磯村家の呪いと愛しのグランパ
しまおか
プロローグ
まるで母親のような深い愛情を注ぎ続けてくれた彼女の恩に報いる為、私は後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、籍を抜いた。そして彼女の孫娘に、ほぼ全ての財産を渡し逃亡したのである。
しかし物心がついた頃より、善意の塊でしかない人達に囲まれて育ち、何不自由なく生活してきたからだろう。いい年になり初めて一人暮らしを始め、世間知らずでお人好しの性格が災いし、もう若いとはいえない体に
それでも、それ程不幸だとは思っていない。
地球温暖化の影響からか、今年も桜は平年より早く咲いた。既に満開の時期を過ぎ、散り始めている所もあるという。この調子だと入学式の頃には、葉桜になった小中学校もあるはずだ。風物詩だったかつての懐かしい風景など、もう見ることは叶わないのだろうか。
そんな東京の大きなビルの中にある
それもそのはずそろそろ昼時で、しかも今日は入社式だ。普段やって来る職員に加え、今年度の新入社員達がこの社員食堂へと大勢押しかける。その為の準備で皆、いつもより忙しい。
この会社はフレックスタイムを導入しているので、既に食事中の社員も散見された。昼食時間も、各自の判断で自由に取れるからだ。よって通常は一定の時間に混雑しないよう、それぞれ分散して席に座る。特に感染症の拡大以降、そうした意識が皆に根付いたからだろう。
もちろん式が終わった新入社員達も、グループ毎に別れて時間をずらし、利用するよう指示されているはずだ。
それでも平常より利用者数がぐっと増える為、料理人達の手さばきや厨房を移動する動きが
「ヨシさん、A
私が主にA定食を担当しつつ、定食部門をまとめるチーフだからだろう。年下だが社員であり、管理栄養士の資格を持つ厨房の統括責任者に声を掛けられた為、返事をする。
「はい。今日出せる分の下準備は終わりました。後は注文を受けて調理するだけです」
「有難う。もし手が空くようなら、B定の方も手伝ってあげて」
「分かりました」
ここでは二十人余りが、麺類やカレー、ごはんやお味噌汁を最後に差し出す部門といくつかに別れている。その中で助け合いながら、仕事を進める環境が出来ていた。
そうしている間に、ざわざわとした声が耳に届く。どうやら新人達がやって来たようだ。
ワクチン接種が進んだ為、一時期に比べれば感染拡大は収束に向かっている。だが
もちろん大勢集まっての会話も、依然として自粛が求められている。まだ社内では、全員マスクの着用を義務付けられていた。
それでもまだ学生気分が抜けないのか、入社したばかりの社員達は、職場内のルールに馴染んでいない。よって緊張感に欠けていた。 事前に注意を受けているにもかかわらず、一部ではお喋りする集団がいたようだ。
すると予想していた通り、見かねた先輩社員に
「静かに。皆が集まる場所では、特に私語を
抑えてはいるけれど、ドスの効いた低い
「すみません」
騒いでいた集団の何人か小声で謝っている様子が、僅かながらに感じ取れた。そのおかげで一斉に静まり、皆が整然と並び黙々と食券を購入し、記載されたバーコードを機械に読み取らせていく。
さすがは大手IT企業だけあり、こうした場でもシステムの効率化が進んでいる。何の食事を注文したかが瞬時に厨房の中へと伝達され、用意するものが指示される仕組みになっていた。
その中にはA定食もいくつかあった。早速食材を鍋に放り込み、次々と皿に盛りつけていく。それを別の担当者が運び、トレーを持った社員達が並ぶ棚の前に出す。
いくつかの集団に別れた新入社員が、慣れない手つきで食券と交換に料理皿を取っていく。そうした状況を横目で見ながら、手は止めず作業を進めた。
こうなると料理を作るというより、流れ作業に入ったという方が当て
しかしこれからその人数のほとんどが、ここへと押し寄せてくるのだ。よって一つ一つに愛情を、なんてのんきな事を言っている暇などない。厨房はまさしく戦場と化していた。
感染症の拡大以降、社食で定着したのが
社員達は皆会話すること無く、静かに食べている。騒がしく無くていいとも言えるが、活気がなく正直私には味気ないと感じられた。元来社食での食事というものは、社員同士がコミュニケーションを取りながら、休息時間を過ごす人達が多数派だったからだ。
けれど緊急事態宣言が出ていた頃のように、リモートワークが進みほとんど出社する社員がおらず、静まり返った社食よりはマシだろう。
そう思いながら、淡々と目の前の仕事をこなしていく。そうしている間にいくつかのグループが通り過ぎ、空席も目立つようになった。注文の数が少なくなり、周囲を見渡す余裕も出て来た。どうやらピークは越えたらしい。
そんな時、こちらへ小走りでやってくる人の姿が視界の端に見えた、と思った瞬間声をかけられたのだ。
「お祖父ちゃん、見~つけた!」
まさかと思い振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。マスクを外し、綺麗に化粧された顔を
その頃よりも、さらに大人びた姿を
