第7話 しづたまき野辺の花6

 木戸の前にひっそりと佇んでいるのは、治療を終えたらしい紫苑しおんだった。

 気に入らぬ通称を訂正するよりも先に、深く頭を垂れられ、機先を制された頭中将は苦笑するしかない。と同時に、紫苑から二人称以外で呼ばれること自体が初めてであることに思い至って、何とも言えない気分になる。

「あの、ありがとうございました……」

 礼儀正しく、紫苑はまず謝意を述べた。襟元から覗く包帯が痛々しい。動き回れるということは、当初の見立て通り骨に異常はなかったのだろうが、本来ならば安静にしていなければならないところだろう。医師も起き上がることに好い顔はしなかったはずだ。それを押してでも頭中将の元へ参じたということは、彼にとって、きっともっと大事な話があるのに違いない。

 紫苑を身構えさせないよう、頭中将は「気にするな」と笑って見せた。曲がりなりにも己を陥れる計画に加担していた人物に対し、我ながら寛容なことだと、密かに自嘲する。

 何をどう切り出したものかと言い澱むらしい紫苑の背後では、幾人かの話し声が聞こえてくる。思案の間に、随身が紫苑の家族を連れて戻ったのだろう。板戸の隙間から、美しい女人が医師に向かって何度も頭を下げる様子が窺えた。隣で寄り添うように支えるべにの姿を確認するまでもない。二人によく似た面差しは、彼らの母親で間違いなかろう。身体が弱いというだけあって、やや痩せぎすのきらいはあるが、それを差し引いたとしても、素晴らしい美女だ――ある意味では想像通り。

 優れた血統というものに感心しながら視線を戻すと、紫苑はやはりもどかしそうに眉根を寄せている。こうなれば寛容ついでだ、と、頭中将は軽口に紛れた助け舟を出してやった。

「お前達の母親というだけあって、なかなかに美しい方だな。紅は着飾ればどこの姫にも負けぬ素晴らしい女人になるだろう――お前もな」

「!」

 駄目押しのように付け加えた一言で、頭中将の意図は正確に伝わったらしい。紫苑は僅かに目を見開いた後、やはり隠せてはいなかったのだと確信するように、苦悶の表情を浮かべた。「ごめんなさい」と吐き出す声は、憐れを催さずにはいられないほど、悲痛な響きに満ちている。

「ごめんなさい。貴方に濡れ衣を着せた人の事、調べようとしたけど無理だった」

「……そうか」

 それは紫苑の自白だった。ある程度の推測は立てていたが、紫苑自ら事件への関与を、初めて認めたことになる。

 自分でも驚くほど静かな声で短く応じた頭中将に対し、紫苑は先程よりも一層深く頭を垂れた。項垂れるといった方が近いかもしれない。

 この言い分では、やはり紫苑は、事件の首謀者を探していたのだ。しかし、一介の庶民でしかない身では、公家の内情を探ることなど不可能に等しい。それでも動かないではいられなかったのだろう――罪の意識のゆえに。わずかな望みを掛けて大内裏だいだいり周辺を張り続け、辿り着いたのが、あの何処の家かの家礼けらい。頭中将もあれ以来、気を付けて探してはいるが、一度も姿を見掛けたことはない。紫苑に見付かり、その場面を頭中将に見られているために、主の参内さんだい随行ずいこうしなくなったとも考えられる。――そして今日になって遣わされたのが、黒駒くろこまの襲撃者という訳か。

 首謀者達の、紫苑への害意の程度がどれほどのものかはわからない。脅しのつもりならまだいいが、少なくとも紫苑が家礼の顔をしっかりと記憶しており、そこまで辿り着いたという事実は、彼らにとって衝撃だったのは間違いないはずだ。

 小さく息をついて、頭中将は表情を引き締める。

「――すべて話せ」

 はい、と答える紫苑の声音は、出逢ってから聞いたどんな時よりも素直に、そして儚く耳朶を打った。



 きっかけが紅の怪我、というのは、正しかったらしい。

 その日、双子の兄妹はいつも通り、僅かばかりの収穫物をあわに変え、家路を急いでいた。季節が秋に代わり、一日の寒暖差が大きくなってきたせいか、もともと身体の弱い母は寝付くことが多くなっている。この日も朝から調子が悪く、今思えば二人とも、少々注意が疎かになっていたことは否めない。

