十一話

 宴での事件を義賊の仕業と疑う貴族達は、家にこもり、警備を固め、誰とも会わない日々を長く続けていた。そんな状況では調査は進められず、アデル達は足踏みを強いられていた。それでもできる範囲でローザの交友関係を調べはしたが、やはり話を聞きに行かなければ進展する見込みはなく、動きようがない二人はそれぞれメイドと警備の仕事をこなす毎日を過ごしていた。


 その間、マデリーンの元にはある手紙が届き続けていた。ローザとの結婚を望む言葉が書かれたアーサーからのものだった。一向に返答がないことに焦れたようで、ローザに話は聞き終えたのか、自分はいつ会えるのか、結婚の許可はいただけるのかと、返事を催促する内容がづつられていた。それに返信したい気持ちはやまやまのマデリーンだったが、ローザはアーサーが父親であることを否定しており、その真偽を確かめたくても関係者に話を聞けない状況から、結婚に関しては承諾も拒否もできないあいまいな態度を取るしかなかった。これに当然不服を感じるアーサーはまた手紙を送り、答えられないマデリーンは態度を濁す――そんなことが続けられていた。


「奥様も、ご苦労をなさっているのですね……」


 アデルは机に置かれた十数通ものアーサーからの手紙を見つめながら言った。


「最近は手紙が届く間隔が短くなっているの。このままだと本人が直接訪ねて来そうで、少し怖いくらいよ」


 それだけアーサーのローザを思う気持ちが強いということなのだろうが、しかし短期間でこれだけ手紙を送られては、マデリーンもさすがに辟易するし、参るだろう。


「早いところ、お相手捜しの調査が進められれば良いのですが」


 クロードが申し訳なさそうに言う。


「あの事件から日が経って、未だ犯人は捕まっていないけれど、幸い何かしらの被害に遭ったという話は聞いていないわ。それもあって周囲も少しずつ警戒を緩める傾向になっているようね」


「では、お話をまたうかがいに行けますか?」


「ええ、じきに行けるでしょう。……今日あなた達を呼んだのは、それにも少し関係しそうなご指名の手紙が届いたからなのよ」


「ご指名……?」


 首をかしげるアデルに、マデリーンは机から一通の手紙を取り、見せた。


「エルバン伯爵のご子息からよ」


「エルバン伯爵、ということは……フェルナンド様からですか?」


 目を見開いて驚きながらアデルは手紙を受け取る。


「お怪我はもうご回復されたようね。読んでみて」


 促され、アデルは封筒から取り出した便箋を広げる。それをクロードは横からのぞき込む。


 最初はマデリーンへの挨拶から始まり、次に自分が遭った事件のこと、怪我が治ったことの説明など、そしてその次には以前訪ねて来たメイド――つまりアデルに、話があるので来てもらいたいという趣旨のことが書かれていた。


「……確かに、ご指名だな」


 クロードが呟く。


「でも、お話ってなんだろう……」


 手紙をマデリーンに返し、アデルは考える。


「どういうご用件であれ、あちらが来てほしいと仰ってくれるのは好都合ね。彼にはまだうかがいたいことがあったのでしょう?」


「はい。ローザ様とアーサー様の宴での裏付けのために、お話をうかがいたいと思っておりました」


「これでまた調査が進められそうですね」


 二人は揃って笑みを見せた。


「あなた達が訪ねるとすぐに返信しておきます。……苦労をかけるけれど、お願いね」


 二人は頭を下げ、部屋を後にする。再び調査が進みそうな気配に、アデルは胸の中で気合いを入れ直した。


 それから数日後、二人の姿はフェルナンドの館のテラスにあった。以前訪れた時に話を聞いた場所と同じだ。だが目の前に広がる広大な庭にはもう花は見当たらず、植木の緑も色あせようとしている。季節は冬に移ろうところだ。


