69 気分は火祭

 2019年6月6日、木曜日。時刻は昼の12時45分頃。


 学食で適当に昼食を済ませた僕は疲れから第二講堂の机に突っ伏して仮眠を取っていた。


 ここ2日間放課後は夕方18時までかけてヤッ君先輩が統計学のレクチャーを行ってくれて、今日の放課後からは実際に統計ソフトを使ってみることになっていた。


 先輩の解説はとても分かりやすくて、統計学に関する実用的知識がほぼゼロの僕にたった2回の講義である程度の技能を身に着けさせてくれたのは流石だと思った。


 とはいえ朝9時から16時15分頃まで講義や実習があってそれから18時までさらに勉強していたことになるので疲労は激しかった。



 3月から5月までも放課後や土曜日はいつも基礎医学教室で研修を受けていた訳だが剖良先輩は弓道部、カナやんは陸上部、壬生川さんは女子バスケ部とそれぞれ運動部に所属しているため彼女たちが部活の練習に行っている日(大体週に2日)は僕も休みを貰えていた。


 その一方ヤッ君先輩は運動部に所属しておらず、主将として所属している東医研も昼休みだけで活動が完結するため放課後は基本的に毎日空いていることになる。


 先輩も薬理学教室から命じられて僕を指導してくださっている訳で教わる立場からすれば感謝するしかないのだが、休みがないのは正直言ってきついと思った。



「……白神君、起きとる?」

「ん……んん?」


 冷たく硬い第二講堂の机は枕にするには厳しく、仮眠といっても半覚醒状態だった僕は左隣から誰かが肩を叩いたことに気づいた。


「ごめんな、寝てる時に起こしてもうて」

「あ、いや、僕は大丈夫だよ」


 顔を上げるとそこに立っていたのはカナやんだった。


 4月に生化学教室の基本コース研修でお世話になった縁で彼女とは2回生から友達になれたのだが、講義室で用もなく話しかけてくるほどの間柄ではない。


「何かあったの? そういえば授業もうすぐかな」

「まだ10分ぐらいあるから心配ないで。あのな、今日は白神君にお願いがあって来たんやけど」

「そうなの? 僕にできることなら何でもどうぞ」


 気軽に答えると、カナやんはもじもじとした様子で、



「土曜日の火祭ひまつり、うちと一緒に回らへん?」


 と言った。



「ひまつり? それ、この大学のあれだよね?」


 指示語だらけで尋ねると彼女はこくこくと頷いた。



 一般に大学というのは1年のどこかで学園祭(大学祭)を開催するもので、1学年が10000人以上いたりする総合大学では数日かけて実施されることもある。


 単科大学であり医学部と看護学部を合わせても1学年が200人ほどしかいない畿内医科大学にも大学祭というイベントはちゃんと存在しており例年11月上旬の日曜日に開催されている。


 大学祭では各部活が飲食物の出店でみせを開く他に、幼い女の子に人気のアニメキャラクターの着ぐるみショーが行われたり大阪府内という土地柄もあってお笑い芸人を何組か招致して漫才やコントをやって貰ったりしている。


 それ以外にも軽音部のライブや空手部の演武、くじ引き大会といったよくあるイベントが行われるが最も盛り上がるのは有名人を招待してのトークショーだ。


 数年前に本学女子学生を含む若い女性に大人気のイケメン俳優に来て貰った時は大学に追っかけのファンが殺到して大変だったらしく、その翌年は男子学生の希望を優先してテレビドラマで人気のセクシー系女優を招待したらしい。



 大学祭は学外の人も数多く訪れるイベントだが畿内医大には学園祭と呼べるイベントがもう一つ存在し、それが先ほどカナやんが口にした火祭ひまつりだ。


 危なっかしい名称からは分かりにくいがこれはほとんど大学関係者のみしか参加しない小規模な学園祭で、例年6月上旬の土曜日に開催される。


 本来は学外の人も訪れていいのだが大学祭と異なり学外の人を対象としたイベントが皆無なので、実際には附属校である皆月みなづき中学校・高等学校の生徒ぐらいしかやって来ない。その一方で皆月中高の生徒は数多く参加してくれるので例年いいお客さんとして扱われている。



 火祭の主な目的は4月~5月の新歓期間に各部活に入部した新入生の歓迎であり、このイベントは新歓期間の総まとめと位置付けられている。


 大学祭と異なり火祭の出店は基本的に1回生のみで運営し、2回生以上の学生はいくつかの新歓企画を運営しつつ出店の客として参加する。


 僕も昨年の6月は剣道部の新入部員として輝かしい毎日を送っていたので剣道部の出店(昨年はフランクフルト屋)では先頭に立って働いていた記憶がある。



 火祭はお客さんとして行く分には学部・学年を問わず参加していいのだが、1回生以外は出店の運営に関与できないこともあり高学年になると参加せずに済ませる人の方が多かった。


 また、1回生しか出店の運営に関与できないということは最低でも4名程度の1回生を確保できた部活しか出店を運営できないということを意味するので新入部員が少ない運動部やマイナーな文化部の関係者はそもそも参加しないのが一般的だった。


 2回生でも参加しない予定の人は多く、1回生の最後に剣道部を辞めた僕にはもはや出る意味が皆無なので今年は火祭の日は下宿でゆっくり休もうと考えていた。



「うちは陸上部の後輩に頼まれてお客さんとして行くねんけど、白神君と一緒に見て回りたいねん。その日空いてればでええんやけど駄目かな?」

「特に予定ないから別にいいけど、僕と回っても大して面白くないんじゃない? 誰か女友達誘ってみたら?」

「いや、うちは白神君と一緒がいいねん」

「そうなんだ。じゃあ僕も誰か誘おうかな……」


 そこまで話した所で僕は背中をつつく何かの感触に気づいた。


 振り返るとそこには長髪をヘアゴムで括って黒縁の眼鏡をかけたケの日モードの壬生川さんの姿があった。


「あれ、どうしたの壬生川さ」

「カナちゃんと二人で行きなさい」

「えっ?」


 彼女は静かな声で僕の発言を遮った。



「カナちゃんと、二人『だけ』で行きなさい。男友達誘うとか言ったらあんたとは絶交だから。分かった?」

「は、はい……」


 壬生川さんは微笑んでいるが目が笑っておらず、低い声でそう告げられると承諾するしかなかった。


 彼女はカナやんに何やら目配せするとそのまま教室後方へと立ち去り、僕は再びカナやんの方を向いた。


「えーと、じゃあ二人で回ろうか……」

「ありがと! また集合時間とか相談させてな」


 ニカっと笑って自分の席に戻った彼女を見て、僕は自分がどこかで地雷を踏もうとしていたらしいと理解した。

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