 一家がつましいながらも居を構える一帯まで戻ってきた辺りで、葉野菜のみを背に負った紅の足は、一層速まった。気が急くのは紫苑も同じだったが、こちらは兄の沽券こけんに掛けて、重たい粟と根野菜を幾つか負うていたため、少しばかりの後れを取る。

 事故は、二人が梅小路うめこうじを突っ切ろうとしたところで起こった。余程の重大事を抱えているのか、通常では有り得ない速度で、いずこかの牛車とその供の者達が眼前を通り過ぎる。紅は悲鳴を上げて足を止め、咄嗟に紫苑が腕を引いてやった為に大惨事こそ免れたが、尻餅をつく瞬間にひどく右足を捻ってしまったのだ。

 みるみる腫れていく患部を前に、双子は揃って途方に暮れた。紅は歩くこともままならず、紫苑は既に荷を抱えており、妹まで背負ってやれる状況にはない。元より医者に掛かる余裕などはなく、一度紫苑が紅の分も含めた荷物を持ち帰って、再度迎えに来てやることに話が決まりかけた時。

 何処かの貴族の家の者と思しき中年の男が、声を掛けてきた。大路の端に停めた牛車を示しながら、一部始終を見ていた自分の主人が気の毒がって、治療までの援助を申し出ているという。警戒する紫苑に対し、男はほとんど強引ともいえる親切さで、紅を近場の医者の元へ運んだ。そして、治療を受けさせる間、まさにこの裏庭に紫苑だけを呼び出し、持ち掛けてきたのだ――先程の牛車は頭中将のものだ、妹の仇を討ちたくはないか、と。

 無論、紫苑は断った。元々貴族は嫌いだし、他人に怪我をさせておいて見向きもしないことにも腹は立つが、だからと言って、命まで奪われた訳では無し、いきなり仇討ちなどという物騒な話になるのは、あまりに飛躍が過ぎる。

 しかし、断られることは想定の範囲だったのだろう。男は主人に確認することもなく、交渉方法を変えた。曰く、我が主は頭中将に一方ならぬ恨みを抱いている。黙って協力すれば、相応の褒美を与えよう――。

 逡巡の末、紫苑は男の手を取った。ここまでの強引さを考えても、自分達兄妹が共犯者候補として標的にされているのは間違いない。こちらの様子を窺うようについて来ている「主」とやらの牛車は、明らかな意図をもって、家紋を布で覆い隠している。身元が割れては困るようなはかりごとを巡らしているということだろう。話を聞いてしまった時点で紫苑に選択の余地はなく、断れば無事には済まない可能性が高い。身の危険と褒賞を測りに掛けた結果だ。

 咄嗟に「褒美は品物ではなく安定した仕事が良い」と答えたのは、常日頃から願っていたことであるのと同時に、万が一の時のための保険でもあった。恨みを理由に他人を陥れるような輩との縁などこちらから願い下げだが、その口利きで仕事を得ていれば、この非情な公家が口封じのために自分達に危害を加えようと考えても、そこから身元を割り出して、交渉の材料として使えるかもしれない……。

 紫苑の機転に、それまで淡々と伝令の役をこなしていた男は、初めて驚いたような様子を見せたが、必ず主に伝えると約束をした。「大抵の望みは叶えてくださるとの仰せだ」とも。

 話を詰める段になって、彼らが本当に必要としているのは女手、つまりは紅であって、紫苑には説得を務めて欲しいとの意図が知れたが、紫苑はそれだけはと、断固拒否した。妹には悪事に加担して欲しくなかったし、何より危険な目に遭わせたくない。あまりのしつこさに、代役を申し出たのは紫苑の方だ。渋る男に「双子なんだから似ていて当然だろう」と啖呵を切った時の表情は忘れられない。男は侮蔑の眼差しを寄越した後、「いいだろう」と話を打ち切った。

