179 気分はダイバーシティ
2019年10月6日、日曜日。時刻は午後15時。
壬生川さんから数週間ぶりにデートに誘われた僕は正午近くに阪急皆月市駅前で集合すると2人で駅近のフレンチレストランに行った。
食後は例によってジャッカル皆月2号店でカラオケを楽しみ、5時間パックの予約で2時間近く歌うと僕らは小休止で雑談をしていた。
「そういえばマレー先輩がお父さんになったって本当?」
「本当だよ。というか、色々あって僕は婚約者さんの妊娠が発覚する場面に居合わせて……」
「そうなの? 詳しく教えてくれない?」
いつも通りウーロン茶(50%)を飲みながら興味津々で聞いてきた壬生川さんに、僕は畿内歯科大の大学祭で起こった一連の事件について話した。
「へー、マレー先輩はそういう目的で自分から美波さんを旅行に誘ったのね。先輩にそんな大胆な所があったなんてちょっと驚いちゃう」
「そうだよね。僕も壬生川さんとならぜひ旅行行きたいです」
「…………」
何気なく言うと壬生川さんの表情が凍りついた。
「えっ、どうしたの?」
「あんたね、確かにまだ手もつながせてないけど、いきなりそんな……」
早口で喋りながら赤面し始めた壬生川さんに、僕はマレー先輩が旅行先で美波さんと何をしていたかを思い出した。
「あっ! いや全然そういう意味じゃないから! そんなこと思ってもないから!!」
「思ってもないって言われると、それはそれで複雑なんだけど……」
女の子の扱いは難しい。
その話題はそこで終わり、僕は壬生川さんから今月の研修はどんな感じかを尋ねられた。
「先月もそうだったけど発展コース研修は担当の学生の研究を手伝って勉強する形で、今月は剖良先輩の研究を手伝ってる。発生学がメインの研究だからまだ内容を十分理解できてはないかな」
「そうなのね。さっちゃん先輩はヤミ子先輩と並ぶぐらい研究には真剣な人だから、あんたも真面目に勉強させて貰えばいいんじゃない?」
壬生川さんは幸いにも彼氏が女性の先輩と2人きりで研究をやっていたからと警戒する人ではないらしく、僕はそのことに若干安心した。
「あと、これはここが密室だから聞くんだけど、さっちゃん先輩ってヤミ子先輩のこと好きなんでしょ?」
「えーと……」
事実としてはその通りでしかないが、先輩の性的指向を勝手に他人に教えるのは道徳的によくないので僕は返答に困った。
「ああ安心して、その態度で大体分かったから。でもそうだとすると大変よね。だってヤミ子先輩……」
「うん。その件で剖良先輩はかなり不安定になってて、実験室でも時々危なっかしい事態が起きてる」
剖良先輩はあれからマッチングアプリで本格的に出会いを探し始めたらしく10月初頭に出会った時よりは落ち着いてくれたのだが、それでも失恋のショックから実験中にも時々気がそぞろになってしまっていた。
免疫染色やPCRといった解剖学研究の手技はちょっとした不注意で実験結果が左右されてしまうことも多く、僕が剖良先輩のミスを見つけて慌てて指摘したこともこの短期間で一度や二度ではなかった。
「あんたにしてみれば大変だと思うけど、できるだけ助けてあげてね。相手が男性でも女性でも失恋した女の子って本当にナイーブになるから」
「もちろん。僕はそういうのが分からないほど無神経じゃないと思うし」
「あんたがそれ言う? 前にもカナちゃんに」
「ごめんなさい」
壬生川さんのこういう所には本当に弱い。
それからカラオケを再開しようとした矢先に壬生川さんはスマホの通知に気づき、僕に一言断ってから画面を開いた。
「何かあったの?」
ささっと操作してスマホをしまった壬生川さんに何気なく尋ねると、彼女はやれやれといった表情で答えた。
「高校の後輩にレズビアンの子がいるんだけど、マッチングアプリでいい相手が見つかったんだって。その子これまでもマッチングアプリで恋愛しては失敗してるから、今回もそうなりそうだけどね」
「なるほど、性的少数者の人って意外と身近にいるんだね」
マスメディアの報道や創作物ではいわゆるLGBTを含む性的少数者の人々は特殊な存在として扱われがちだが実際には僕らの身の回りにも普通に暮らしていて、これといって自己主張したりはせずに普通に人生を楽しんでいるのだろう。
僕の周囲だけでもレズビアンの剖良先輩とゲイのヤッ君先輩がいるが、彼らのような性的少数者の人々を差別したり優遇したりせずその性的指向を単なる個性として扱える社会こそが誰にとっても幸せな社会なのではないかと思った。
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