第3話「喪失・3」

「にげる、にげる……」


 暗闇に覆われた深夜の寒村。

 人々だけでなく、草木まで寝静まったような静けさが広がっている。

 その中から聞こえる、念仏のような呟き。

 音のない静寂にあるからこそ、小さな声はよく響く。

 あたかも、その呟きしかない虚ろな世界に独り取り残されてしまったと、錯覚してしまう程に。

 

 ”百万亭”で泣き叫び、涙の一滴までも流しきった宗二は、手と顔にこびり付いた乾いた血と鼻水もそのままに、心労で疲れ果てた重怠い体を引き摺って店を出た。

 といっても、具体的にこれから何をするべきかはわからない。

 それ故、一先ずは自宅に戻ろうと惰性で道を歩き始めた。


「にげる、にげる……」


 腕を力なくぶらんと放り出し、覚束ない足取りでふらつきながら歩を進める宗二。

 その胸の中も頭の中も、きっと魂までも空っぽだ。

 空っぽで何もなくて空虚だ。

 だからこそ、唯一残った微かなものがよく響く。


『宗二、逃げて……そして生きて。逃げて逃げて、フォーティスの居ない場所……例えばサピエンスの国に……辿り着けば、きっとそこでは、差別もされない』


 この胸に刻まれた母の言葉。

 そうだ。

 逃げなければ。

 何処か遠い場所まで、逃げて逃げて逃げ続けなければ。

 宗二の中にはそれだけしか残っていなかった。

 その虚しさに、自身にとって母が如何に大切な存在だったかを改めて理解する。


 宗二にとって、母は最後にして唯一の指針だった。

 父を失い、戦争に負け村がフォーティス領となったことで自由を失い、学校から追放されて学を失い。

 失って失って、それまで在ったはずの様々な”道”が姿を消した。

 残った人生の指針は、失わずに済んだ母だけだった。

 母との生活を少しでも楽にしようと農作業を手伝い始め、翌年からは冬の間も別の仕事を宛てがってもらった。

 思春期になり、母と過ごすことが小っ恥ずかしく感じられてからは少し距離が離れてしまったが、それでもやはり母は何よりも大事で、何にも代え難い人だった。

 だからそれが失われた今、心に穴が空いたような虚しさが彼の全て。

 代わりに穴を埋めてくれる存在などない。

 母以外には、何も持ち合わせていなかったのだから。


「にげる、にげる……」


 指針を失った今、宗二は路頭に迷った。

 力の入らない自らの骸を引き摺って、ゾンビのように夜暗を進む。

 街灯の一つもなく、数メートル先も見通せないこの暗闇は、まるで宗二の先行きのようだ。

 ふと気になって、後ろを顧みる。

 随分と離れてしまった、唯一未だに明かりが灯されている”百万亭”。

 そこにはまだ母の遺体が残っているだろうが、宗二にはどうしようもない。

 大方母の遺体は村のフォーティスが内密に処理するだろう。

 以前にも幾度か似たようなこと――フォーティスによるサピエンス殺人事件があったが、いずれも犯人は逮捕されなかった。

 何故なら、フォーティスがサピエンスに対して危害を加えた類の事件は尽く事実が隠蔽され、表向きは事故として処理されるからだ。

 御多分に漏れず、母の件も表沙汰にはされないだろう。

 だから、宗二にはどうしようもない。

 母を殺した者共が法的に裁かれることはないし、母の遺体をどうすることも出来ない。


「はぁ……」と溜息が零れ、再び先の見通せない前に向き直る。

 なんだかもう疲れてしまった。

 泣くのも歩くのも考えるのも疲れてしまった。

 空っぽであるはずなのに酷く重苦しい体に押し潰されるように、その場で崩れ落ちる。

 道の真ん中。冷たいコンクリートに尻餅をつき、膝を抱えて、首をガックリと落とす。

 風のない寒夜にぽつりと蹲る少年。

 息を吐くたびに真っ暗な視界に白が浮かび上がり、しかしすぐに闇へと溶けて消えていく。

 それの繰り返し。

 そのまま暫く、無為に爪先とコンクリートに浮かぶもやを眺めていた気がする。

 蹲って自分の世界に閉じ籠もり、動かず考えず漫然と過ごしていた。

 それからどれ程時間が経っただろうか。

 いつしか意識は只管に、胸の中を占める虚空へと。

 海より暗く深いのに、母の言葉以外に何も見えず聞こえず感じられない場所を、行く宛もなく彷徨っていた。

 内に没頭し、外に意識を露程も向けていなかったためか、その時近付いてくる靴音に気付かなかった。


「こんなところでどうしたの? 宗二くん」

「――あぃッ!」

 

