第1話「喪失・1」

 仄暗い冬の早朝。

 藍色の空が少しずつ明るみに溶けていく。

 時折風が吹いて、木から雪が落ちる。

 何処かで会話する鳥の鳴き声が、朝の訪れを伝える。

 何気ない朝。

 何気ない風景。

 うらぶれたアパートの前で雪掻きをする少年も、そんな何気ない風景の一部だ。


 サク、サクと、柔らかい新雪にスコップが刺さる。

 慣れた手付きで雪掻きをする少年――宗二は一頻り作業を終えると、一箇所に集めた雪にスコップを突き立てた。


「ふぅ……」


 スコップに軽く凭れ掛かり、吐息を付く。白い吐息は、ヒューと吹いた冷たい風に紛れて消えた。

 途端に、夜の帳が上がった。一帯に掛かっていた影が山の方に引いていって、代わるように眩しい光が差した。積もった新雪が、一斉に命を宿したように煌めいた。差し込む日差しに向かって顔を上げると、壮大な景色に思わず目が留まった。

 海面のように煌めく雪化粧した家々。そして、その奥、少し遠くに堂々と聳え立つ山脈。その最も高い山の尾根から太陽が顔を覗かせている。山際の空は白い光に染まり、山は陰になって真っ黒だ。

 光色と黒色、対比的な二つの世界の境界線から朝日が現れ、立ち上っていく光景はまさに壮観だ。


「――――」


 しかし、宗二にとってはこれも何気ない光景。

 珍しくも何ともないものに感慨を抱くはずもなく。

 彼は関心なさげに背を向けると、スコップを抜いて家へと帰っていった。


 あの景色を見ていた時、背筋に震えが走ったのは、きっと肌を撫でた冬風の冷たさの所為だろう。





「ただいまー」

「おかえり。今日も雪掻きありがとうね」

「いいよいいよ、母さん」


 家に戻ると、ちょうど母が朝食を運んでいるところだった。

 帰宅の挨拶を交わし、スコップを玄関に置いてジャケットを脱ぎ捨ててから母を追って居間へ向かう。


「ご飯出来てるから、沢山食べてね」

「うん、ありがとう。頂きます」


 母とこたつに向かい合って座り、母謹製の朝食――ご飯と卵焼き、根菜や芋で具沢山の味噌汁を乱暴に掻き込む。


「こら、そんな焦って食べない」

「……うるさいなぁ」


 母に行儀の悪い食べ方を優しく窘められたことに無性に腹が立ってしまい、ぞんざいな態度を取ってしまった。

 言われた母は物悲しげに目を伏せる。


 ああ、またやってしまった。

 昔は母の言葉を素直に受け取ることが出来たのに、最近は何かと癪に障って突っ掛かってしまう。

 ただこちらの身を憂慮しての発言だと、頭では理解しているのに。

 先の戦争で父を亡くしてから、母は女手一つでここまで宗二を育ててくれた。

 そのことに感謝しているし、母のことはむしろ好きでもある。

 なのに、どうしてこんな対応をしてしまうのか……。


「宗二、今度は全く箸が進んでなぁいよ」


 母の声で、自分が思案に浸かっていたことに気がついた。

 宗二は努めて口を噤み、再び朝食に手を付ける。

 ふと顔を上げた時、偶然母と目が合った。


 母は、雪のような人だ。

 白粉を塗ったように白い肌。腰まで流れる艶やかな黒髪。

 透き通るようなそれらは、見る者に不思議な感慨を抱かせる。

 亡き父は、事あるごとに母を”儚い”と形容していた。

 幼い頃はその意味がわからなかったが、今はわかる気がする。

 まるで雪のように、触れるだけで容易に溶けて消えてしまいそうな雰囲気を纏っているのだ。


「ごちそうさま、仕事行ってくるよ」


 考えている間に朝食を平らげ、それだけ告げて空食器を台所へ運ぶ。

 

