89 気分は事情聴取

 2019年6月28日、金曜日。時刻は放課後の17時頃。


 今週から始まった微生物学の講義が午後一杯で行われ、1週間の疲れがどっと出た身体を引きずりながら僕は附属病院の病棟の一画を訪れていた。



 この前の日曜日、ヤッ君先輩が路地裏で暴行を受けた後は目まぐるしく事態が動いていった。


 安堂という名前らしいチンピラの男が立ち去った後、先輩は重傷と呼べるほどではないが吐血していて自力では歩けず、僕は先輩の小柄な身体を背負ったまま通りがかったタクシーに乗り込んだ。


 先輩の様子を見てぎょっとした運転手さんに数分走って貰うとすぐに畿内医大の附属病院に到着し、僕は休日救急外来に先輩を運んだ。


 明らかに暴行を受けた状態の若者が運び込まれ、しかも本学医学部の学生と分かったことでその場にいた医療スタッフは大騒ぎになり、先輩がストレッチャーに乗せられて救急病棟に運ばれると僕は附属病院の職員さんに事情聴取を受けた。



 「薬師寺先輩が暴行を受ける所を動画撮影して欲しいと先輩本人から頼まれた」という事実をどう説明するかは本当に苦労した。下手な説明をすると暴行を受けている人を見殺しにしようとしたと思われかねないし、そもそも僕自身詳しい事情は聞いていなかった。


 仕方がないので目の前で起きたことをすべて正直に話すと、職員さんもそれ以上は追及できず警察が来るまで待つよう指示された。


 先輩は天草君の身に起きたトラブルを自力で解決しようとしていたらしくここで警察に通報されては台無しではないかと思ったが、結果的にはもはや通報されても問題なかった。



 先輩に暴行を加えた張本人である安堂あんどうひとしは相手が気絶した際に殺人を犯してしまったと早とちりしたらしく、バイクで逃げ去った直後に警察に自首していたのだった。


 自首した先はよりにもよって畿内医大本部キャンパスの向かい側にある交番で、職員さんは暴行事件を通報したその場で犯人が検挙されたとの知らせを受けることになった。


 安堂が自首した直後に交番にいた警察官はすぐにパトカーで現場に向かったが、その時には既に僕が先輩をタクシーに乗せていたので誰の姿もなかったらしい。



 それからすぐに僕は事件の目撃者として交番への出頭を命じられ、そこで附属病院の職員さんに話した内容をそのまま繰り返した。


 その際にお巡りさんが教えてくれたのは、畿内医大と同じく皆月市内にキャンパスを持つ関可大学で近頃悪質な美人局つつもたせによる恐喝が相次いでいるという話だった。


 学内で男女の学生が交際を始めてからしばらくして女子学生が男子学生に交際を強要されて強姦されたと訴え、女子学生の彼氏を名乗る男が男子学生から数百万円を慰謝料として脅し取るという手口らしく、事件の存在は被害者の男子学生の1人が大学に相談したことで明らかになっていた。


 他の被害者は泣き寝入りしてしまっているので事件の全体像は分からないが美人局に関与した女子学生はいずれも同じホストクラブに通っており、大学側はこれらの事件をちょうど警察に通報した所だった。



 安堂はヤッ君先輩に腹部を繰り返し蹴るなどの暴行を加えたことを自供しており、今後は暴行事件に加えて関可大学の女子学生を利用した美人局の容疑でも取り調べを行っていくとのことだった。


 事情聴取の後は暴行事件の一部始終を撮影した動画を提供するよう命じられ、僕は要求を受け入れて自分のスマホをお巡りさんに渡した。


 先輩からの依頼には反するが既に安堂が逮捕された以上個人として彼を脅す道具は必要ないし、被害者が天草君だけでないとなればヤッ君先輩の都合だけを優先させる訳にもいかなかった。



 動画データを警察に渡して再生確認が終わると僕は帰宅を許可され、安堂の取り調べがある程度進むまでは事件について口外しないよう要請された。


 先輩に迷惑をかけたくないので言われなくても黙っているつもりだったが、人の口に戸は立てられぬということか数日経つと学内ではヤッ君先輩がチンピラに暴行を受けたという噂が広まっていた。


 幸いにも僕が現場にいたことは知られておらず、先輩と最近仲良くしていたということで友達に色々聞かれてもすべて知らぬ存ぜぬで通した。



 学生は表向き何も知らないことになっているが薬理学教室の本地教授をはじめとする先生方は事情をすべて把握していたらしく、2日前の水曜日には「本学学生に対する暴行事件の発生について」という表題の告知文が各学年の掲示板に貼り出された。


 告知文ではヤッ君先輩と安堂とは見知らぬ他人同士という扱いで「暴漢・通り魔に注意すること」という当たり障りのない文言もんごんで締めくくられていたが、これに関しては医学生が外部の人間と自ら関わって暴行を受けたと書くとマスコミの反応が怖いのかも知れないと思った。

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