第18話 アプレゲールと呼んでくれ 36

 夏目は東京の山の手で一家を構える家庭に生まれ育った。

父親は中学の数学教師として奉職している。

給料はそれなりだったが、父親には親から受け継いだ資産があった。

そのおかげもあり母親や二つ違いの妹と共に、夏目は明るく幸せな少年時代を過ごせた。

戦争の時代だった。

その時代背景を考えれば、夏目は驚くほど恵まれていたと言えるだろう。

だが歴史の大波は夏目の家族が営む健やかで安逸な家庭生活をその高いうねりに巻き込む。

戦争はまるで蕎麦の実を石臼で挽くかの様に、夏目家の細やかな幸福を無造作に磨り潰していく。

 太平洋戦争の二年目には、徴兵されて南方に出征していた父親の戦死公報が届く。

昭和二十年五月二十五日未明の山の手大空襲では母親と妹が行方知れずになった。

その当時、夏目は旧制高校の学生で、しばらく前から三鷹の中島飛行機に動員されていた。

母親と妹を失った空襲の夜は、幸か不幸か夜勤で自宅を留守にしていた。

 父親と母親は共に東京の出身だった。

だがわずかに残っていた係累も終戦を待たずに消息が途絶え、夏目は天涯孤独の身となった。

中島飛行機は、米軍にとり破壊すべき重要施設なので度々爆撃の目標とされた。

その結果、夏目のただでさえ少ない友人の多くが犠牲になった。

 青少年一人の知り合いなど考えてみればそう多くはない。

親族と学校関係を除けば、住み慣れた地域の隣人くらいではないか。

まして内気で物静かな少年が家族と少数の親しい友を亡くせばどうなるだろう。

住み慣れた懐かしい街とそこで生計を営む人々を失えばどうなるだろう。

彼のことを記憶している人間が、あらかたこの世から消え去ってしまう。

あの時代、そのことは不思議でも何でもなかった。

  

 「実際のところ、一人の人間が生きているうちに関わる他人の数なんてたかが知れてます。

家族と学校、それに生まれ育った地元の人間くらいですよ。

知り合いなんて。

普通に親戚付き合いだってあったし、友達だっていたんですよ。

だけどね、戦争が終わってみたら、俺は文字通り天涯孤独の身。

独りぼっちになっていました」

淡々とつぶやくように語る夏目の不幸秘話だった。

さすがの円でさえ減らず口の一つでも叩き込もうと言う気が起きなかった。

 ちらりと隣を伺うとルーシーの表情は能面の様に端正で感情の色がない。

時代に翻弄された夏目の悲劇に、心を動かされた様子がまったく見て取れない。

本来は心優しいルーシーの、内奥でさざめく哀憐の情は巧みに隠されているのだろう。

夏目には透徹した冷ややかな視線が向けられるているだけだった。

 円の中途半端な人情にしてみれば、そうした彼女の覚悟が辛くて堪らない。

ルーシーの優しい内面を知るだけに心が痛い。

ルーシーは一旦こうと思い定めたなら、少々のことでぶれる人間ではない。

円はそのことを、改めて強く思い知らされた。

 

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