「やあ、よく来てくれたね」


 ソファーには座らず庭に立っていたフェルナンドは、二人がやって来るとにこやかに振り返った。


「お招きいただけたこと、とてもありがたく存じます。お怪我のほうは、もうご心配はないのですか?」


「ああ、もう平気だ。傷跡も髪で見えないし、問題ないよ」


 そう言ってフェルナンドは後頭部に軽く触れた。包帯もガーゼもなく、傷は完治したようだ。


「そのお言葉を聞けて安堵しました。地面に伏されたフェルナンド様を見た時は本当に心配でしたので」


「そう言えば僕を助けてくれたのは君達だったよね。あの時は殴られたせいで意識が朦朧として何もできなかったけど、傷が治った今、改めて礼をしないといけないね」


「礼など必要ございません。私共はやるべきことをしたまでですので」


「それでは僕の気が済まないよ。欲しい物とかない? 何か要望があるなら聞くよ」


 これにアデルはクロードと顔を見合わせてから言った。


「……では、お話をうかがわせていただいてもよろしいでしょうか」


「話? 何の話だ?」


「ザカリー様主催の宴で、そこにおられたローザ様とアーサー様のご様子についてうかがいたいのですが」


「アーサーって誰だ?」


「イコール男爵のご三男です。ご存知ありませんか?」


 フェルナンドは腕を組んで考え込む。


「聞いたことがあるような、ないような……僕は宴で男なんか構わないから、よくわからないね」


「そうですか……では、ローザ様についてうかがわせてください」


「ああ。ローザのことなら答えられそうだ」


「その宴で、ローザ様がひどく酔っておられたお姿を見たことはございますか?」


 フェルナンドは不思議そうな表情で言う。


「なぜそんなことを聞くんだ? メイドの君ならローザが酔うほど飲まないことは把握しているだろう」


「ということは、フェルナンド様もそういったお姿を見たことはないのですね」


 フェルナンドは強く頷く。


「一度もない。彼女は酒を飲んでも、自分に適した量を知っているから、人前で酔っ払うなんてことはまずないよ。その気真面目さのせいで、僕は酒を使って口説くことができなかったんだ。ワインを勧めても、これ以上はと頑なに断られてね」


 肩をすくめながらフェルナンドは苦笑を浮かべた。アーサーが話していたローザより、こちらの話のローザのほうがアデルには現実的に感じられた。羽目を外して酒に酔ったとしても、その姿を人前にさらすような女性ではない。館の中でさえ醜態を見せないのに、大勢の目がある中で酔っ払うなど、やはりあり得ないと思えた。


「酔っていたというお話を聞いたこともございませんか?」


「僕の知る限りはないね。……ローザは酒で失敗でもしたのか?」


「いえ、そういうわけでは……お聞かせくださり、ありがとうございます」


「もういいのか? ローザのことならもう少し話せるけど」


「酔っておられなかったとわかっただけで十分ですので」


 フェルナンドは同じ宴の場にいた客だ。その人がローザは酔っていなかったと言えば一つの証言にはなるだろう。だがまだ一つ……あと数人は証言が欲しいところだ。


「ふうん、そう言うなら、まあいいが」


 物足りなさそうに言ったフェルナンドにアデルはすかさず聞いた。


「ところで、本日はどのようなご用件で私共をお招きくださったのでしょうか」


「ああ、そうそう、やっと思い出してね。君に教えないとと思って呼んだんだよ」


「思い出したとは、一体何を……?」


 聞き返したアデルをフェルナンドは丸くした目で見つめる。


「前回会った時の話だ。まさか、忘れたのか?」


 前回という言葉に、アデルは頭にある記憶の引き出しを片っ端から開けて回るが、心当たりのものは見つからない。助けを求めるようにクロードを見てみるが、そのクロードもアデルと同じ状態のようで、憶えていないと黒い瞳で答えていた。そんな様子を見てフェルナンドは呆れた溜息を吐く。


「まったく、人に聞いておいて忘れるとはな……。前回、君達はローザと話していた男について聞いてきただろう」


「ローザ様と――はっ!」


 アデルはようやく思い出す。フェルナンドが目撃したローザと話す男性は二人で、ザカリーと、もう一人……親しげに話す男性がいたが、その名を忘れ、思い出したら教えると言われていた。これにほとんど期待していなかった二人は、今の今まで忘れていたのだった。


