212 気分は正気度急減

「ところで、今は陸上部の出店を抜けてきてるの?」

「せやねん。あと30分ぐらいで戻らなあかんからそれまでにご飯済ませとくわ。白神君もまた食べに来てくれる?」

「もちろん! 午後から食べに行こうと思ってたから絶対買いに行くね」


 そこまで話すとカナやんはありがと、と言って僕に手を振って競技場を後にした。



 思わぬきっかけでカナやんの悩みを聞いてあげられたことに安心しつつ、僕は競技場の一画に設営された展示場に興味を惹かれた。


 展示場では文芸研究会の部誌が設置・配布されている他に写真部や美術部の作品も展示されているはずだ。


 カナやんが陸上部の出店で再びたこ焼きを作り始めるまではしばらく時間がかかるので、それまで覗いてみれば丁度いいだろう。



 そう思って席を立ち、競技場の一画に大量に並べられている展示パネルを見に行った僕は、




 「奇跡の六角形 肝臓小葉間トライアド(100倍)」


 「順番に並べられるかな? 急性尿細管壊死(200倍)」


 「境界発見! バレット食道(40倍)」




 A3用紙にでかでかと印刷された様々な病変の光学顕微鏡写真を目撃し、正気度が急減する感覚を味わった。


 エオジンのピンク色とヘマトキシリンの紫色でいろどられたHE染色像は見慣れているはずだがA3サイズに拡大されると不気味であり、展示場に全然人がいないのはこの写真たちのせいではないかと思った。


 そして写真部で病理像を見せびらかしたがる部員と言えば、ものすごく思い当たる人物がいる。



 展示パネルの下方には低めの長机が置かれており、そこにはアンケート用紙が積まれていてそれぞれの写真に添えられた問題を解ければ後日抽選で景品が貰えるとのことだった。


 景品は「病理組織アトラス(1名様)」「単眼式光学顕微鏡(1名様)」「24色入り色鉛筆(5名様)」と分けられており、こういうことをしそうな人はやはりこの大学に1人しかいないと僕は直感した。



 見なかったことにして立ち去ろうとした瞬間、僕は背後に立つ何者かの気配を察知し、



「あれっ白神君。展示見に来てくれたんだ」

「は、ははは、そりゃもうヤミ子先輩の作品ですから……」


 振り向いた先には満面の笑みを浮かべたヤミ子先輩の姿があった。



「どう? どう? この写真すっごく綺麗でしょ? 特にこの門脈域なんてもう芸術的で……」

「門脈域って何でしたっけ?」

「あちゃー、組織学は覚えてないと駄目だぞっ! あのね、ここ! この素晴らしいトライアドの部分をね、よく見てみて!」

「はい…………」


 ここまでテンションが高いヤミ子先輩に遭遇するのは人生で初めてであり、その後僕が病理学オタクのトークに付き合わされたのは言うまでもない。


 それから20分ほど後に剖良先輩が偶然その場を通りがかり、ようやく地獄から解放された僕は嬉しさで涙目になりつつ陸上部の出店まで走ったのだった。

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