吸血鬼の花嫁〜生き血を吸うことでしか生きられない美少女吸血鬼が化け物退治するために軍に召集されたけど、吸血が苦手で困っています

嵩乃朔

プロローグ

 ――それは美しい少女だった。


 腰まである黒髪と、深い赤暗色の瞳。すらりと伸びた長い手足。


 青白い月が雲の輪郭を浮かび上がらせ、緩やかな流れの川面を輝かせては、川縁かわべりに佇む少女の肌を青く白く照らし出す。白磁のような肌は、なお白く見えた。それでいて艶やかな長い黒髪は、今にも闇に溶けてしまいそうだった。

 彼女は、幼い頃に見た西洋人形ビスクドールのようだった。人形店ドールショップの店先に飾られていたそれは、白磁の肌に、黒々としたまつ毛に縁取られた、精巧な細工の施された硝子ガラスの瞳をしていた。引き込まれそうなほど大きな瞳が花火のように輝いて、とても綺麗だったのを覚えている。

 彼女もまた大きな瞳をしていた。大きくなってもビスクドールを思わせるその印象は変わらない。

 けれど今はその瞳をわずかに伏せ、美しい容顔かんばせを曇らせていた。 

 その背は、子供の頃に見た丸まった背のように、とても小さく見えた。拠り所を失くしたまよい子のように。


 ……ねえ、でも、私が一人にさせないから。


 そう告げたいのに、あまりに淋しそうで、胸が詰まって言えなかった。代わりに、その手を取った。風が吹いた。彼女の黒髪と自分の蜂蜜色の髪が揺れる。

 彼女の手は氷のように冷たかった。川の冷気に冷やされたか、それとも人ならざるが故の冷たさなのか。


 〈吸血餽〉――ヴァンプドール。


 市井の人々にとってそれは恐怖の対象だった。

 それは美しきあやかしの名だった。匂い立つ花のような容顔かんばせで、うら若き少女をいざなたぶらかし、無慙むざんに生き血をすする。

 けれど彼女は、そんな恐ろしいものには見えなかった。

 むしろ、小さな子供のようだった。――一人泣くまよい子のように。

 その手を取ったら、もう二度とここへは戻れない。それはわかっていたけれど、細いその指を離すなんて出来なかった。

 


          *



 土臭い草いきれが周囲に満ち、視界を緑が覆う。

 それから二ヶ月間半後、蜂蜜色の髪の少女は山の中にいた。短機関銃サブマシンガンを肩に担いで。

 

(……重い。死ぬ。死んじゃう)

 

 短く切り揃えた蜂蜜色の髪が、汗で頬に張りつく。小柄な少女にはサブマシンガンですら、大きく見えた。青磁色の大きな丸い目が疲労でふにゃりと細められる。

 おまけに装備はそれだけではない。予備弾倉が三つに自動拳銃ハンドガンとその予備弾倉、各種予備弾、その他銃清掃用具ガンクリーニング・キット飯盒はんごう携帯口糧レーション止血帯ターニケットなど、重量はかなりのものになる。ついでに軍服の外套も重い。

 それらを背負っての行軍は、仲間についていくだけでもやっとだ。


(いや、全然ついていけてないけど……!)


 最早仲間の姿は見えない。

 懸命に山を登るが、膝はガクガクするし、汗は滝のようだし、息も絶え絶えだ。

 まさか幼馴染みの手を取っただけでこんな事になるとは。いや、彼女を一人にするつもりはないけれど。

 

 ――その時、銃声がした。

 動悸で更に息が上がりそうになるのを必死で抑えて、……ついでに脚が震えそうになるのをこらえて、少女は懸命に山を登った。

 

 ――それは巨大な獣だった。


 〈狼餽〉――ウェアウルフ。


 身の丈は四尺――一・二メートル――はあろうか。長い耳に長い尾、遠目には狼のような見た目だが、熊のように大きい。おまけに第二、第三の目が開く。どす黒く濁った目をしたそれは明らかに異形いぎょうの存在――化け物だった。

 

 獣は太い幹の木々を棒切れのごとく容易く薙ぎ倒し、一点を目指すように山を駆け下りる。咆哮を上げ、怒り狂っていた。

 それもそのはずだった。巨体のあちこちから鮮血が噴き出している。しかしながらその傷もわずかな間で塞がってゆく。脅威的な回復力だった。

 山の中腹には人里がある。化け物がそこへ行けば幾人が犠牲になるだろうか。決して行かせてはならなかった。


 そう思った少女の前に異形の獣が飛び出して来る。脅威的な足の速さだった。少女の足がすくむ。サブマシンガンを構えるが、弾が出ない。

「!?」

 あっと思い出し、安全装置セーフティを解除してフルオートで弾を撃ち込んだ。けれど恐怖で照準すら定まらない。幾発かは当たっているようだが、怒り狂っている獣相手では足止めにもならなかった。