 驚きでビクッと肩を跳ねさせてしまった。

 背後から掛けられた聞き慣れた男声に振り向くと、そこには女性がいた。

 屈み込んで宗二に目線を合わせ、胸の辺りまで持ち上げたランタンに顔を照らされた彼女――いや女性風の彼は、駿だ。

 その可愛らしい垂れ目の眦を更に下げる彼の口調に責める色はなく、純粋に心配しているといった風情だ。

 ランタンに照らされ、暗闇に浮かぶ彼が文字通り闇夜の灯火に見え、呆けて見惚れてしまっていると、


「もう夜中だよ? どうしたの?」

「あっ、いや」

「早く帰らないと、お母さんきっと心配してるよ?」

「あッ、母、さん……」


 心配そうな優しい口調で帰宅を促されたが、母という単語が仇となった。

 突如として血相を変え、顔面蒼白になった宗二に、駿も只事ではないことに気がついたようだ。

 引いた顎を軽く撫で、真っ直ぐな眼差しを送る。


「何があったのか、話してくれる?」


 駿には昔からよく相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いてもらっていた。

 だから経験を基に信頼していたし、今日のことも彼なら何とかしてくれるかもしれない。

 姿勢を改めた駿に頼まれた宗二はそれ以上は考えず一も二もなく首肯した。





「そんなことが……」


 ランプを挟む形で二人が向かい合うと、宗二はぽつりぽつりと今夜の出来事を話し出した。

 母が帰らなかったこと、不審に思って探しに出たこと、”百万亭”でのことのあらまし。

 宗二の中でも整理がついていないためしどろもどろな語り口だったが、彼の目から見えたことを粗方話した。

 夢中で話し込んでいたため、終始駿の顔色を窺っていた訳ではない。

 ただ、フォーティスのやり口に思うところがあったのだろう、聞き終えた彼は苦々しげに奥歯を噛み締めていた。


「――――」


 二人共押し黙ったことで、暫し冷えた空白が転がり込む。

 しかし、人に相談すれば心が軽くなるとはよく言ったものだ。

 自らの胸中を吐露したお陰か、沈黙をあまり苦しいとは感じなかった。

 特に何が変わった訳でもない。

 胸に穴が空いたような喪失感は変わらずあり、”百万亭”でのことを顧みた所為か憎悪も悲しみも再燃して心を炙ったような痛みを感じる。

 やはり何が解決した訳でも心が晴れた訳でもない。

 それでもほんの少しだけ重苦しさが紛れた気がする。


「これからどうするの?」


 立ち込めた沈黙を破って、駿が突然そんなことを尋ねてきた。


「一先ず、家に帰りますけど」

「そういうことじゃあない。もっと先の話」

「ああ――」


 成程。その質問は突然などではなかった。

 宗二は今や身寄りのない一人の未成年。

 彼一人分の給料では今の家賃は払えないし、だからといってサピエンスの子供を安値で泊めてくれる場所などここには存在しない。

 それ故これからどうするか、つまり何処でどのように生活していくかは早い内に見当を付けねばならない事柄だ。

 その質問は当然の帰結であった。

 

「逃げようかなって、思ってます。何処か、フォーティスのいない遠い場所まで、例えば南政府とか……」


 これからどうするか。

 自分自身に問いただすも、自らの内に見つかったのは母の遺した微かな願い――何処か遠くに逃げることだけだった。


「そう? でもどうやって? 南政府との国境沿いは警備兵だらけだって宗二くんも知ってるでしょ? 普通には入れないよ」

「はい、知ってますが……」


 駿の言う通りだ。

 戦後、南政府から領土を割譲した北政府は、その地域からのサピエンスの脱出――つまり人口の流出を危惧し、国境付近にそれを見張る警備兵を多数配置した。

 元より、北政府と南政府は国交を断絶しており、モノ・カネ・ヒトの行き来は基本的に不可能。

 そのため、割譲されたことで北政府領となった地域に住むサピエンス――まさに宗二のことだが、彼らは戻りたくとも一般的な手段では北政府を脱して南政府に戻ることは出来ないのだ。

 そう、あくまで一般的な手段では。

 

「……あの! 駿さんって、何かの商売をしてるって言ってましたよね! 何の商売してるんですか?」

「体を売る仕事……かな?」

「え?」


 駿はぺろっと舌を出しておどけてみせる。

 だが、すぐに「ごめん冗談冗談」と硬い声色で言って、真剣な顔付きでこちらを見た。


「そもそも、なんで僕の商売の話?」

「いや、商売とか交易とかに携わってる駿さんなら、一般人の知らない密輸ルートみたいな、南政府に侵入できる裏口みたいなものを知ってたりするのかなって思って。流石に知ってたりは……」