 交渉するのも汚らわしいと言わんばかりの態度だった。


 憤怒と屈辱を押し殺し、紫苑は決行の日を待った。

 見知らぬ男が迎えにやって来たのは、それから十日あまりのちのこと。まだ陽も高い時間帯、かねてからの計画通り、家族には「紅を助けてくれたお公家様を通して仕事をいただいた」とだけ伝えて、紫苑は身一つで家を出た。余計なことを一切話さぬまま先導する男は、道服どうふくのようなものを身に纏っている。といっても、これはあくまで紫苑が少ない経験の中でそのように感じただけで、本当に道士どうしが身に着ける衣装なのかどうかはわからない。実際に男は、道術どうじゅつよりも荒事の方が向いていそうな、屈強な身体つきをしていた。

 西寺さいじの辺りで牛車に乗せられたのには驚いたが、これには御簾みすの内側に戸板が立てられ、厳重に目隠しを施されている。そして運び込まれたのは公家の物らしき邸宅。しかし、それ以外には状況を確認するような余裕もなく、紫苑はそのまま、良い香りのする女房装束一式と共に、木箱の中に押し込められた。そこから先は、周囲の物音と伝わってくる振動とで判別するしかなかったが、どうやら荷車に載せられて、またいずこかへ運ばれていくらしい。快適な牛車とは違い、車輪が道端の小石に乗り上げるごとに、嫌な衝撃が伝わってくる。薄暗がりの中で紫苑は、自分如きを牛車に乗せたのは、人目に付かず木箱の中に潜ませるのに安全な場所が屋敷以外に見付けられず、住所から黒幕の素性を割り出されることを警戒したためだろうと考えた。

 荷車が止まったのは、そろそろ時間の感覚がなくなりかけた頃だ。周囲で何人かの会話が聞こえる。どこそこの方にご実家から云々という言葉があったような気がするが、定かではない。その直後に、文字通り木箱ごと荷物のように担ぎ上げられて、紫苑はそれが、自分をその場所に連れ込むための方便なのだと悟った。

 意外なことに、人力で運ばれるのは、荷車よりも楽だった。木箱の中に横たわった状態で体勢が安定しており、揺れるといっても人の歩幅に合わせた一定の調子が保たれているせいだろうか。それにしても、自分ひとりと女房装束一式、木箱そのものの重さもあろうに、これを難なく担ぎ上げて運ぶ人物の腕力には驚嘆するしかない。道服の男だろうか。だとすれば、やはりあの身体つきは伊達ではないのだろう。

 感心しながらも、紫苑は周囲の状況を探ろうと、必死に神経を研ぎ澄ませていた。いつの間にか、足音は二つになっている。会話はないが、怪力の道服男には連れがいるようだ。以前交渉した家礼風の男かもしれない。そんなことを考えていると、男達は急に速足になった。それまでの快適さは失われ、狭い木箱の中でゴロリゴロリと揺さぶられる。うっかり舌など噛まぬよう、紫苑はきつく奥歯を噛み締めなければならなかった。

 しかし、それもどうやら束の間だったようで、やがて紫苑を容れた木箱は、乱暴に地面に投げ出された。出ろと命じたのはやはり道服の男で、言われるまでもなく紫苑は、したたかに打ち付けた背中の痛みを堪えながら、飛び出るようにして男から距離を取る。が、男は紫苑に構うことなく、運び込んだ荷物の方をあらため始めた。取り敢えず危害を加えられるようなことはなさそうだと安堵してから、紫苑はもう一人の声の主を探す。が、こちらは仲間のはずの道服の男にさえ一言も告げずに、既に背を向けていた。まるで紫苑に顔を見られまいとでもするかのような振る舞いと背格好から、家礼風の男とは別人のように思われる。もしや、これが首謀者である「主」だろうか?

 遠ざかる束帯そくたいの背をじっと見つめていた紫苑は、そこでようやく、その場所が松林の中だと気付いた。男は木々の間を抜け、外界へと出て行ったらしい。辺りは既に夕闇が近付いており、秋の風が吹き抜ける。急に現実感が襲ってきて、紫苑はぶるりと肩を震わせた。

 男達が自分に内情を明かすとは考えにくい。だがそれでも、現状理解のためには少しでも情報が欲しい。両手を擦り合わせながら道服の男を振り返り、紫苑はギョッと目を剥いた。女房装束を引っ張り出したのとは反対の手に握り締められていたものが、人間の足のように見えたからだ。声を上げることなく、男に気付かれる前にサッと視線を引き剥がしたのは、紫苑が並外れて敏いことの証左しょうさだと言っていい。男にとっても、それは明確な失態であったらしく、探るような視線が注がれる。束帯の男が消えていった方角を見遣る芝居で何とか誤魔化しながら、紫苑は背中を嫌な汗が伝うのを感じていた。

