はい、さっそく暴走しました。

 公差の設定がなんかおかしい。どの部位、どの材質なのかを確認して正しいはめあいを記す。

 安全余裕が足りない気がする。部材の強度、厚みから再度計算して本来必要な数値を矢印で追記する。

 この材質だと接合部にさびが浮く。そもそもここの固定に鉄釘使うんじゃねえよ、と再検討のハンコを押す。

 ほぞの深さをもう指一本分深く。そうしないとくみ上げる時にぐらつくので、理由も添えて付箋をつけた。


「それから……」


 弥生が真剣なまなざしで各設計図に添削や改善ポイントを書き込んでいる。

 その一枚が終わると、次の図面を手に取り、視線だけがせわしなく動いて描かれた線の一本一本、そして計算式とその結果を追う……。


 机にはペンと紙だけあればいい。

 一定以上の経験を積んだ技術者が到達するステージに弥生は当然のように上がり込んでいた。


 こきん、と首を鳴らし左手の指を机に滑らせて弥生は微笑む。

 何度も何度も磨かれたであろう天板は黒に近い褐色で、スヌケという木だとわかっていた。

 硬く、重く、加工には技術が必要で。さらに品質を維持するために定期的な手入れを欠かしていない……その丁寧な仕事に陶酔する。


「んふ、書き心地最高」


 さらに弥生がこうなった理由、それは書記官に支給されるガラスペンだった。

 向こう側がきれいに湾曲して夕日や朝日にかざしたら美しい光が望めると確信できる。

 丁寧に磨き上げられたその軸の一部は細かい砂を当てて滑り防止がしてあり、手指が滑らないようにしてあった。


「まさかガラスペンが支給されるなんて……生きててよかった。一回死んでるけど」


 インク壺に先端をつけると表面張力の原理で吸い上げられるように登るインクの線。

 書き心地は万年筆にも劣らない、これで愛用の算盤そろばんもあれば完璧なのに……と無いものねだりをしてしまうほどだ。


「あ、あのー……弥生一級書記官?」


 かれこれ数時間、図面を見ては目が鋭くなり、ペンを見てはふにゃりと相貌を崩す弥生を不気味に思いながら見守っていた先輩書記官がとうとう声をかける。


 すでに換気の為に開けた窓からは先ほどから香ばしい匂いが執務室に流れ込み、先輩書記官の胃をガツンと殴りつけていた。

 いつもなら少し早めに後輩を案内して……好きなメニューやおすすめメニューを食べられるように配慮するのだが、弥生の鬼気迫る仕事ぶりに気圧されてしまい完全に出遅れている。

 下手をすれば購買のパンが残ってれば御の字ぐらいの時間帯だ。


「弥生書記官?」


 返事が返ってこない……ただの屍のようだ。とはならず……弥生は「はーいー」と低い声で反応だけは返す。

 手と目は一切止まらないので不気味さをかもし出していた。


「ごはん、食べない?」


 作業の邪魔をしたらなんか問答無用で怒られそうな感じがしたので先輩のはずなのにおどおどしてしまう。


「後全部終わったら行きます」

「僕の仕事初日で全消ししないでくれるかな!?」

「私、失敗しないので」

「ここに連れて来た僕が大失敗かましてるよ!! 明日から僕なにすればいいのさ!?」

「きっと新しい仕事が待ってますよ」

「待ってるわけないじゃないか!? 一時チェックして各所に返送したら次に戻ってくるのは早くても一週間先だよ!!」

「自己啓発に努める」

「喧嘩撃ってるんだね!? 今年の新人は規格外と聞いてたけどこれはひどいと思いませんか!?」

「終わったぁ……」

「僕の研修引率が終わりそうだよっ!! え? ちょっとまって、終わったの? 12枚全部?」


 朝一番でオルトリンデから弥生の研修を引き継いでからわずか半日、ひょっとするともっと短い間で建築ギルドから回ってきた新しい騎士寮の図面チェックを終えたというのだ。

 そんなことができるのは専任で何十年ものキャリアを持つ特級書記官でも難しい……

 早くもこの先輩書記官の手に負えない弥生の行動に頭を抱える彼が哀れでならない。


 一応適当な指摘などがないか先輩書記官が一枚手に取りざっと目を通す。

 心なしかその手が震え、額には汗がにじんでいる。


 数分の間だっただろうか……両手で図面を握りしめ先輩書記官は膝から崩れ落ちた。


「弥生さん、お昼ごはん持ってくるからそのまま私のデスクでのんびりしてると良いよ!? じゃあ僕すぐ行ってくるから!! じゃあねっ!!」


 ばっ!! と、ローブを翻して猛然と執務室から出ていく彼の軌跡きせきに、しずくの跡が点々と廊下まで続いていた。涙じゃない、汗だ、と胡麻化す事すら無く。


「うい? はいーっておトイレの場所教えてくださーい!?」


 朝一で作業に没頭していた弥生が、いまさらになって主張してきた生理現象に慌てるのを……先輩秘書官は無視した。どうせ扉から出れば左側にあるのだから。


 廊下を疾走する彼を同僚がなんだなんだと目で追う、仕事柄インドア派が多いこの職場で全力疾走する者などめったに見ないのでかなり目立っていた。


「お、おい……オルトリンデ監理官がさがし……はや……もう見えない」


 俺も探してるよ!! 心の中で彼は叫ぶ。

 何せこんなに力いっぱい走ってるのは数年ぶりだ。目いっぱい肺に空気を取り込み、吐いて。

 明日は絶対筋肉痛、でも問題ない。

 仕事なんか残ってやしないのだから数日休んでも誰も文句なんかないはずだ!


 もう彼はやけくそである。


 階段を三段飛ばしで飛び降りる。

 途中ラミア族の同僚の足を踏んでしまったが、後でその足で締め上げられながら謝ろう。

 もしかしたら死んで不死族になるかもしれない。


 しかし、それだけ急いだ甲斐はあった。

 彼は階段を上ってくるオルトリンデをいち早く発見したのだ。


 何やら額を手で押さえてため息をついているようだが、そんなの彼には関係ない。

 懇願こんがんしなければならないからだ。


「オルトリンデ監理官!!」


 思いの他大きい声に、オルトリンデどころか周りの職員も彼のほうに振り向く。


「ああ、あなたでしたか……ちょうどよかった弥生の件で聞きたかった事が」


 少し足早にオルトリンデが階段を上がってきた。

 その表情は釈然としないようだったが、彼は取り合えず……普段なら丁寧に順序だてて話すのだが図面をオルトリンデの眼前に突き出した。


「なんです一体…………ん? これ先日回ってきた騎士寮の……ずいぶん早くチェック終わりましたね」

「弥生さんです」


 端的に、これ以上ないくらい簡潔に説明する。

 オルトリンデの顔色がみるみると青ざめていく……


「まさか、見学してたはずじゃ」

「ええ、見学最初に職場案内始めたら私のデスクを占拠して私の仕事を丸々終わらせたんです!! なんなんですかあの子!! 人族の皮をかぶった高齢魔族ですか!? 僕にはあの子の面倒見れません!! むしろ教えてほしいくらいですよ!? 助けてくださいオルトリンデ監理官!!」

「えええぇぇぇ……」


 想像の斜め上を地で行く弥生にオルトリンデもめったに見せないドン引きの引きつり顔で唸るばかりだった。

 まずは事情を弥生からも聞こう。そうしなければならない使命感で心を奮い立たせる。

 そうじゃないと彼と同じく膝をついてしまいそうだから。

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