「――するよ」

「え?」

「知ってたり、するよ?」

「え、えええ!? 本当に!?」

「だから、本当だってば。ふふっ」


 もしかしたら程度の確信で尋ねたが、まさかここまであっさり認められるとは思ってもみなくて、間抜けな反応をしてしまった。


「じゃあ、あの! 流石に無理なお願いなのはわかってるんですけど……。逃げるの、手伝ってくれません、か……?」


 飛び付くように勢いよく切り出し、しかし言葉尻に近づくに連れて段々と気勢がすぼんでいく。

 最後には自信なさげに顔を伏せるという、何とも情けない聞き方になってしまった。

 それも仕方ないだろう。

 頼んだのは母の遺言の遂行――北政府領からの脱出。

 幇助ほうじょしただけでも立派な犯罪であり、善意だけで手助けするような軽い事柄ではない。

 だから幾ら何でも、断られると踏んでいたが――、


「僕が宗二くんをここから出してあげる」

「本当に、いいんですか……?」

「うん」


 だが駿はまたもやあっさりとそれを承諾する。

 正直、この快諾は本当に嬉しい。

 先の見えない暗闇に、出口を照らす道標を発見したような感覚に、陰気だった宗二の表情にも光が差し込む。

 柔らかに顔を綻ばせ、躊躇いなく頭を下げる。


「ありがとうございます! お願いします!!」


 すると、宗二の嬉々とした情が伝染したのか、駿は雰囲気に乗って「はいはーい!」と手を挙げながらおどけてみせる。


「任せてっ! これまでも何人か宗二くんみたいな人いて、初めてじゃないから安心してね~」

「よかった、そうなんですね」


 自身の他に逃亡を試みる人が居たと分かると不思議と安心し、そっと胸を撫で下ろした。

 怒涛の展開に、正直頭はまだ現状についていけておらず、いまいち実感は湧かない。

 けれども、これで北政府から逃げる算段は立ち、先行きは透明になった。

 後顧の憂いがなくなるのはそれだけで一安心というものだ。

 ほんの少しだけ余裕の生まれた心に、駿の優しさが酷くよく沁みる。

 空虚で真っ暗で寒くて、右も左も分からず、過去も今も未来も見えない。

 そんなまるで宇宙に一人放り出されたような感覚に流れ込む、温かさに満ちた灯火。


「じゃあ、細かい事決めないとね、ここは寒いから何処か暖かいところ行こっか!」


 駿は立ち上がり、宗二の手を引いて進み出す。

 親に連れられる子供のように手を引かれながら、後光差す神々しい駿の背中を眺め、宗二は人知れず思う。


 母までもを失った自分は完全に空っぽで、何も持ち合わせていないと思っていた。

 でもそうではなかった。

 手を差し伸べてくれる人がいて、それが駿さんで。

 その手を温かいと感じられて。

 確かに未だ心には喪失感も憎悪もある。

 いや、あるという表現では軽すぎる。

 今もこの胸の内の殆どを、冷たすぎて痛いと感じる程の虚しさと憎しみが占めている。

 その整理は付いていないし、そもそもどうやって向き合えばいいかすらわからない。

 でも駿さんに導かれるまま進めばきっと大丈夫だろう。

 今はそう思える。

 母さん。

 取り敢えず逃げてサピエンスの国までは行けそうだ。

 そこでどうするかはまだわからないけど、きっと差別もされないし平和に暮らせると思う。

 もちろん喧嘩もしない。

 母さんの言った通り、幸せに生きるから。


 改めて駿さんには感謝してもしきれない。

 暗闇に独り迷い込んだ俺の希望の光になってくれて。

 空っぽで冷え切った俺に温かさを注いでくれて。

 駿さんが良いフォーティスで、よかっ……、た?



 あれ?


 







 良い、フォーティス……?









 そう思った時には既に遅かった。

 宗二の中に浮かんだ懐疑の念を最も早く感じ取ったのは、駿だったからだ。


「――ッ!!」


 声を出そうとし、しかし同時に口に布を押し付けられたことで声が出ない。

 いつの間にか駿は正面にはおらず、背後に回り込まれ、腕を捻られて固定されていた。

 宗二は只管身を捩って全力でもがくが、フォーティスの腕力で押さえられては口も腕もどうすることも出来ない。


「ん”ん”ん”!!」


 唸りながら力を振り絞るが、そこで違和感を覚えた。

 体にうまく力が入らないのだ。

 麻酔か。

 そう理解すると同時だった、急速に全身の筋肉がぐたっとした倦怠感に襲われる。

 視界がぐわんと歪み、思考が霧に覆われたように働かなくなる。

 立っているのも儘ならなくなり、液体に沈んでいくような、或いは浮いていくような奇妙な浮遊感の中。

 白ばんだ宗二の意識は、薄く薄くなって敢え無く消え去った。


「ちょっと、失敗しちゃったかな?」


 意識が途切れる直前、そんなおどけた調子の声が聞こえた気がした。


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