 来い、と乱暴に腕を引かれて、思わず息を呑む。が、ぞんざいな手付きで顔を拭われただけだった。胸を撫で下ろしたのも束の間、白粉をはたかれて、いよいよ女装束に着替えさせられるのだと腹を括る。手際よく紫苑を着付けていきながら、男は簡単にこれからの流れを説明した――曰く、お前はいずこかの后妃ごうひに仕える女房として、こちらが選んだ者達に「心細いから」とでも何とでも伝えて同行を申し出よ。先程の方がやって来てお前を手招くので、そこで「薔薇そうびの君様」と呼び掛ければいい――

 改めて、ここが大内裏だいだいりの内側であると知らされ、紫苑は事の重大さに、今更ながら頭を抱えたくなった。貴族同士の恨みつらみと聞いてはいたし、途中で牛車や荷車から降ろされ徒歩になったことでも何となく想像は付いたが、実際にこの場に立つと、恐れ多さに目眩がしそうだ。

 緊張と後悔で蒼褪める紫苑をよそに、女装の方は、男も満足のいく仕上がりになったらしい。「見れるようになったじゃねえか」と男が軽口を叩くのを紫苑は初めて聞いたし、笑顔を向けられるのも初めてだったが、あまりに露骨で下卑た態度に、これが紅でなくて良かったと心の底から思ったものだ。

 やがて道服の男もいずこかへ姿を消し、紫苑は一人、松林の中に残された。その場所がえんの松原と呼ばれていることを紫苑は知らなかったが、幸いだったと言える。知っていたら、そんな薄気味悪い場所に一人で取り残されることに、恐怖を覚えずにはいられなかったかもしれない。意に染まぬ女装もまた、重ねられた着物のお陰で、秋の夜長の寒さから身を護るのに大いに役立ってくれた。しかし、どれほど寒さに震えようと、木箱の中を検めようとまでは思わなかっただろう。

 殿上人達の行き交う別世界で、鬱蒼と茂る松林に一人。萎えそうになる気力を奮い立たせたのはたった一つ、これで少しは家族に楽をさせてやれるのだという希望だ。思い出したように胸を掠める罪悪感からは、相手は紅が怪我を負う原因になった貴族なのだからと言い聞かせることで、必死に目を背ける。

 そうして、夜もとっぷりと更けた頃。先に戻ってきたのは道服の男の方で、これに乱れた着衣を直されている間に、今一人が近付いてきた。月夜とはいえ明かりもない場所であるにもかかわらず、顔を隠すように扇を広げている。余程紫苑に顔を見られたくないのだろうが、着物も違っているので、状況と背格好から何となく、先程の束帯の貴族だろうなと推測するしかない。

 ――そこからは、世間に知られている通りだ。

 三人揃って闇夜に身を潜めていたのは束の間の事で、道服の男に指示されるまま、紫苑はやって来た二人の女房に女の声色を使って同行を願い出た。二人は怪しむことなく、それはさぞ心細かろうと道行みちゆきを共にしてくれる。「どちらにお勤め?」と聞かれた時には肝を冷やしたが、言い澱むよりも先に女の一人が、松の木の下で紫苑を手招く男の存在に気付いた。紫苑は渾身の力で陶然とした表情を作り、「薔薇そうびの君様」と呼び掛けてから、男の元へ走り寄る。その時、紫苑は初めて間近で男の顔――正確には鼻から下を檜扇ひおうぎで覆っているので目元だけだが――を見、いかにも楽しげな談笑を装うための含み笑いを聞いた。目元は涼やかと言って差し支えはないだろうが、どことなく冷酷さも感じる。忍び笑い程度では、若そうだということくらいしかわからなかった。

 やがて頃合いを見計らって、男が静かにきびすを返す。直衣のうしの裾が翻って、紫苑は焚き染められた香の香りが、自分が纏う装束と同じものであることに気付いたが、それが何なのかはもちろん知る由もない。後を追ってその場を離れ、紫苑は指示されたとおりに、今一度木箱の中へ、女房装束のまま潜り込んだ。中には紫苑の着てきた粗末な衣服があるだけで、他に怪しいものは見当たらない。一緒に運ばれた衣装を身に纏っていることを差し引いても、荷物の嵩が少ないような気がしたが、もうそれ以上は考えることをやめて、紫苑はひたすら時が過ぎるのを待った。

