第10話 君のため
寮長が、緩慢な動作で俺の手渡した書類を受け取った。
「本当に残念だ。君は才能豊かで、まだまだ、あらゆる可能性を秘めているというのに」
俺だって、そう思う。だが、こうせざるを得ないのだ。ここにいれば、いくら避けても、ホワイトと会わざるを得ない。決して許されない清浄さに焦がれ続けるのは、辛くてたまらない。それに耐え続けるよりは、音楽院に編入した方がまだマシだ。まだ……。
バンッ!
背後のドアが勢いよく開き、そのまま壁に当たって音を立てた。びっくりして振り向いて、更にびっくりした。
ホワイトが立っていた。
「ブラック!」
ものすごい剣幕だ。俺はたじろいで、寮長の机に手を置いた。
「……ホ、ホワイト」
「ブラック、その書類は何?」
ホワイトは、今までに聞いたことのないほど鋭い声で、俺に質問した。書類、とは、今寮長の手にあるもののことか。
「これは……お前には関係ない」
「なら、教えてくれたって構わないだろう」
なんだ、その無茶苦茶な理屈は。
ぽかんと口を開けている間に、ホワイトは寮長の手から紙を取り上げてしまった。
「ホワイト!」
俺が伸ばした腕を避けて、取り上げた紙に視線を落とし、ホワイトはそのまま低い声でタイトルを読み上げた。
「『編入届』……。ブラック、これはどういうこと?」
そんな声が出せたのかと思うほど、鋭く、緊張感のある声。それと同じくらいに厳しい表情を直視できず、俺は視線を逸らした。
「そこに書いてある通りさ。音楽院に編入する」
「なぜ?」
「……それは……」
お前を諦めるためだ。
そんなことは言えない。絶対に嫌だと思っていた編入を決意するほどの思いを、当のホワイトに伝えるなんてことは。
「それは、」
「そうじゃないだろう!」
「……え?」
何を否定されたのか分からず、ようやくその顔を直視した。
今にも泣きそうな顔をしていた。必死なのだと分かった。薄桃色の唇が震えている。……ああ、俺はこいつに、何て顔をさせてしまったのだろう。
「君は話してくれたじゃないか。広い世界で、もっと色々なことをしたいって。それは、ここじゃないとできないんじゃないの? だから、そこには行かないって、親の言いなりにはならないって、そう言ったじゃないか」
確かに言った。それはその通りだ。だが、ここにい続けるのは辛いだけだし、それに……。
「ホワイト。お前だって、俺がいない方がいいだろ。俺はお前を……」
傷つけた。その白さに、醜い爪痕を残そうとしてしまった。俺は、俺などは、その近くにはいない方がいいんだ。それがきっと、お互いのためだ。
そんなことを、どういう言葉で伝えればいいのか……俺が迷っていると、ホワイトの方が先に言葉を発した。
「行かないで」
耳を疑った。そんな言葉が今ここで発される筈がなかった。聞き間違いだ。
しかし、ホワイトは繰り返した。
「行かないで、ブラック」
「……な」
まっすぐ立っていられない。再び机に手をついて、呼吸を整えようとするが、うまくいかない。この部屋は暑くないか。
ホワイトが一歩踏み出し、俺はそれ以上後に退けない。寮長に視線を向けたが、曖昧に逸らされてしまった。……くそっ。
「ブラック」
前に向き直ると、すぐ目の前に真剣な顔があった。もう目を逸らすこともできない。
ホワイトの柔らかな手が、俺の手を取った。
「私はようやく気づいたんだ。君と離れ離れになって、ようやく」
「……何に……」
声が掠れた。今まで、こんなにも緊張したことはない。何を言われるのか、予想できるようでできなかった。いや、何も予想したくなかった。
ホワイトはそこで、ふっと笑った。その途端、空気が変わった。張り詰めていたものが、優しくほどかれてゆく。初めて会ったときの、夢見るような笑み。俺のことを、心から歓迎してくれる純白。
「私は、君が好きだ」
肩に入っていた力が抜けた。何も言えない。
ホワイトは手を離し、そして俺のことを……抱きしめた。
輝く金髪から、いい香りがする。背中に回された腕と密着した体の温かな感触に、なぜだか分からないが、安堵する。
ずっと、こうされたかったんだ。
「ホワイト……」
ホワイトは俺を抱きしめる腕に力を入れ、それから緩めて、少し体を離した。春の麗かな空を思わせる青い瞳が、俺を見上げる。
「ブラック。私は君ともっと一緒に過ごしたい。もっと話をしたいし、もっと……」
そこでなぜだか僅かに頬を赤らめて、ホワイトは「とにかく」と続けた。
「行かないで欲しい。これは私のわがままでしかないけれど、……行かないで。私と一緒にいて」
本当に、わがままだ。俺のためだとか何だとか言いながら、結局は自分のためじゃないか。
俺が一緒にいることが、……ホワイトのため。
「……はは」
笑いが込み上げてきた。俺は一体、何のためにここまで悩んで、編入まで決意したのだろう。
全く、不要な決意だった。
突然笑い出した俺を、ホワイトは不思議そうに見る。
「ブラック……?」
「いや、すまない。自分のやったことがおかしくて」
嫌われたと思った。もう二度と、あんな風に笑いかけてなどくれないのだと。だから離れようと。
何も分かっていなかった。俺は本当に、何も分かっていなかった。
「ホワイト」
呼びかけると、素直な瞳が輝いた。ああ、胸が苦しい。俺がこんな感情を抱けるということを初めて教えてくれた、その相手からこんな眼差しを向けられるなんて。
「……ありがとう。俺も、お前と一緒にいたい」
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