椿

東雲そわ

落椿

 誰よりも愛されるように──そう願いを込めて、母が好きだった花の名を与えられた私は、他人に愛されたことが一度もない。


「ごめん」


 私を愛せない言い訳を続けていた男の口から最後に漏れた謝罪の言葉。私は何も言えないまま、ただそれを静かに受け入れていた。


 どの駅前にもあるような均一化された喫茶店。熱を失った珈琲を一気に飲み干した私に、彼がもう一度だけ「ごめん」と口にした。

 結局は、幾度かの肉体関係を重ねただけの相手だった。頭数合わせの合コンで知り合い、最初のデートでホテルに誘われ、断る理由もなく始まっただけの関係性。理性には欠けるのかもしれないけれど、避妊をするだけの知性はあった。女性を尊重できるだけの教養もあり、肌を合わせることに嫌悪感を覚えない程度には清潔感もあった。表面上の欠点が見当たらない、器用に人間関係を構築できる男性だった。

 それでも、私を愛することはできなかった。

 好きも嫌いもわからないまま交際を始めた私にも非があることはわかっていた。彼を咎めるつもりはないし、貶めるつもりもない。ただ、彼を労わる気持ちがないのも確かだった。


 目を伏せる彼の表情はどこか虚ろで、熱を感じることができなった。一口も口をつけられまま放置された彼のアイスコーヒーは、注がれたシロップの多さで沼のように黒を淀ませている。年齢以上に大人びて見えた彼が甘党であることに今更気付いても、私の冷たい心に変化は起きなかった。

 彼は、私に甘えたかったのだろうか。だとしたら、私はこれ以上にないほど不適切な女だと思う。蜜のない花に、蜜蜂は止まらないものだ。ほんのひととき羽を休めるにしても、もっと綺麗な花に留まる方がいい。花なんて、周りを見渡せばいくらでもあるのだから。

 二つ隣の席で聞き耳を立てている眼鏡の似合うOLでもいい。場の空気も読まず律儀にコーヒーのお替りを勧めてきた黒髪の似合う女性店員でもいい。今さっき店に入ってきた品の良いマダムでも構わない。応対する店員に見せる笑顔は、甘えるようでいて、隠しきれない芳醇な蜜を湛えている。色形だけを整えた造花のような私とは、そもそも女としての本質が違うのだろう。

 私が彼に甘えを見せたことも、たぶん一度もないのだろう。もしかしたら、彼はそれが気に入らなかっただけなのかもしれない。

 別れる理由なんて、私にはその程度のことしか思いつかなかった。


 電車に揺られながら、苗字だけで登録されていた連絡先を消去する。

 思えば互いに名前で呼ぶことは一度もなかった。苗字に敬称を付けて呼び合っていたことを愛らしく思えてしまうぐらいには、今の私は感傷的になっている。普段は電車に揺られるがまま通り過ぎるだけの場所に足を踏み入れたのも、そんな私の弱さが招いた結果だと思いたかった。

 いつか訪れたことのある駅で電車を降り、見慣れぬ雑踏を歩き出す。

 薄れた記憶を頼りに歩き、辿り着いた場所は、数年前、まだ学生だった頃に、もう名前も覚えていない男性に連れてこられた小さな池のある公園だった。池を囲う遊歩道の一画に、私と同じ名を持つ花が咲いていたことだけは今でも鮮明に覚えている。


 花びらを散らすことなく落ちる姿が、母は好きだと言っていた。

 かつて私を抱いた男も、その花の美しさを称えていた。

 

 人気のない遊歩道の上。艶やかな装飾を施された絨毯のように、その花は咲いていた。枝から落ちてなお美しさを損なうことなく、紅く強かに咲き乱れている。

 落ちた花の中、立ち尽くす私の足元に、また一つ花が落ちてくる。

 同じ名を持つ私に寄り添うかのように爪先に触れたその花を、私は暫く見つめた後、愛を込めて踏み潰した。



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