 来た時と同じようにして、荷物同然に担ぎ上げられるのとほぼ同時に、悲鳴が聞こえてくる。あの気のいい女房達が、何か恐ろしい目に遭わされていなければいいがと祈るうちに、紫苑はどこか屋内に運び込まれた。そこでしばらく待たされたのち、急に木箱の蓋が開いたかと思うと、まだ暖かい着物が投げ入れられる。おそらくはあの冷酷そうな青年貴族が着ていた直衣だろう。これも紫苑の知るところではないが、直衣で参内できるのは公卿くぎょうの中でも特別に宣旨せんじを受けた、ごく一部の者に限られている。そんな姿で、しかも夜間に宮城きゅうじょうのいずれかの門を開けさせたとなると、人目に立たないはずがない。内裏だいりから怪しまれずに脱出するためには、着替える必要があったのだ。紫苑の推測通り、そこからまたしばらくは、慌ただしい衣擦れの音だけが聞こえていた。紫苑を着付けた手際から考えて、道服の男が手伝っているものと思われる。

 騒ぎになる前に辛くも帰り着いた門らしき場所では、「つい女御と話し込んでしまって」という言い訳めいた声が聞こえた。が、特に詮議も受けずあっさりと通されたことからも、あの青年貴族がそれなりの立場であることは疑いようもない。既に買収済みとも考えられるが、何にせよ、家礼風の男がいう「主」、且つこの企みの首謀者は、きっとこの男なのだろう……。

 ――そして紫苑は、やって来たのをそのまま逆に辿る順序で送り返された。荷車でどこかの屋敷に運び込まれ、辺りを確認するいとまも与えられず、目隠しした牛車に自分の衣服と共に押し込まれる。乗車中に着替えを済ませろとのことと受け取って、紫苑は忌々しくも煌びやかな女房装束を脱ぎ捨てた。一人で着るのは無理でも、脱ぐのはたやすい。下ろされたのはやはり西寺付近で、そこで紫苑は女房装束一式と共に、青年貴族が着ていた直衣も下賜かしされた。無駄だとわかっていながらも、「仕事の件は?」と聞いたのが、紫苑から道服の男への最初で最後の問い掛けだが、男はニヤリと人の悪い笑みを浮かべて「また連絡するとさ」とだけ言い捨て、背を向けた。

 追い掛けて、主共々身元を確かめたい。しかし、それが酷く危険な行為であることもわかっている。

 紫苑は腕の中の豪華な着物を握り締めることで、何とかその衝動を堪えた。


 事件は紫苑が思うよりも早く、巷間こうかんに知れ渡った。

 現場の異質さから「鬼の仕業に違いない」との衝撃的な――しかしある意味では非常にこの時代らしい尾ヒレが付いたことで、より一層民衆の興味を掻き立てたせいだろう。

 松林の中に本物の人間の手足が残されていたことを知って、誰よりもゾッとしたのは、他でもない紫苑だ。道服の男が木箱の中から取り出したもの、人間の足と見えたアレは、やはり作り物などではなかった。どうやって用意したのかは知らないが、紫苑はずっと、誰の物とも知れない、切り取られた人間の手足と共に運ばれていたことになる。もしかしたら、紫苑が着るだけの女房装束に焚き染められた香は、死臭のようなものを誤魔化すためのものだったのかもしれない。紫苑はこの時点で、食料や薬と交換するのは女房装束からだと決意した。

 とはいえ、そのお陰で幸か不幸か、宮中で起こった事件に対し、一庶民の少年が関与を疑われる気配はない。紫苑が常にない「仕事」へ出掛けたことを知っている家族すら、正確な日時が報道されるでもない時代にあっては、「怖いわね」と眉を顰めて囁き合うだけだ。

