第三章~⑥

「子供の頃を懐かしむ気持ちは、分からないでもない。育ててくれたお祖父さんを今でも大切にしているなんて、優しい心根を持っている証拠だと思うよ。でも思い出は、時に美化され過ぎる場合がある。山内さんだってもういい大人なんだ。現実をよく見た方が良い」

 平日は毎日のように社食通いし、祖父の働く姿を見惚みとれるように眺めながら食事していたからだろう。その様子を見かける度、楓に振り向いて欲しいらしく、彼はさとしてきたのだ。またそこに課長の樋口までもが賛同し始めた。

「そうだな。社会人一年目とはいえ自立した社会人なら、将来を見据えて男性を見る目を養った方が良い。根岸君のような先輩の働き方を見て、しっかり学んではどうだ」

 樋口は楓と根岸の関係が上手くいけば、春奈が自分の元に戻ってくると期待していたのかもしれない。さらにかれはつけ加えた。

「年の差は良いとしても、相手は非正社員だろう。格差がありすぎる。経済的な問題は大きいぞ。女性なら、相手の男性の収入が高いに越したことはないんじゃないかな」

 何も背景を知らないからそんなことが言えるのだ。また春奈に対してのアピールもあり、そのような差別発言をするのだろう。楓は内心、はらわたが煮えくり返っていた。

 だがそこで、普段なら些細ささいなミスでも至らない部分を見つけては、ここぞとばかり小言を述べる春奈が、珍しく楓をかばった。

「いいじゃないですか。ファザコンやブラコンだというのならまだしも、育ててくれたお祖父さんが大好きという感情は、全くおかしくありませんよ。何か訳有りで、なかなか振り向いてくれないとは噂で聞いているけど、頑張りなさい。あなたの想いがいつか通じるはずだから」

 春奈は楓が根岸に関心を持たなければ、やがて彼に振り向いて貰えるのでは、と計算していたに違いない。こうしたそれぞれ裏がある発言を聞かされ続け、さすがにうんざりした。

 楓の前では根岸を褒めた樋口だが、春奈が好意を持っていると気付いていたからだろう。実際は彼に対し、かなり厳しい指導という名の嫌がらせをしていたようだ。また春奈も祖父以外の事では、楓の肩を持つ真似は決してしなかった。そうした様子を察知した根岸は楓を慰める行動に出て、得点稼ぎをしようとしていたのである。

 それぞれの思惑が複雑に交差する中で、会社での仕事が日々ストレスに感じ始めていた。それでも我慢して通い続けていたのは、社食に祖父がいたからだ。彼の前では辛い様子は決して見せず、懸命に働いて明るく振舞い、頑張っていると知って欲しかった。

 それでも社内の噂は、いろんな形で広まるものだ。所属している課での人間関係に楓が苦労していると、祖父の耳にも入ったらしい。 

 そうした情報は、同じ社食で働く同僚から聞き出した。楓と祖父との関係は、会社で知らない人がいないほど広まっていたからだ。そうなると中には、楓の味方をしてくれる人達も少なからずいたのである。

 その一人の、年配の女性が言った。

「私からも、ヨシさんに何度か声をかけたのよ。ほら、また楓ちゃんがこっちを見てるって。何があったか知らないけれど、十年余りも奥さんと一緒に暮らして育てたんでしょう。もう少し優しくしてあげたらどう、と言ったんだけどね」

 だが祖父は頑なに首を振り、黙ったままだったという。時々、あの子は私に関わっちゃいけないんですと呟くだけだったらしい。

 それでも楓が今の部署で、人間関係に苦労していると聞いた時は、心配してくれていたようだ。その様子から、全く関心がない訳じゃないと思う。そう教えてくれたのである。

 おかげで楓は、少しだけ安心した。やはり祖父は口に出来ない事情を抱え、やむを得ず姿を消しただけだと考えられたからだ。また楓を気遣いながらも、突き放さざるを得ない複雑な心境なのだろうとも感じ取れた。だからこそ早く謎を解き、二人の間にある障害を取り除いてわだかまりを解消したいと、心から望むようになった。

 しかし泊による調査結果では、決定的なものはまだ発見されていない。かなり昔の出来事にしては、相当な情報を集められている。それでも磯村家または倉田家の呪いについて、これといった筋道が立てられないでいた。

 そうしている間に、楓が所属する部署で立て続けにトラブルが発生したのだ。それはもちろん、あの三人が関わっていた。最初に起こった問題は、いつものように楓の犯したほんの少しの失敗を発見した春奈が、皆の前で罵倒し始めたことから起こった。

「あなた、いくら新人だからっていい加減な仕事をして貰ったら困るの。取引先の会社宛に郵送物を送る場合は御中、個人名だと様が基本だって、そろそろ覚えなさい。普段からメールばかりでやりとりしているからといって、そんなミスをして言い訳が無いでしょ」