「お、思い出して、いただけたのですか!」


「この間、ふと名前が浮かんでね。やっぱりこういうものは焦らず、静かに待っていたほうが思い出すものなんだろう」


「こちらのお願いを憶えていてくださり、感謝いたします。ですが、お手紙に記していただければ、こうしてお時間を取らせてしまうことはございませんでしたのに」


 そう言うとフェルナンドは口角を上げてアデルを見た。


「僕はねアデル、君に直接伝えたかったんだ」


「直接、ですか?」


 すると、テラスに立つアデルの目の前までやって来たフェルナンドはその顔を見つめる。


「ああ。直接。でも教えるに当たっては、一つ条件を付けたい」


「な、何でしょうか……?」


 爽やかな笑顔を見せると言った。


「僕と、デートをしてほしい」


「デ……!」


 聞き間違いと思いたかったが、フェルナンドの笑顔はそうではないと言ってくるようにアデルをじっと見つめていた。ただ男性の名を聞くだけが、なぜデートをしなければならないのか、理不尽な状況はアデルを困惑させる。それを横で見ているクロードも、ふざけている暇はないと怒鳴りたかったが、こうも身分が違い過ぎては、ぐっと飲み込むしかなかった。


「怪我のせいもあって、しばらく部屋にこもっていたから、素敵な女性と外を歩きたいと思ってね。名前を思い出した時、いじらしくて可愛い君の顔がぱっと浮かんだんだ。そうしたら無性に会いたい気がして」


「し、しかし、フェルナンド様なら、私などよりもっとお美しい女性のお知り合いがいらっしゃるでしょう」


「いろいろ声はかけてみたんだけど、皆、外出はまだ危険だと言って出て来てくれないんだ。でも君はこうして来てくれた。デートをするにはちょうどいいじゃないか」


 何がちょうどいいのかさっぱりわからないが、結局は彼の都合でしかないのだろう。女性と遊びたいから呼び出しに必ず応じるであろうアデルを呼んだに過ぎない。名を伝えるのは大義名分であると同時に、ついでということだ。


 返答に困り、もじもじとうつむくアデルにフェルナンドが言う。


「嫌ならいいんだ。無理強いはしたくない。だけどそうすると僕が思い出した男のことは君達だけで見つけてもらうことにはなるけどね」


 にこっと笑った顔を見て、アデルは彼のやり方を知った。紳士的に見せて、その実はしたたか。こちらが断れないとわかっているから、こんな笑顔を見せているのだ。こういう感じで、きっと他の女性達も引き込まれていくのだろう。


「アデル、無理することないぞ。名前がわからなきゃ地道に聞いて――」


 クロードが小声が言う言葉をアデルは制する。


「せっかく思い出してくださったのだから、教えていただかないと。そのためのデートぐらい……構わないわ」


「本当に、大丈夫か? 顔が怖がってるように見えるが……」


 その指摘は当たっていた。正直、貴族とデートをして良いことなどあるわけがない。同僚や街の噂でたまに、主人とメイドが恋仲になった話を聞いたりするが、その結末は大抵メイドだけが痛い目を見る。つまり主人にとってメイドは、ちょっとした遊びで楽しませてくれる存在でしかないのだ。そこに愛や夢はない。甘い言葉に乗ったメイドが馬鹿を見るだけなのだ。そしてこのフェルナンドも例外ではないだろう。恋愛を遊びと言い切る者だ。アデルとしては調査以外では近付きたくない人物ではあるが、その調査のためでは、気持ちは拒否してもデートを承諾するしかなかった。


 意を決してアデルはフェルナンドを見据える。


「条件ということでしたら……そのようにいたします」


「では、僕と今からデートをしてくれるか?」


「……はい」


 消え入りそうな返事に、フェルナンドは満足げな笑みを浮かべる。


「そうか! ありがとう、嬉しいよ。アデル、君とはもう少し話してみたかったんだ。……おい、僕は彼女と外へ出るから、他の者に言っておいてくれ」


 フェルナンドはテラスに面した部屋で控えていた執事に大声で伝える。と、執事がすぐに扉を開けてやって来た。


「フェルナンド様、外出はまだ危険では……」


「誰も彼も、何をそんなに怖がっているんだ? 他の者が襲われたなんてことは起きていない。心配はないだろう」


「ですが、犯人は未だ捕まっておりません。今も街のどこかに――」


「どこかにいても、また僕が襲われるなんてことはないよ。あの時は薄暗かったけど、今日は見ての通り、眩しいぐらいの青空だ。不意打ちを食らうことはない」


「そう仰いましても――」


「くどいぞ。とにかく僕は行くから、後は頼んだ」


 執事の言葉を無視し、フェルナンドはアデルの背に手を回すと、そのまま庭を歩いて館から離れて行く。呼び止める素振りを見せるも、執事は結局諦めたのか、遠ざかる二人を無言で見送った。


