53 気分は文芸研究会
僕もそろそろ帰ろうと椅子から立ち上がった所で大学構内の医学書店に用事があることを思い出した。
2回生は1年間を通して何度も試験があるが、6月中旬からは現在授業が行われている生化学・生理学・分子生物学の試験がまとめて実施される。
医学部の授業は何らかの教科書に沿ってではなく自作のプリントを使って進める先生が多いので科目によっては指定教科書さえ存在しないが、分子生物学に関しては先生が参考書を指定しており巻末の問題集の一部が試験にも出題されると聞いていた。
剣道部にいた頃は先輩の参考書を譲り受けたりもできたのだが今は譲ってくれる先輩がいないし、その参考書が指定されたのは今年度からなのでどのみち自腹で買わなければならない。
値段はまだ知らないがなるべく安く済むことを祈りつつ僕は生理学教室を出て講義実習棟内の医学書店へと向かった。
(4000円か……)
意外と安かったなと思いつつ僕は平積みにされていた参考書の1冊をレジまで持っていった。
参考書1冊が4000円というと文系の大学に通っている友達には驚愕されるが、医学書は普通のものだと8000円前後、高いものだと2万円近くする場合もあるので4000円という価格設定は相当良心的だった。
理不尽な価格設定は医学生の足元を見ている訳ではなく、医学書は一般書籍と比べて購買層が非常に限られるため出版社にしてみれば1冊当たりの価格を高くしないと元が取れないらしい。
基礎医学の教科書や参考書と異なり臨床医学の参考書には医学生のほぼ全員に加えて一部の研修医や医療スタッフにも用いられている人気のシリーズがあり、そういった書籍では1冊の価格を3000円程度に抑えられているという。
基礎医学の書籍もそうなればいいのだが、CBTや医師国家試験という明確な目標のために編集できる臨床医学の参考書と異なり基礎医学の教科書や参考書は出版社によって編集方針がまるで違うのでなかなか定番のシリーズは作れないらしい。
「お買い上げありがとうございます。お支払いは現金ですか?」
「はい、それでお願いします」
「分かりました。1割引きにさせて頂きますね」
若い女性の書店員さんはそう言うと僕が手渡した参考書のバーコードを読み取った。
医学部との結びつきが強いだけあってか売っている書籍は学生が現金で購入する場合は1割引きになり、関数電卓や聴診器といった講義・実習で用いる物品も神崎書店を通じて割安で購入できるようになっていた。
僕がカバンから財布を出そうとした瞬間、店の奥にある固定電話が鳴り響いた。
「あっ、すみません。少々お待ちくださいね」
書店員さんが電話を取りに奥へと引っ込んだので僕はしばらく手持ち無沙汰になった。
レジの前でふと後方を振り向くとそこには小さな白いテーブルが置かれていて、正方形を取り囲むように4脚の椅子が配置されていた。
テーブルの上では医学書の新刊案内のパンフレットがスタンドに並べられていて、その横には同じようなスタンドにA5サイズの冊子が並べられていた。
普段は背景としてスルーしている冊子だが、何が書いてあるのだろうと気になって僕は椅子の一つに軽く腰を下ろした。
手に取った桜色の冊子の表紙には大きなフォントで「
表紙の下部には小さめのフォントで「畿内医科大学 文芸研究会」と印字されており、そういえばこんな文化部があったなと思い出した。
畿内医大では伝統的に運動部の活動が活発だが文化部も数多く存在しており、運動部との兼部はもちろん文化部にしか入っていない学生も例年少なくない。
メジャーな文化部としては軽音楽部、ダンス部、東洋医学研究会、美術部、吹奏楽部、グリー部といったものがあり、こういった部活の中には医学部6学年と看護学部4学年を合計して60名以上もの部員を抱えている所もある。
その一方、マイナーな文化部としては写真部、華道部、茶道部、演劇部、ESSなどがあり、部員数が30名を下回っていたり部員不足で2回生や5回生が主将を務めていたりするらしい。
文芸研究会は映像研究会と並び文化部の中で最もマイナーな部活の一つで、大学の公認クラブであるはずなのだが普段何をやっているのかもろくに知られていない。
部誌を刊行していることは知っていたが僕の知人に文芸研究会に入っている人は一人もいないので、僕自身もどういう部活なのかさっぱり分かっていなかった。
適当に冊子を開くと最初のページには目次があって、作者名・ページ番号を併記して小説らしきタイトルが6つ並べられていた。
その下には「2019年度の活動に向けて」という表題で主将の挨拶文が記されていて、僕は短い文章に目を通した。
~
新入生の皆様、ご入学おめでとうございます。
昨年度に引き続き文芸研究会の主将を務めます、物部微人と申します。
