囲まれ、着ている洋服だって豪華だった。自分の見窄らしい一丁羅とは大違いだった。でも綺麗だと思った。年齢に不似合いなほど堂々とした立ち居振る舞いだった。

 目を奪われた。自分とは生きている世界が違うと思った。でも、なぜか彼女が忘れられなかった。

 

 三度目に彼女を見かけたのは軍でだった。どこぞの華族のお嬢さんが発症したのだと、兵舎でも噂になっていた。現れたのは雪音だった。けれど見る影もなく、ぼろぼろになっていた。その頃の椎衣那は軍の医学校で学ばせてもらっていたから、すぐに医学校の寮へ〈花荊〉と共に戻らなくてはならなかった。

 

 次に会った時、彼女は綺麗になっていた。〈花荊はなよめ〉と上手くやれているのだと思った。なんだかちくりと胸が痛んだ。

 その後、軍に掛け合って彼女と同じ班にしてもらった。多少のわがままを聞いて貰えるくらいには、医者としても〈吸血餽〉としても優秀な結果を残していたのだ。

 でも、自分でもどうしてそれを望んだのかわからなかった。妬む気持ちと哀れむ気持ち、両方が入り混じっていたのは確かだったけれど。


 同じ班になった彼女は、驚くほど高飛車だった。そのくせ技術は覚束ない。銃どころかティーカップより重たい物など持った事もなかったのだろう。けれど人の倍以上、射撃訓練を繰り返した。すさまじい努力だった。いつしかその姿に自分を重ねていた。自分を嘲る者になど屈さないという彼女の強い気持ちに、あの頃の自分を。

 それで気づいたのだ。自分は彼女に憧れていたのだと。美しい容姿にはなく、気高い心に。どうしようもなく惹かれていた。


 だから。

 ――私は、君を守りたった。……雪音。


 でも、君を守るためには、〈花荊〉の姿をした〈狗モドキ〉を斃すしかなかった。ろくに喋れもしない、人を――あの子の姿を模しただけのただの化け物なのに、私は上手く銃も握れなかった。

 そんな体たらくだから、雪音を庇って、ひどい怪我を負った。

 でもそんなのは構わない。自分はどれだけ傷つけられても構いやしないんだ。

 でも、泣いていたら、君は彼女の姿をした化け物に食い殺されてしまう。

 そんなの嫌だった。――君が食い殺されてしまう事も。彼女の姿をした化け物が、人を食い殺すのを見る事も。


 あの時の引き金を引く感触を思い出す度、指が震えるよ。


 ただ一つ救いがあったとすれば、紗凪が現場を見ていない事だ。あんないい子に、あんな酷い現場を見せなくて済んだ事だけが救いだ。君を庇って、私が同僚を撃ち殺す姿なんて、君は見せたくもないだろう?

 紗凪が駆けつける前に済ませられて良かった。


 ……でも、もう、どうしたらいいんだろう。

 軍人としては殺すべきだってわかっているのに、やっぱり引き金が引けないんだ。



          *



「椎衣那……」

 

 気がつくと、すぐそばにみおが立っていた。ハンドガンに手を添え、それを下ろさせる。

 椎衣那は息を吐いた。


「……どうせ私には撃てなかったよ。意気地なしだからね」


 そう呟くと澪が首を振った。


「貴女は意気地なしなんかじゃないわ。雪音を守ったんでしょう?」


 長らく泣いた事なんてなかったのに、涙が出た。


「貴女が悪者になんてならなくていいのよ」

「……私が悪者になれば、私を責めたら、少しは衣蕗の気持ちも楽になるだろう?」


 椎衣那はずっと自分を責め続けていた。あの子の姿をした〈狼餽〉を殺した自分を。そんな想いを衣蕗にまで背負わせたくなかった。

 

 ――でも、そんな考えは独りよがりで浅はかだった。衣蕗はもっと強くて優しい子だ。……それに、蒼緒も。

 たとえ〈狼餽〉だとしても、人の想いこそが多難に打ち勝つのかもしれない。蒼緒を喰った〈狼餽〉が衣蕗を喰わなかったように。……流歌という少女の想いも姉の命を救っていた。それに、流歌の姿をした〈狼餽〉は姉の生きる希望にもなっていた。……間違ったやり方だったし、結局はその姉すらも救ってやれなかったけれど。

 でも、微かに聞こえた気がしたのだ。流唯が炎に巻かれる直前、ありがとうと言った声が。


 椎衣那は顔を上げた。

 澪が見ていてくれる。多分、道を間違ったら今日のように支えてくれるし、叱ってもくれる。

 ……以前は少し雪音に似ていると思っていたけれど、雪音よりも芯は強いのかも知れない。……だいぶ歳下なのに。


 椎衣那は蒼緒と衣蕗に笑顔を向けた。


「……衣蕗の言葉を信じるよ。幸い、蒼緒ちゃんの出生の事は上に報告してないしね。ここでの事は口外無用だ」

「中佐……!」

「椎衣那!」

 

  蒼緒も衣蕗も雪音も紗凪も、顔を明るくした。

  紗凪が雪音に駆け寄り、抱き締め合う。


「ただし、衣蕗はちゃんと蒼緒ちゃんを見守る事。……生涯かけて、ね」


 そう言うと、衣蕗と蒼緒が顔を見合わせて頬を染めた。……おやおやなんとも初々しい事で。



 それから、交代で仮眠を取った。

 日の出の頃には家は焼け落ち、蔵もほとんどが焼失した。それから流唯の遺骨と流歌だった〈狼餽〉の灰を共に埋葬した。蒼緒が〈狼餽〉だという証拠は何もない。

 帰ったら、羽佐田町はさたちょうの調査報告書の内容に頭を悩ませそうだが、なんとかなるだろう。


 蒼緒は今後も〈狼餽〉に狙われるだろう。〈女王の嬰児みどりご〉を喰った〈狼餽〉をさらに別の〈狼餽〉が喰ったところで、本当に人間になれるかは眉唾だが、少なくとも蒼緒は変態しないようだ。

 ……が、蒼緒が狙われたとて衣蕗がなんとかするだろう。それこそ生涯かけて。


 あれこれと頭を悩ませながら、雪音と交代し、椎衣那は少しだけ仮眠についた。

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