 残されたクロードはどうしようかと迷ったが、アデルのことが気にかかり、小走りで二人の後を追った。


「……ん? なぜ付いて来るんだ?」


 気付いたフェルナンドが、いかにも邪魔そうな目を向けて言った。


「その、仕事のために来ておりますので……」


「今は仕事ではない。彼女とのデートの時間だ。君に用はないよ」


「でも、彼は警備人ですから、側にいてもらえれば安心かと……」


 アデルがすかさず言う。安心という中にはいろいろな意味が含まれているのだろう。


「男が側にいたら二人きりの時間が台無しになる。それでは気が散って楽しめないだろう。……悪いが目障りなんだ。どこかで待っていてくれ」


 しかめた顔でクロードを追いやるように手を振るフェルナンドに、アデルは何も言えず、不安げに、申し訳なさそうにクロードを見る。そんな顔を見ては無理にも付いて行きたいクロードだったが、それでフェルナンドの機嫌を損ねるわけにもいかず、二人の背中をその場で仕方なく見送った。


 だがクロードに大人しく待つ気はなかった。


「あの女たらしをアデルと二人きりにさせたら、どうなるかわかったもんじゃねえからな」


 普段の警備中に見せる鋭い目付きに変わったクロードは、植木の陰を選びながら、歩く二人をこっそりと追い始めた。距離を開けておけば気付かれることはないだろう。一時も目を離さず、アデルの安全確保のため、クロードは気配を消してこっそりと追って行くのだった。


 やがて館の庭を出た二人は、近くに流れる小川にやって来た。冬が近いので景色に彩りはないが、澄んだ空気や空を舞う鳥の声、光を反射する川面の煌めきは心を穏やかにさせてくれる。


「久しぶりの外の景色は、やはりいいもんだね。これが春だったらさらに良かったのだろうけど」


「フェルナンド様は、植物にご興味がおありで?」


「いや。でも花や木々がある景色を眺めるのは好きだ。とても美しいからね」


「そうですね。自然の芸術と言えますでしょうか」


「ああ。神は実に素晴らしいものをお作りになる。この自然も然り、君のような魅力的な女性も然り」


 アデルの微笑む表情が思わずぴくりと反応する。口説きに来たかと心が防衛態勢に入る。


「ほ、本当に、自然とは素晴らしいものです。毎日見ても見飽きず、その変化を楽しむことができるのですから」


「アデルが毎日一緒にいても、僕は飽きないような気がするね」


 ハッとして横を見れば、フェルナンドの笑顔がじっと見つめてくる。そしてその右手がそっとアデルの肩に触れようと伸び――


「私は、自然ほど多様な人間ではございませんので、フェルナンド様を飽きさせないことなどできるとは思えません」


 そう言いながら一歩後ろへ下がったアデルは、ごく自然に右手から逃れた。この手に捕まったら厄介なことになりそうだ。


「何を言っている。君はまだ自分の魅力がわかっていないんだね……けれど、それが良いのかもしれない。可能性に気付いていない、純粋な美しさこそが君の魅力の一つなんだろう」


「お、おやめください。美しさなど、私には……」


「君に限らず、すべての女性には美しさが備わっているものだ。謙遜することはないよ」


「そういうわけではございませんが……所詮私はメイドの身ですので……」


「身分と美しさに関係などない。輝いている者はどんな場所にいようと、その輝きを隠すことはできない」


「フェルナンド様……」


 アデルは微笑むフェルナンドをじっと見つめていた。が、ハッと我に返り、慌てて顔をそらした。彼の言葉はあまりに気持ちを良くさせる。生まれてこの方、面と向かって美しいなどと言われたことのないアデルにとって、恥ずかしげもなく褒めてくれる言葉は新鮮過ぎて、気持ちを心地よく揺さぶってくるのだ。彼に夢中になる女性達も、こうして優しく褒められて心をつかまれてしまうのだろう。しかしこれが手口であり、彼の遊び方なのだと頭はわかっている。口先だけの優しさに騙されてはいけない――