 間違って会社名に様と書いてしまった楓は、素直に頭を下げ謝った。それでも目を吊り上げた彼女の小言は続いた。

「小さなミスで、大したことがないと思ってるでしょ。あのね。こういう事に煩い人は、思っている以上にいるの。名前の漢字一つ書き間違えただけで、そんないい加減な仕事をする会社と取引できないと言われ、数百万円の契約を取り消された人が実際いるのよ」

 二人の周囲には十名近くいて、春奈より先輩の女性社員もいた。しかしいつもの事と思ってか、止めに入る人は誰もいなかった。

 けれどもこの日は、根岸がたまたま外回りから戻っていた。どうやら春奈は、その存在に気付いていなかったらしい。普段なら彼がいない時にしか、そういう叱り方をしないからだ。楓にきつい態度を取っている現場は、見られたくなかったのだろう。それでも厳しく指導しているとの噂は、彼の耳にも届いていたらしい。 

 けれど実際目にするかどうかでは、大きな違いがある。よってその日は春奈にとって運が悪かった、または油断していたようだ。現にそうした状況を目の当たりにした根岸は、直ぐに春奈と楓を別室へと呼び、三人だけになった時点で激しい言葉を浴びせた。

「おい、寺井さん。いい加減にしろよ。話には聞いていたが、いつもこんなやり方で、山内さんを注意しているのか」

「いいえ、そういう訳ではありませんが、すみませんでした」

 余りの剣幕におののいた彼女は、消え入りそうな声で謝った。だが彼は、全く聞く耳を持たなかった。

「嘘をつくな。以前から皆がいる前で、かなり行き過ぎた指導をしていると、周囲から報告は上がっている。以前俺は君に言ったよな。注意をする時は、周囲に人がいない所でしろと。褒める時は皆がいる所ですればいい。だが逆は駄目と注意した際、分かりましたと頷いていたよね。でもあれはみせかけで、その後何度も同じ事を繰り返しているそうじゃないか。ちゃんと証拠は挙がっている。いつかまた注意しなければと思っていたが、今度は言い逃れが出来ないよう、現場を押さえてからと考えていたんだ。今日は丁度良かったよ」

「申し訳ございません。厳しく言い過ぎました。反省しています」

「だから、それが嘘だと言っているだろう。寺井さんは意図的に皆の前で山内さんを叱り、恥ずかしい思いをさせているんだ。それに今日は、御中と様を間違ったと注意していただろ。それがどうして、数百万円の契約が無くなる話と繋がるんだ」

「あ、あの具体的な事例を告げた方が、理解しやすいかと思っただけで、他意はありません」

「使い方が間違っている。確かにそういう事例はあった。でもあれは、相手の会社の社長名を間違えた契約書を作成し、それが締結の際に発覚して先方を怒らせたケースじゃないか。今回のような、単なる案内文を送付する宛先の御中と様を間違えたからといって、契約を取り消したいなんて言いだす取引先はないよ。せいぜいビジネス上の常識を知らない社員がいると、馬鹿にされる程度だ。それぐらいは君も分かっているだろう。それとも何か。本当にそれだけで、怒鳴りつけて来た取引先がいるのか」

「い、いえ、それはありません」

「確かに小さくても、大切ではある。だがあれほど厳しく怒り、皆の前で恥をかかせれば、パワハラと言われても言い逃れ出来ないぞ」

「いえ、そういうつもりでは、」

 何度も恐縮して首を振る春奈だったが、根岸の注意は続いた。

「君がしているのは、指導じゃなく嫌がらせだ。今後二度と、山内さんに関わるな。ミスを見つけた場合、別の社員に伝えて教育させるように。今日だって、君より先輩の女性社員はいただろう」

「し、しかしそれは」

「上に報告して、パワハラをしていると訴えられたくなければ、指示に従いなさい。もしまた同じ行為をした場合、次はないぞ」

「わ、分かりました」

 彼女は涙を流し謝った。しかし彼の怒りは収まらなかったようだ。

「山内さんも今後、寺井さんから注意を受けた場合は、直ぐ私へ言いなさい。樋口課長ではなく、私に報告してくれ。いいね」

「分かりました」

 そう返事をしたものの、内心では面倒な事になったと思っていた。春奈が楓に強く当たるのは、まさしく根岸のせいなのだ。彼は本当に気付いていないのだろうか。これが後に、新たな火種となるかもしれない。そう恐れていた。

 春奈の背後には、樋口課長がいる。根岸を日頃から良く思っていない彼が部下に勝手な指導をしたと知れば、どう動くだろう。しかもお気に入りの春奈が泣かされたとなれば、激怒するはずだ。

 その懸念は当たった。根岸の叱責が終わり解放されしばらく経った頃、樋口が彼を呼び出した。しかもそこに楓まで招集されたのだ。もちろん、春奈が告げ口をしたからだろう。

 会議室に二人が揃った途端、怒声が飛んだ。

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