文芸研究会は本学において唯一の文芸系クラブで、部員が執筆した小説やエッセイ等を部誌にまとめて定期刊行するのが主な活動です。
創作に興味のある方、読書が好きな方、負担の少ない兼部先を探している方。文芸研究会は定期部費無料で、出席を強制する活動も一切ありません。
少しでも興味を持ってくださった方は本冊子の裏表紙にある連絡先よりぜひご相談ください。
今年度も文芸研究会をどうぞよろしくお願い致します。
文芸研究会主将
~
「もののべ、まれひと……?」
主将の名前には聞き覚えがあった。
何かの機会にヤミ子先輩から聞いたのだが、3回生の物部先輩は微生物学教室所属の研究医養成コース生だという。
マレーというあだ名以外は何も知らなかったがこの冊子によると昨年度から文芸研究会の主将を務めていたらしい。
「よう、君。文芸研究会に興味があるのかな?」
「うわっ!」
目次を眺めて記憶を辿っていると後方から突然誰かに話しかけられた。
振り向くとそこに立っていたのは身長が180cm近くありそうな男性で、体型は太くも細くもないが半袖のシャツから伸びる腕は貧弱な印象だった。
顔は十人並みという感じだが身だしなみには気を遣っていないのか短い黒髪は中途半端なカットをされていて、無精髭も薄く見えていた。
「ああ、驚かせてすまない。俺は文芸研究会の主将をやっている3回生の物部。君は1回生かな?」
何となく予想していたが、相手はやはり物部先輩だった。
「いえ、2回生の白神塔也です。あの、微生物学教室のマレー先輩ですか?」
「そうだけど、なぜそのあだ名を知って……ん、君、白神君って言ったか? 2回生から研究医養成コースに転入したっていう」
「そうです! いつかお会いしたいと思ってました。山井先輩から話は聞いてます」
そこまで言うと僕は椅子から立ち上がって先輩に頭を下げた。
「そうか、君が例の白神君か。俺もヤミ子君や剖良君、ヤッ君から話を聞いてるよ。7月には微生物学教室の基本コース研修で君を指導するのに挨拶が遅くなってしまって申し訳ない」
「いえいえ、偶然でもお会いできて良かったです」
物部先輩は軽く頷くと僕に右手で握手を求めた。
差し出された手を軽く握り返し、この人は頼りになりそうだと僕は直感した。
「物部先輩って文芸研究会の主将をされてたんですね。僕も今さっき初めて知りました」
「2回生にはほとんど知り合いがいないからそれぐらいの知名度だろうな。何せうちの部活は医学部の2回生が現在0名だ。昨年度は新歓が上手くいかなくてな……」
先輩はそう言ってがっくりと肩を落とした。
「今日は神崎書店に常設して頂いている部誌を補充しに来ただけだが最近は新歓活動に取り組んでて、6月の下旬には文芸研究会の新歓飲み会も予定している。いきなり勧誘するのもあれだが、2回生からでも問題なく入れるし部費も無料だから白神君も良かったら入部してみてくれ」
「いいですね。色々あって今は帰宅部で、部費が安く済む文化部を探してたのでぜひ検討させて頂きたいです」
「本当か!? どのみち7月には交換することになるし、良かったら今から連絡先を交換してくれないか? もちろん文芸研究会に入るかどうかは後で決めてくれればいいぞ」
物部先輩が若干興奮した様子でそう提案したので僕は全然OKですと返事をして、お互いに連絡先を交換した。
それから先輩は部誌を5冊ほどスタンドに補充すると再び僕の方を向いて、
「来週以降希望者を対象に部室で活動内容の説明会を開く予定だから、また都合のいいスケジュールを相談させてくれ。そこにある部誌は持ち帰り自由だから読んでくれると嬉しい。また会おう!」
一息にそう言ってから店内を出ていった。この後何か予定があったのかも知れない。
「ごめんなさーい、電話が長引いちゃって。マレー君とお話してたんですか?」
用事が終わったらしい書店員さんが奥の方から戻ってきた。
「はい。以前から噂は聞いてたんですけどとても感じのいい先輩でした。僕は2回生ですけど文芸研究会にも誘われました」
「マレー君はちょっと変なキャラクターというかオタク男子だけど、後輩には優しいですよ。文芸研究会では部員集めに苦労してるらしいけどそれでも頑張って活動してて、私たちも応援してあげたくてこちらのスペースを提供してるんです」
「なるほど、僕もまた説明会に行ってみます」
それからレジで税込4400円から1割引きで3960円を支払って僕も神崎書店を後にした。
最近は色々トラブルに遭遇して大変だったが、そのうちにまた学生らしく部活を楽しめるようになればいいなと思った。
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