3 気分は早とちり
2019年3月8日、金曜日。時刻は16時55分。
研究医養成コースのオリエンテーションを受けるために春休み中の大学にやって来た僕は、集合時刻の少し前に研究棟3階にたどり着いた。
研究棟は畿内医科大学本部キャンパスの一画にある巨大なビルで、地下1階から12階まで様々な教養科目・基礎医学・臨床医学の教室並びに研究室が設置されている。
1回生の間は教養科目の教室にレポートを再提出しに行くぐらいしか用がないので、僕自身ここに来るのは久しぶりだった。
ミーティングルームは3階の長い廊下の真ん中辺りにあった。
この部屋に入るのも初めてだし、どういう用途の空間なのかもよく知らない。
腕時計を見ると、時刻はちょうど16時58分だった。
適当なタイミングと判断した僕は部屋のドアを3回ノックした。
少しの間を置いて聞こえてきたのは、
「どうぞー」
という若い女性の声だった。
中に受付の人でもいるのだろうかと考えつつ、僕はドアを開いた。
ミーティングルームはそれほど広くない会社の会議室のような雰囲気の内装で、大量の机が四角形を形成していた。
普通の長机を複数連結させて円卓のように用いているのだろう。
見たところ円卓(と呼ぶことにする)には誰の姿もなかったが向こう側の部屋の隅には大きめのデスクが置かれていて、そこに人影を見つけた。
デスクの中央には光学顕微鏡らしきものが置かれていて、誰かが椅子に腰かけてプレパラートを観察している。
「どうぞー」
女性は顕微鏡から顔を離さず、入室してきた僕にそう繰り返した。
近くまで来いという意味だろうと判断し、僕はデスクの近くまで歩み寄った。
オフホワイトのカーディガンを着た女の子の髪型はふんわりとしたボブカットで、ようやく顕微鏡から顔を離すと、
「はじめまして。君が白神塔也君?」
と尋ねた。
優しそうな雰囲気だという印象や年齢的におそらく医学部の学生だろうという推測は置いておいて、率直に言ってかわいいと思った。
「そうです。研究医養成コースのオリエンテーションを受けにきたんですけど……」
コースの責任者が説明するというのでどこかの先生が来ると思っていたが、目の前の女の子はどう見ても学生だ。
「私もそう聞いてる。本来なら
術中迅速って何だろう? と考える間もなく女の子は続けた。
「自己紹介がまだだったね。私は
山井さんと名乗った女の子はやはり一学年上の先輩だった。
医学部医学科は二年も三年も浪人して入学してくる学生が少なくないので、学年が一つや二つ上でも年上ではないということがよくある。
「血液型はAB型、この大学には一浪で入って、出身は兵庫県西宮市、趣味は音楽鑑賞、所属は病理学教室。あ、私のことはヤミ子って呼んでいいよ」
山井先輩はそのまま個人情報をぺらぺらと喋り、最後によく分からないあだ名を教えてくれた。
どうでもいい情報と大事そうな情報が混在しているが同い年なのと病理学教室所属というのは重要になりそうだ。
「よろしくお願いします。えーと、山井先輩」
「ヤミ子でいいよ」
「え? じゃあ、ヤミ子先輩……」
初対面でいきなりあだ名というのもどうかと思ったが相手の希望に合わせるしかない。
あだ名の由来は分からないが、ひょっとすると山井=
ヤミ子先輩は光学顕微鏡を操作してプレパラートをステージから取り除くと光源の電源を切った。
それから僕を円卓の一角に座らせ、自身も荷物を持って隣の椅子に座った。
先輩はカバンからA4サイズの封筒を取り出すと僕に渡し、中身を見るように言った。
中には何種類かの書類が入っていて、最も分厚い書類には、
>研究医養成コース 2年次転入生の手引き
と書かれていた。
「見れば分かると思うけど、これは今日からの白神君の生活にとって大事な書類。失くさないように保管しといてね」
「はい、もちろんです」
医学部では平成末期になっても紙ベースの連絡が珍しくなく、こういった書類は一度失くすと再発行されないことも多い。
「じゃあ今からオリエンテーションを始めるね。まず、研究医養成コースの学生に課せられる義務についてだけど……」
ヤミ子先輩は手引書の冒頭のページを示しつつ、僕に卒後の義務と注意事項について改めて説明した。
このコースでは卒業までの学費の約半額が免除される代わりに、卒後10年間はこの大学に残って基礎医学系の教員として働く必要がある。
学費減免が解除される条件も複数存在し、研究医養成コースを自ら辞退した場合に加えて成績不振によって留年した場合や医師国家試験に何度も不合格になった場合、不祥事により懲戒処分を受けたり退学になったりした場合がそれに該当する。
その場合は卒後の義務もなくなるが、それまで減免されていた学費を即座に一括で返金する必要があるという。
通常の学費が払えなくてこのコースに移った以上、途中で全額返金などということになれば卒業以前に実家の家計が破綻してしまう。
真面目に勉強するのはもちろん何かしらの不祥事を起こすことは絶対に避けようと決意した。
「私も同じ立場だからって訳じゃないけど、自分からこのコースに応募するような人は基本的に真面目だから留年や国試浪人はそこまで心配しなくてもいいと思う。不祥事については当事者になってみないと重大さが分からないこともあるから、それだけは気を付けてね」
「分かりました。今後も注意します」
最近では大学生が不祥事で世間を騒がせることも珍しくなく、それに関しては医学生も例外ではない。
特に1学年が100人ぐらいしかいない医学部医学科という世界では学生も教員も世間に疎くなりがちで、内輪では許される行為も世間からは批判を受ける場合があるということは入学時のオリエンテーションで教わっていた。
「卒後の義務と注意事項はこれぐらい。ちょっと細かい話もあったけど、特に問題ないよね」
「ええ、よく分かりました」
ヤミ子先輩からの説明は思ったより手短で、これなら手引書を自分で読んでも分かったかも知れないと少し思った。
「今日はこれで終わりですか?」
と尋ねると、先輩は驚いた様子で、
「えっ、何言ってるの?」
と聞き返した。
「あ、すみません。まだ説明が残ってるんですよね」
頭を下げてそう言うと、先輩は不思議そうな表情で、
「残ってるというか、ここからが本題なんだけど……」
と呟いた。
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