21 気分は批判的情報処理

 オリエンテーションの終了後、林君がカラオケでも行かないかと誘ってくれたが直後に用事があると伝えてやむなく断った。



 講堂前で林君と別れて研究棟4階へと階段で上がると生化学教室の教授室はすぐに見つかった。


 どの教室でも准教授以下の教員は一つの部屋をパーティションで区切って用いているが教授は専用の部屋を与えられている。


 ドアを3回ノックして失礼しますと呼びかけると返事があったので、僕はそのまま教授室に入った。



 成宮教授は会社の重役が使っていそうな豪華な椅子に腰かけて新聞を読んでいた。


 机上には世読せよみ新聞に日出ひので新聞といった各種の全国紙に加えて医学会の新聞に教育業界の新聞、さらにはどこかの高校の校内新聞まで置いてあった。



「新2回生の白神塔也です。研究医養成コースの研修について説明を受けに来ました」


 短く名乗ると成宮教授は目を落としていた新聞から目を上げ、



「君が白神君か。2回生からわざわざコースを変えたというからどんな奴かと思ったが、中々いい眼をしている」


 と言ってニヤリと笑った。



「……? えーと、ありがとうございます」


 紀伊教授しかり、基礎医学の教授にはどこか変な人でないとなれないのかもしれない。



「僕は生化学教室教授の成宮亮二。畿内医大の出身だから君らの先輩ということになる。若く見られやすいが、これでも今年で57歳だ」

「えっ、そうなんですか?」


 先ほどの全体オリエンテーションには准教授の先生が来ていたので成宮教授の姿を見るのはこれが初めてだが、40代後半ぐらいにしか見えなかったので驚いていた。



「僕の生涯の伴侶は生化学研究だが、マラソンとジャーナリズムに浮気することも多い。両立できないものでもないから一夫多妻制といったところかな」

「はあ……」


 反応に困る。



「基本コースでは生化学らしくPCRだとか電気泳動だとかクロマトグラフィーだとか色々な実験技法について教えるけど、具体的なやり方の指導はカナやんに任せようと思う。僕からは時間を見つけて研究者に求められる批判的な情報処理能力を養うための指導をしたいと思っている」

「批判的な……と言うと?」


 意味を尋ねると、成宮教授はここで言う批判とは非難という意味ではなく「情報を鵜呑みにせず真偽を判断する」という意味だと説明した。



 研究者として何かを成し遂げたいならば読んだ論文の内容はもちろん時には教科書の記述さえも疑ってかかる姿勢が重要だという。


 インターネット上の情報は言われなくても批判的に処理できる人も多いが、教科書や医学論文として示された内容はそれだけで正しく感じてしまいがちだから僕も成宮教授の考えには強く共感できた。



「僕からは今日は特に話すこともないから後はカナやんに任せようと思う。ただ、彼女は14時まで陸上部の新年度集会に行っているからそれまで待って貰わないといけない」

「なるほど。今から3時間ぐらいありますね」


 腕時計を見ると11時を少し過ぎた所だったのでそれまでは僕もやることがない。



「白神君も何か用事があれば一旦帰ってくれていいし、陸上部を覗きに行ってそのままカナやんを連れてきてくれてもいい。特にやることがないなら……」


 成宮教授は不気味な笑いを浮かべてそう言うと机上の全国紙をいくつか拾い上げて、



「日本の全国紙の特徴について簡単に説明してあげよう。まずは左派系新聞である日出新聞と全日ぜんにち新聞の主張の差異から……」


 と語り始めた。



「ちょっと用事があるので、一旦下宿に帰ってから陸上部も見てきます!」


 と早口に伝えると僕はそのまま教授室を出た。


 オタクの力説に付き合うよりは早めにカナやんと合流したい。



 基礎医学教室のノリにも慣れてきたと思っていたが、よくよく考えると現時点では6教室ある内の2つしか知らない。


 この4月の基本コース研修が上手くいくかどうかは僕の努力にかかっているが、カナやんと上手く付き合っていけるかもそれ以上に重要になるような気がした。

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