 そんな母と妹の純粋さが、悪事に加担することを選んでしまった紫苑の目には、眩しくて堪らなかった。


 当然のように、あの貴族からの連絡は途絶えた。

 予想していたことではあったが、別れ際の道服の男の表情から推測するに、「主」は端から紫苑の要求を呑むつもりなどなかったのだろう。仕事の仲介などすれば、いずこからか足がつかないとも限らない。自邸で雇うなどもってのほかだ。庶民の紫苑を牛車に乗せ、寄り添うような至近距離にあっても頑なに顔を隠し続けた者が、そんな愚を犯すはずもない。その代償が、女房装束と直衣の各一式という訳だ。

 確かに貴人の着物は、交換に出せばそれなりの品物には変えられる。母と妹にも、一夜の仕事になぜこれほどの報酬が、と怪しむ風がないではなかったが、背に腹は代えられない。切り分けた着物を少しずつ交換に出し、食べ物や母の薬を得ることで、一家は一時的に困窮から脱した。

 だが、着物の端切れもいつかはなくなる。そこから先は、また極貧生活に逆戻りだ。紫苑達の生活には希望がない。だからこそ、常日頃から何か安定した職をと考え、ついうっかり危険な話にも乗ってしまったのだ――貴族なんてと期待はせぬよう気を張りながら、それでも万に一つの希望を抱いて。

 当たり前のように約束を反故ほごにされたことは、やはり悔しい。

 しかし、怒りが諦めに変わるのにも、さほど時間は必要なかった。いずれはなくなる着物程度では、堅実な一家に日々の務めを放棄させるには至らない。母の薬のこともあり、紫苑は紅と話し合って、着物を交換に出すのは足りないところを補う時だけにしようと決めた。そのためには、いつまでも愚かな期待に縋っている訳にはいかないのだ。


 そうして慌ただしくも平和な日常へ戻ってみると、自分が陥れるのに加担した頭中将――薔薇そうびの君という人物のことが気になり始めた。

 相変わらず事件は鬼の犯行との見方が大勢を占め、幸いにして市井の噂に頭中将の名は絡んで来ない。しかし、紫苑は指示された通りはっきりと薔薇の君という通称を口にし、それを聞いた女房のどちらかが「え、あの方が!?」と嬉しげな様子で頬に手を当てたのを覚えている。執拗に紫苑から顔を隠したあの冷酷そうな青年貴族は、自分演じる凄惨な事件の犯人が頭中将であると世間に思わせたかったのだろうし、気の良さそうな二人は見たまま聞いたままを検非違使に報告したことだろう。紫苑は頭中将なる人物がどんな境遇にあるのか知らない。紅の怪我の原因を作った人物とはいえ、今頃は身に覚えのない罪を着せられて、酷い立場に立たされているのかもしれない……。

 ある日、やむにやまれぬ想いを抱えて、紫苑は藤原家の屋敷へ向かった。行ったところで何をしようというのではない。ただもう純粋に、陥れられた形の頭中将がどういう状況にあるのか、確認しておきたくなったのだ。良心が咎めた、というのが、この時の紫苑の心情を表すのには最適であったかもしれない。

 市中で頭中将の家、藤原家の邸宅と尋ねれば、さしたる苦労もなく目的地に辿り着けるというのは、相当な家柄だ。とはいえ、頭中将の顔も知らず、当然ながら屋敷内に何のツテもない紫苑は、ただ広大な屋敷の周りを、半ば呆然と歩き回る以外になかった。その姿を下女に見付かり、追い遣られるかと構えたものの、思いも掛けない施しを受けたのは、頭中将も知るところだ。貰えるものはありがたく頂戴したが、物乞いと間違われたことに関しては複雑な気分だった。

 頭中将を載せた牛車と擦れ違ったのは、両手が塞がってしまったために、無意味な探訪を打ち切る踏ん切りをつけた直後のこと。もちろん紫苑には、その牛車が誰の持ち物であるかなど、知る由もない。だが、延々と一つの家の筑地塀ついじべいが連なる通りをわざわざ行くからには、と妙に確信めいたものを感じる。豪奢ごうしゃな牛車が、今まさに施しを受けた家に入っていくのを見送りながら、紫苑の心臓はドクンと大きく脈打った。

