262 気分はひどすぎる
それから紀伊教授は教授会のため一時的にオリエンテーションを抜けることになり、僕は教授が戻ってくる18時頃まで待機することになった。
当然この機を逃すはずはなく、僕はヤミ子先輩に声をかけると会議室から続く休憩室で話をすることにした。
長方形のテーブルを挟むパイプ椅子に向かい合って座り、僕は暗い表情をしているヤミ子先輩に質問をぶつけた。
「先輩、話しにくければ……いや今回ばかりは話しにくくても話して欲しいんですけど、柳沢君と何かあったんですか?」
「……うん」
病理医気質のヤミ子先輩は話を長引かせるのは好きでないらしく、あっさりと質問に答えた。
「ご存じだと思いますけど柳沢君は先々週の後半ぐらいから1日も大学に来てないんです。彼はこのままだと診断学の本試験を受けられなくなるかも知れなくて、何とか出てきて貰わないと困るんですよ」
「えっ、柳沢君大学に来てないの?」
「知らなかったんですか!? それは流石に……」
ヤミ子先輩が彼氏であるはずの柳沢君が大学に来られていないことも知らなかったと聞いて僕は驚いた。
「もしかして柳沢君と……別れたんですか?」
「それは、その通り。……はっきり言うけど、悪いのは全部私だから。柳沢君は何も悪くない」
クリティカルな質問に即答するとヤミ子先輩は沈痛な表情をしてうつむいた。
「その事情、聞かせて貰ってもいいですか? ナイーブな話なら無理にとは言いませんけど」
「白神君なら悪いようにはしないと思うからちゃんと話すね。去年のクリスマス、彼と真田雅敏さんのコンサートに行ったんだけど……」
ヤミ子先輩と柳沢君はシンガーソングライター真田雅敏のファンであるという点で共通しており、昨年の末(僕が壬生川さんと愛媛旅行に行っていた頃)にはついに2人きりでクリスマスコンサートに行った。
その帰りに気分が盛り上がった柳沢君はヤミ子先輩にキスを求め、先輩はそれを一度は受け入れようとしたのだが……
「キスされる寸前にどうしても気持ち悪くなっちゃって……気持ち悪い! って言って柳沢君を突き飛ばしちゃったの」
「先輩、それひどすぎますよ! どう考えたって傷つくじゃないですか。……それで破局したんですか?」
「いや、その時はちゃんと謝って笑顔で解散したんだけど問題はその後。私、柳沢君にひどいメッセージを送っちゃって……」
柳沢君はヤミ子先輩にキスを拒絶されても怒ったり過度に悲しんだりはせず、その日は笑顔で自宅に帰っていったらしい。
しかしヤミ子先輩は帰宅した彼に「今度から柳沢君がそういうことをしたいときは我慢する」というメッセージを送ってしまい、「我慢」という言葉を使われたことにショックを受けた柳沢君はその場で先輩に別れを切り出した。
「確かに先輩も配慮のない書き方だったとは思いますけど、それでいきなり別れるっていうのも急すぎませんか?」
「うん、柳沢君はショックのあまりそう書いちゃっただけだったみたい。先月の半ばに柳沢君を呼び出してひどいメッセージのことはちゃんと謝ったんだけど、彼は私と別れる気はなかったって言ってた」
「……じゃあ、特に何も問題ないんじゃないですか?」
付き合い始めて間もないカップルに感情のすれ違いがあるのは普通のことで、そこで2人は仲直りできたのではないかと疑問に思った。
「そのはずだったんだけど……白神君、ここからは怒らないで聞いてね」
「もちろんです。僕は先輩を叱れる立場でも何でもないですし」
当然の前提を踏まえて答えた僕は、
「私、柳沢君が自分から別れるって言ってくれて正直ほっとしてたの。だから柳沢君にまだ私と付き合いたいって言われて驚いたし、その後……」
「その後?」
「柳沢君から俺のこと好きじゃないですよねって聞かれてはっきり否定できなくて、俺と解川先輩とどっちが大事ですかって聞かれてさっちゃんって答えちゃった」
「何てこと言うんですか!!」
約束を一瞬で裏切る結果になった。
「そんな、そんな……もしかしてヤミ子先輩は女性しか好きになれないんですか?」
先ほどの話から
「いや、そういう訳じゃないよ。……そういう訳じゃ、ないんだって」
「……というと?」
なぜか伝聞形で答えたヤミ子先輩に、僕は不思議に思って質問を重ねた。
「私、自分のことがもう何が何だか分からなくなって専門家に聞いてみることにしたの。それで……」
「……え、ええっ?」
ヤミ子先輩はパイプ椅子に座り直すと、少し前にあった重大なイベントのことを語り始めた。
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