 咆哮を上げ、少女の身体ごとサブマシンガンを弾き飛ばす。少女は草むらに突っ込むが、その身体を獣が押さえつけた。岩のようだった。もがいてももがいても少しも身体が動かない。恐怖が心臓を締め上げる。

「…………!」

 悲鳴すら上げられなかった。

 吼え、獣が大きな口を開けた。二重になった歯列が少女の頭を喰い潰そうと迫った。少女は死を覚悟した。

 

 その時、獣の前に何者かが飛び出した。

 鉄紺色の外套が翻る。軍服だった。

 ――けれどそれを纏うのは屈強な男ではない。鉄紺の外套よりなお深い色をした艶やかな黒髪が蝶のように舞う。

 

蒼緒あおを離せ――――!」


 ――人ならざる者ドールのように、美しい少女だった。

 

 その声は怒りを含んでいた。

 ろ八九式改自動小銃アサルトライフルを構え、ゼロ距離で撃ち込む。金色の薬莢が弾け飛び、少女の足元におびただしい数の空薬莢が落ちる。そのすべてが顔に、首に、命中していた。獣が咆哮を上げる。

 ……が、獣は怒りで我を忘れ、鮮血を吹き出し黒髪の少女に飛びかかった。木の幹ほどもあろうかという太い腕が眼前に迫る。しかしながら少女は動じていなかった。間一髪でそれを避けると、ライフルを捨てた。腰に下げた日本刀を掴み、鯉口を切る。その瞬間――


 白刃が閃いた。


 腕をその場に残したまま、獣の動きが止まる。

 刃のむねはすでに鞘の鯉口にあった。


 少女が鯉口を覆った手の上に棟を滑らせ、納刀する。美しい所作だった。

 次の瞬間、納刀のに導かれるよう獣の首が落ちていた。


 少女が小さく息を吐いた。

 あっという間の出来事だった。そして振り返り、蜂蜜色の髪の少女に手を差し出す。


「大丈夫か? 蒼緒」

「う……うん、ありがとう。……び、びっくり、した」


 蒼緒と呼ばれた蜂蜜色の髪の少女の手が震える。その震えを止めようとしてか、きつく手を握られた。


「もう大丈夫だ。安心しろ」

「うん……」


 力強い眼差しに、少しずつ安堵が広がる。――が、安心したせいか足から力が抜けてよろめいた。それを彼女が抱き止めてくれる。


「……トドメは今日も衣蕗いぶきに持って行かれちゃったわね」


 ふと、背後から声がかかる。

 振り向くと、緩く波打つ金色の髪を払いながら、もう一人の少女が獣道を駆け降りて来るところだった。

 彼女もまた目を引くほどに美しい。化け物の首が落とされているのを目視して、アサルトライフルの銃口を下げ、負革スリングを肩にかけ直した。

 衣蕗と呼ばれた少女が、彼女に問う。

 

「どうする? 森の中だし、着火剤は使えないぞ?」

「……何も知らない新人兵士さんに、優しい先輩が教えてあげましょうか?」

「もったいぶるなよ」


 金髪の少女が微笑む。


「……埋めるのよ」

「…………まじか」


 巨体を見上げていると、さらにもう一人、少女がやって来るところだった。蒼緒と同じく、やや小振りの軽機関銃サブマシンガンを構えている。――が、倒れた巨体を見てほっと息をついたものの、ただならぬ様子の蒼緒を見て、目を丸くした。

 彼女は黒髪の前髪を綺麗に切り揃え、まるで日本人形のようだ。小柄で可愛らしい。


「蒼緒ちゃん!? 大丈夫?」

「だ、大丈夫。……死ぬかと思ったよぉ」


 気の抜けた声でふにゃりと蒼緒がそう言うと、彼女もまた深く安堵したようでほっとため息をついた。……が、黒髪の少女が釘を刺す。

 

紗凪さな、安心するのは早いぞ。……こいつを埋めるそうだ」


 そう言うと、紗凪と呼ばれた少女が顔をみるみる青ざめさせた。


「え? に……日没までに終わるかな?」

「ど……どうだろ?」

「さっさと終わらせるぞ――」

「……じゃあ、あとはお願いね、衣蕗いぶき

「はあ――――――――!? 逃げるな、雪音ゆきねっ!」

 

 巨体を前に森の中で少女の叫び声が響き渡る。抗議の声と共に腕を振り上げると、外套の腕章の金文字が光った。

 ――帝國陸軍・第一師管・特務機攻部隊。通称〈野犬殺しストレイ・ドッグ・カーネイジ〉。

 それが少女――二ノ宮衣蕗にのみやいぶきの所属する部隊の名だった。

 


         *

 


 蒼緒と呼ばれた蜂蜜色の髪の少女――篠蔵蒼緒しのくらあおは彼女の姿をこっそりと見た。

 今日は怪我をしてないようで、ほっと胸を撫で下ろす。けれど、それと同時にじわりと胸が熱くなる。安堵だけではない。の事を思うと、いたたまれない気持ちと、微熱が胸を波立たせるのだった。

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