 当然ながら、紫苑に家紋の知識はない。しかし、記憶力は良い方だとの自負はある。

 たった今、紫苑の目の前で藤原家の屋敷に入っていった牛車にあしらわれていた家紋は、紅が怪我をする原因となった牛車のものとは、明らかに違っていたのだ。


 ――最初からずっとだまされていた。

 罪悪感を押し殺すための唯一の根拠が脆くも崩れ去ったことで、紫苑は怒りに燃えた。殆ど八つ当たりといってもいい。

 首謀者達を探し始めたのは、一言でいい、行いに対する糾弾をぶつけてやりたかったからだ。朝廷に官位を得た貴族にとって、自分の非難など取るに足らないことはわかっている。それどころか、庶民を利用した時点で、何が起きても適当に握り潰せると考えていたのに違いない。嘘に嘘を重ねる人間とはそういうものだ。可愛いのは自分だけ。頭中将という人物との間に何があったのかは知らないが、きっとそいつにだって非があるのを、一方的に憎んだり恨んだりしているだけなのかもしれない。そういう勘違いや都合のいい思い込みを、どんな小さな力でもいいから、直接投げ掛けてやりたかったのだ。

 そして手当たり次第に宮城門を張り込み続けて十数日、ついに紫苑は首謀者との橋渡し役を務めた、あの家礼けらい風の男を見付け――同時に頭中将とも直接の面識を得た。しかし、これは決して紫苑の望むところではなく、咄嗟に、宮城近辺をうろつくところを役人に見咎められた時の言い訳として用意していた嘘を披露して逃げた。関係者全員を見付けられたとしても、きっと紫苑一人に罪を被せて逃げおおせるに決まっている。実際の宴の松原事件に被害者が存在する訳ではないが、結果として紫苑は立ち入りの許されていない場所に入り込み、世間を騒がせるような悪質な芝居を打ったことに変わりはない。唯一被害者といえるのは頭中将だけだが、依然として貴族全般を疎む気持ちは変わらず、彼の為にすべてを明かして検非違使に引き立てられるのもご免だ。

 それだけに、頭中将が自分や妹の周りに姿を見せ始めて、紫苑は焦った。遠ざけようとしても、頭中将は真意の見えない笑顔で近付いてくる。自分を疑っているのであろうことは伝わってくるのに、食べきれないほどの食材や、清潔な布地などを持参して。双子であることを自ら明かしたのは、頭中将の見立て通り、彼を遠ざけるための最終手段だった。きっとこの人も、侮蔑の眼差しを寄越して離れていくのだろう、あの家礼のように。

 しかし、その時頭中将の見せた態度が、紫苑の中の何かを決定的に変えてしまった。

 双子は世間的にはとされている。だが紫苑は、自分達が双子でない人達に劣った部分があるとは思っていなかった。この通り五体満足で、物覚えも悪くない。妹の紅に至っては、どこに出しても恥ずかしくないほどの美人で、最近は悪い虫が付かないよう、兄である自分が苦心しているくらいだ。それでも一家は、必要のない限りは双子であることを伏せてきた。迷信から生まれた差別は性質たちが悪い。身をもってそれを痛感しているからこその、自衛手段だったのに。

 その社会通念を、頭中将は迷信であると断じてみせたのだ。母のかたを案じることで。多胎児たたいじは忌むべきものではないと。

 見栄えの良いだけのお公家様だと思い込もうとした頭中将の度量の大きさに、紫苑は愕然とした。こんな物の見方をする人には、今まで会ったことがない。

 感動と同時に紫苑の心を満たしたのは、激しい自己嫌悪だった。こんな人を陥れるような謀略に、なぜ加担してしまったのか。もしも紫苑が拒否し通していたとしても、あの冷酷な青年貴族は別な誰かを雇い入れて、同じことをしただろう。でも、それなら少なくとも、こんな想いはしなくて済んだ――。

 思い余った紫苑は、再度大内裏周辺を張り込み始めた。頭中将は、庶民というだけで人を蔑んだりしない。彼自身もまた、生まれ落ちた家柄に頼らず、信念を持って生きている。立派な人だ。そんな人を敵視するなら、ソイツの方が悪人なのだと、今ならはっきりわかる。自分を騙し、頭中将に濡れ衣を着せようと画策した人物を暴いて、正直に罪を告白しよう。


 襲撃は、その矢先のことだった。馬上の人物とは、しっかりと目を見合わせている。

 ――あの道服の男に、間違いはなかった。

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