「君さえ良ければ、もっと輝けるように僕が磨いてあげよう。隅から隅までね……」


 ふと気付くと、アデルの手はフェルナンドに握られていた。警戒する意識がその手をすぐに引く。


「ふふ、恥ずかしがる素振りも可愛らしいな。……さあ、もう少し先へ行ってみようか」


 フェルナンドは言って小川の先へ歩き出す。完全に手玉に取られている――アデルは自分の情けなさに溜息を吐く気分だった。少しでも油断をするとフェルナンドにからめ捕られそうになる。今ここにいるのは何のためか……それをしっかり思い起こし、アデルは後に続いた。


「……ったく、何いちゃついてるんだ、あいつは」


 二人の様子を茂みから眺めていたクロードは呟く。やはり追って来て正解だと感じる。アデルは抵抗しているのだと思うが、フェルナンドがいつ強引な手段に出るともわからない状況では、いつでも阻止できる態勢を取るべきだろう。再び歩き出した二人を追って、クロードも身を隠しながら進んで行った。


 やがて草原を見渡せる場所に来た二人は、その側の林で足を止めると、ちょうど二つ並んだ切り株を見つけ、そこにそれぞれ腰をかけた。それをクロードは離れた木の陰から見つめる。二人は冷たい風が通り抜ける草原に目をやりながら、何やら言葉を交わしていたが、クロードの耳にまでは届いてこない。終始笑顔のフェルナンドに対し、アデルも笑みを浮かべている。その様子は嫌々と言うよりは、どこか楽しげにも見える。


「……おいおい、まさかデートを満喫してるわけじゃねえよな」


 眺めているとアデルがそんなふうにも見えて、クロードは少し苛立った口調で呟く。名を教えてもらう条件だから仕方がないとは言え、けれど目の前でこう楽しそうにされると、仕事のためにいるクロードの中には徐々に苛立つ気持ちが湧いてくるのだった。


「ああいうやつには気を付けろって、前に言ったこと忘れたのか……?」


 歯ぎしりしそうな顔で見つめるクロードがいることも知らず、アデルはフェルナンドとの会話を続けていた。と言っても交わされるのは遠回しな口説き文句と、それに対しての穏便な返答が主だったが。


 アデルも笑顔ではあるが、それはフェルナンドのために作った笑みで、傍からは楽しそうに見えても、彼の優しい言葉に引き込まれないよう必死に抵抗している最中だった。機嫌を損ねず、丁寧に、やんわりと距離を置こうとするアデルに、フェルナンドはおそらく気付いていると思われた。手を伸ばして触れようとするたびに、アデルは身を引いてそれを避ける。しかし何度避けられてもフェルナンドは表情一つ変えることはなかった。ばつの悪さを隠しているのではなく、そのやり取りを楽しんでいるのだ。まさに恋愛は遊び――どうすれば彼女は気を許すのか、どうすれば彼女の心は自分の虜になるのか。そんなことを彼は考えているのだろう。付き合わされているアデルにすれば、この上なく迷惑で疲れることだった。しかしそれを顔に出すわけにもいかず、傍から見ればいかにも楽しそうな笑顔を作り続けるしかなかった。だが、人間には限界というものがある。


「――ところで、フェルナンド様、思い出されたお名前について、そろそろ教えていただいても……」


 口説き文句への対応に疲れを隠し切れなくなったアデルは、とりあえず目的だけでも果たそうと恐る恐る聞いてみた。するとこれにフェルナンドは笑顔を消し、じろりと鋭い視線を向ける。


