第4話 違和感
「ホワイト、寮で何か嫌なこととかないか?」
数学の授業で隣の席になった赤毛の親友がそんなことを尋ねてきたのは、新学年が始まって、ふた月ほど経った頃だった。ノートと教科書を揃えて机に並べながら、私は聞き返した。
「嫌なことって」
「うーん、具体的に言うのは難しいんだけど……ルームメイトがほら、あいつだろ」
まだ休み時間なのに声をひそめて、親友は言う。
「ブラック……だったっけ。あいつ、あまりいい噂聞かないからさ」
「え?」
どういう意味か問い返す前に先生がやって来てしまったので、話はうやむやになってしまった。しかし、あまりいい噂を聞かない、とは聞き捨てならない。そういえば寮に来た初日、寮長もブラックに関して何か言いかけていたような気がする。
握ったシャープペンシルの芯が、何度も折れた。先生の説明は耳の表面を滑るばかりで、私の頭には残らない。
数学の授業が終わるまでに、私はその噂についてしっかり確認することを決めていた。
「ブラック? ああ、あいつ……いけ好かないタラシ野郎だろ」
耳慣れない言葉に疑問符を浮かべていると、その生徒は「すまん、すまん」と手を振った。
「ホワイトには縁のない言葉だよな。ええっと。言い換えるなら『詐欺師』かな」
余計にわからない。何か金銭に関するよくないことをしていると言うのだろうか。しかし情報通を自認するその生徒は、私の表情に苦笑した。
「いや、ホワイトが想像してそうな犯罪的な話じゃなくてさ。ほら、あいつ見た目がいいから……うちは男子校だけど、そういうのが好きなやつ、いるだろ」
「そういうのが好きなやつ……?」
ピンと来ない私に、情報通は「伝わらないかな」と頭を掻いた。
「つまり、恋愛対象として好きになるってこと」
「れ、恋愛……!?」
思わず大きな声を上げてしまい、私は慌てて休み時間の廊下を見回した。幸い誰もこちらに気を払ってなどいない。
「ホワイト、もしかしてそういう話ひとつも聴いたことない?」
「なななないよ……! そ、そんな話誰も……」
「まあ、ホワイトに話すようなことじゃないもんな。お前は今どき珍しいくらい真面目なやつだから」
真面目だから、誰もそういう話をしてくれなかったのだろうか。今まで、そういう方面の悩みごとを抱えていた友達もいたかもしれないのに……私は気がつくことができなかったのかもしれない。それは真面目だからというのではなく、私が頼りないからではないか。
「そんなに真剣な顔しなくていいって。みんな、ホワイトにはそのままでいて欲しいと思ってるんだよ」
そのまま、とはどういう意味だろう。
いや、今はそれより。
「そ、その……恋愛対象って、どういう」
言葉にするのが気恥ずかしい。しかし情報通はあっけらかんと答えた。
「そりゃあ普通に、好き同士になったら仲良く話したり手を繋いだりキスしたり」
「き、きききキス!?」
あまりに想像外の言葉に、またもや声を上げてしまった。
「で、でも……男子同士なのに……」
「な、そうなるだろ。そういうとこが真面目だって言うんだよ。昔からそういうカップルはたくさんいたに違いないけど、今はもっと世間的にオープンになってきてるからな。そのくらいはこの学校でも割とある話なんだぜ」
全然知らなかった。
でも、確かにニュースを見ていたら同性婚の話題をよく見かけるし、世の中には同性を好きになる人もいるのだ。本当に、私が時代に遅れているだけなのだ。……それは真面目とは言わない。
「私が不勉強だった。反省して、もっと周りをよく見てみるよ」
「ほら真面目だ」
情報通はむしろ呆れたように笑った。
「で、本題に戻るけど。ブラックはそういう風に自分を好いてくるやつを取っ替え引っ替え、弄んでるようなとこがあるんだ」
取っ替え引っ替え弄ぶ……今まで恋愛小説も漫画もドラマや演劇もあまり見てきたことがなくて、今ひとつイメージが湧かない。
「それはつまり、誰に対しても本気で向き合っていない、ということ?」
「まあ、そうとも言える。あいつにとって他人ってのは、うまく世渡りしていくための道具にすぎないって話」
「世渡り……?」
なぜ恋愛の話が世渡りに繋がるのか。目の前の生徒は私の反応に眉を下げた。
「まったく。ホワイト、歴史の授業ちゃんと聴いてたか? 昔から上手くやっていく奴ってのは人心掌握に長けてるの。自分に有利になりそうな人間の心を掴んでおくのが世渡りのコツだろ」
歴史の授業は聴いていたけれど、そんな話をしていたとは思っていなかった。
休み時間終了のベルが鳴る。
「じゃ、おれはこれで。ま、うまくやれよ」
「あ、ありがとう……」
なんだか体が重くなった気がする。私は早くも、噂について確認しようと思ったことを後悔し始めていた。
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