何故ここにいるのだ。どうやって入って来た。とうとう発見されてしまったのか。いつかこんな日が来ると覚悟していたが、どうして今日なんだ。
頭が混乱し固まった私に、同僚の一人が
「おじいちゃんって、ヨシさんのお孫さんなの。そんな訳ないよね」
答えられず沈黙していると、彼女の周りにも人が集まって来た。
「
すると楓は私を指差し、笑いながら言った。
「あの人。すごく久しぶりに会ったの。ようやく探し当てたんだ。でも私は今日から、この会社で働くんだもんね。お昼にここへ来れば、毎日でも会えるから嬉しいな」
ざわついているのは、入社式を終えたばかりの新入社員らしき人達ばかりだ。中でも女性は、ほぼ同じ格好の真新しいスーツを身につけている。
当り前だが、同じ年頃の同僚達にそれぞれ様々な疑問を浴びせかけられていた。しかし彼女はニコニコと笑って答えず、じっとこちらだけを見つめ続けている。私はそれを引き吊った顔で受け止め、棒立ちになっていた。
そんな様子を見て、周囲もようやく異変に気付いたのだろう。質問攻めを止め、二人を見守る形となった。
その奇妙な空気を、彼女が途切れさせた。
「じゃあね、お祖父ちゃん。今から午後の研修があるけど、また来るね。これからはいつでも会えるし、今度は仕事中じゃない時間に、ゆっくり話そうよ。そうだ、後でいいからこれを読んで」
そう言って手紙のようなメモをカウンターに置き、彼女は食堂の出口へと小走りで向かった。取り囲んでいた男女が、その後を追いかけて行く。
私はその後ろ姿を見ながら震える手でメモを取り、ようやく気が付いた。あの子は居場所を探し出した上で、私が働く職場に就職したのだろう。いつの間に、そんな真似をしていたのか。
いや、それだけじゃないはずだ。ここを特定できたのなら、他の職場や住んでいる場所さえ知っているに違いない。一体どうやって調べたのだろうか。
連絡先を把握しているのは、ごく限られた人しかいない。その中の一人である、弁護士の
由子さんの死を機に
しかも同じ東京に住んでいるとはいえ、見つける事はそう容易くなかったはずだ。それならあの金を使って、調査員でも雇ったのだろうか。そうとしか考えられない。
ぼんやりしていたのだろう。同僚の一人が、恐る恐る尋ねて来た。
「ヨシさん、大丈夫かい。顔色が悪いよ。何か訳ありのようだけど、その手紙は何て書いてあるの」
我に返り、慌ててメモをポケットに突っ込み答えた。
「何でもない。さあ、まだ仕事中だ。洗い物は沢山残っているし、これからまだ遅い昼食を取る人達もいるから、その準備をしないと」
これ以上話しかけられると厄介な為、持ち場に戻り火を強くして中華鍋へ食材を放り込み、懸命に動かす。そこで雰囲気を察した同僚達は何も言わず、それぞれの立ち位置へと散らばった。
私は胸を撫で下ろしながら考えていた。今朝は三時に起きて清掃作業を終え、ここの仕事が終われば二十二時までスーパーのレジ打ちの仕事が待っている。年齢の影響もあるからだろう。帰宅する頃にはかなりくたびれており、普段なら目を
しかし今日は眠れるだろうか。楓の姿が
そうやって仕事中だというのに、別の事に捉われ集中を切らしていたからだろう。盛り付けをする際に手が滑り、別の皿と鍋がぶつかって床に落ちた。
プラスチックの為に割れはしなかったが、ガランガランと大きな音が厨房内に鳴り渡る。事前に置かれていた盛り合わせが、そこかしこに散らばった。
「ヨシさん、大丈夫ですか。さっきからちょっとおかしいですよ」
いくらなんでも目に余ったのだろう。責任者から鋭い声が飛んだ。
「すみません。少し頭を冷やしてきます」
私は頭を下げその場を走って逃げ、トイレの個室に駆け込んだ。鍵をかけて便器の蓋の上へ腰を下ろし、頭を抱える。
「何をやってるんだ」
動揺が止まらない。いずれ対面する時がくるだろうと、これまでも想像してきた。もしもの場合どう対応するか、何度も頭の中で思い描き、心の準備をしてきたはずではないか。
しかし全く想定していない状況で、突然彼女が姿を現したからだろう。頭が一瞬、真っ白になってしまった。
「駄目だ。駄目だ。駄目だ」
万が一楓と会った場合は、冷たく突き放すつもりだった。何度会いに来てもそうし続ければ、それ以上は近づいてこないはず。もう彼女は、あの頃のような子供じゃない。立派な社会人だ。私が本気で捨てたのだと理解できるに違いない。
そう考えていたが、甘かった。彼女は私がそうすると、恐らく予想していたのだろう。絶対逃げられない状況に追い込み、その上で姿を見せたと思われる。
レジ打ちの仕事だけなら、別の店に移る手も打てた。だがこの職場はすぐに変われない。朝の清掃業務もそうだ。つまり今後彼女は、ずっと私の前に現れ続けるだろう。
「どうすればいい。一体、どういうつもりなんだ」
そこで彼女から渡された、メモの存在を思い出す。慌ててポケットから引っ張り出し、何が書かれているのか目を通した瞬間、衝撃が走った。
“磯村家を去ったのは、
「そこまで調べていたのか」
あの件を決して公にしてはいけないし、できるはずがないのだから。そう私は改めて覚悟を決めたのだった。
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