「……名前? まだデート中だぞ。それとも、僕との時間はつまらないとでも言うのか?」


 ぎくりとしてアデルは慌てて言う。


「め、滅相もございません! フェルナンド様とこうしておられるお時間は、本当に、貴重なものと――」


「ふふ、アデルのいじらしい顔が見れた」


 鋭い視線は緩み、フェルナンドはまた笑顔を浮かべていた。からかわれたと知って、アデルは胸を押さえて安堵する。


「ご冗談は、おやめください。心臓に悪いので……」


「すまない。でも僕はアデルのそういう困った顔が好きなんだ。からかうのはやめられないな」


 これにアデルが苦笑いを見せると、フェルナンドは嬉しそうに笑った。彼は少年時代、もしかしたらいたずら小僧だったのかもしれない。


「……その、お名前のほうは……?」


「ああ、名前か。そうだな……こうしてデートしてくれているし、もう教えてもいいか」


 アデルは思わず前のめりになる。


「お、お願いいたします!」


「何か、僕と話していた時よりも嬉しそうだね」


「いえ、そ、そんなことは……」


 前のめりな姿勢を抑え、アデルは作り笑いを返す。


「まあいい。それが君のお目当てだからね。……では教えよう」


 フェルナンドはアデルを見据えると言った。


「ローザと親しげに話していた男は、アルバクス公爵の四男、マウリスだ」


 アデルは丸くした目で聞き返す。


「あの、大貴族であられるアルバクス公爵、ですか?」


 絶大な影響力を持つ大貴族はいくつか存在し、その名も広く知られている。このアルバクス家はそんな大貴族の一つで、メイドのアデルでも一度は聞いたことのある名だった。


「そうだ。アルバクス家の人間が、まさかザカリーの宴に来ているなんて思ってもいなかったし、僕は見かけるのも初めてだったから、誰なのかまったくわからなかった。しかし思い出してから思えば、彼がいたのは意外だ」


「どういうことでしょうか?」


「大貴族は皆、王都で暮らしているからね。そこから遠く離れた街に来ることは滅多にない。さらに言えば、その街の一貴族の個人的な宴にわざわざ大貴族が顔を出すなんてあり得ない。それなのに来たというのは、よほど重要か、関係の深い者のためなんだろう。他の宴や夜会で大貴族の人間が出席していたなんて話、周辺では聞いたことがない」


「そんなお方と、ローザ様はお話しなさっておられたのですね……。けれど、ローザ様はお相手のことをご存知だったのでしょうか」


「さあね。僕にはわからないよ。だが親しげだったことは間違いない。以前から知る友人だったのか、気が合い、会話が弾んでいただけなのか……それは本人に聞いてみてくれ」


 大貴族の子息マウリス――また一人ローザと接触した男性を突き止めた。だが彼は貴族でも王都にいる大貴族で、これまでのようにマデリーンの力だけでどうにかなるような相手ではないかもしれない。こちらの調査にも素直に応じてくれるか未知数だ。けれど名と素性が知れたことは前向きにとらえるべきだろう。ほんのわずかずつでも進めていることをアデルは実感する。


「しかし、大貴族のお名前をお忘れになるなんて、フェルナンド様は肝が大きいのですね」


「それは褒め言葉なのか?」


「も、もちろんです! 大貴族のお方と知れば、普通は皆様、驚かれてしまわれると思いますが……」


「見かけたのは、偶然大貴族の家に生まれただけの、僕と大して変わらない男だ。驚くことなんて何もない。名前を忘れたのも、ただ男に興味がないだけのことだ」


「それでは、子女であれば忘れることはなかったのですか?」


「そうだな。一度でも言葉を交わした女性なら、僕はその名前を忘れることはないよ。だからアデル、君の名前もずっと僕の心に――」


 フェルナンドの右手がそっと伸びてくるのを察して、アデルはすぐに身を引く姿勢を取ろうとした。が、その瞬間だった。


 二人の間を何かが風を切って横切ったと同時に、側でガッと小さな音が聞こえた。


「……今、何か……」


「ああ。通り過ぎたような……」


 目には見えなかったが、一瞬の風が二人に気付かせた。何だろうかと辺りを見回してみると、アデルは背後に立つ木でそれを見つけた。


「……フェルナンド様、あれは」


 指差したところには、木の表面に真っすぐ突き刺さった何かがあった。


「……矢か?」


「伏せろ!」


 突然の大声に振り向けば、林の中から必死に両手を振るクロードの姿があった。


「クロード……? あなた来て――」


 アデルが切り株から立ち上がろうとした時、今度は身体の横を何かが横切った。


「何――」


「矢だ! 誰かが僕達を狙っている!」


 フェルナンドに腕を引っ張られ、アデルは近くの木の陰に伏せられる。


「じっとして、隠れているんだ」


「は、はいっ! ですが、一体何が起きて……」


 地面に伏せながらアデルはクロードの姿を捜す。するとその姿は林の奥へ駆けて行くところだった。

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