「気をつけてね。喧嘩はしちゃ駄目だよ」


 遠ざかる背中に、毅然としながらも憂いを帯びた声を掛ける母。

 背を向けたまま、宗二は手だけを振って「わかってる」と伝える。

 そのまま玄関に向かう彼は、終ぞ振り返って母の顔を見ることはなかった。




 ◆




 夕方、太陽が木々の葉よりも低く落ちた頃。

 木枯らしが吹き付ける林道を、斧を肩に担いで歩く少年が二人いる。


 家を出た宗二は、仕事をしに村の裏にある林へと向かった。

 冬の間の彼の仕事は木の伐採だ。

 宗二の住む村は、四方を人工林と山に囲まれている。

 谷の部分に村があり、中心部を流れる川に沿って田畑が広がっている。

 春から秋にかけては母と共に田んぼで農作業を行うのだが、サピエンスへの農業収入の取り分は少なく、それだけでは生活していけない。

 そのため、田畑が雪に覆われる冬の間も、こうして宗二だけ他の仕事を宛てがってもらい生計を賄っているのだ。

 日中掛けて一通り作業を終えた彼は、今は村役場に仕事の成果報告に向かっているところだ。


「いやー、今日は隼人がペアでラッキーだったぜ」


 伐採作業は安全のため、基本的に二人一組で行われる。

 しかし、そのペアは毎朝村役場の職員が無作為に決定するため、誰と共に作業をするかを本人が選ぶことは出来ない。

 つまりは、相方はその日の運次第という訳だ。

 だから当然、サピエンスとフォーティスがペアになることもある。

 そのような日は心底最悪なのだが、僥倖なことに、今日の相方はサピエンスだった。

 宗二の嬉しそうな言葉は、そんな背景から生じた言葉だ。


「宗二、フォーティス様のいる前では絶対そういうこと言わないでね?」


 隣を歩くサピエンスの少年――隼人は、宗二の発言を真剣な様相で諫める。

 宗二より一つか二つ年下である隼人は、宗二と似通った境遇の少年だ。

 二人は同様に、サピエンスであることを理由に中学校への入学を学校側から拒否され、十代前半でありながら自ら金を稼いで生きていくことを余儀なくされた人だ。

 二人は出自が共通していることもあり、親友というほどではないが、それなりに仲のいい友達付き合いをしてきた。

 それ故、外聞の悪いことも気兼ねなく話せる間柄であった。


「ああ、言われないでもわかってる……って、噂をすれば」

「そう、だね」


 そこで会話を中断した二人が見据える先、林道の対面から厳つい男衆が闊歩してくる。

 左右の人工林。

 その木々の太い幹に比肩するほど厚く逞しい体躯の男が三人、居丈高に進む。

 村に住むホモ・フォーティスだ。

 宗二らは息を殺し、しかし違和感は抱かれぬように自然体で歩いてその場をやり過ごそうとする。

 国同士同様、個人同士でもサピエンスとフォーティス間の関係性は最悪だ。

 水と油、などでは生温い。

 いわば、混ぜるな危険の洗剤同士だ。

 交われば交わるほど問題が発生する。

 だから不毛な争いを避けるべく、初めから関わり合いにならないことが最善手。

 ……なのだが、そう都合よく物事が運ばないのが世の中というものだ。


「――あッ、ぶなっ」


 存在感を極力なくしつつ、何気なく横を通り過ぎようとした時、宗二の足に何かが引っ掛かった。

 言わずもがな、フォーティスに足を引っ掛けられたからだ。

 危うく転びそうになったが、隼人が咄嗟に支えてくれたお陰で無事に済んだ。


「ああ、居たんだなお前ら。小さすぎて気づかなかったよぉ」


 足を掛けたであろうとりわけ大柄な男は、白々しいにも程がある猿芝居でこちらをからかう。

 陳腐な嘲りに思わず腹が熱くなるのを感じたが、それを抑えるために一度深呼吸する。

 いちいち相手をする必要はない。

 吐いた息と共に熱も吐き出され、冷静さを取り戻した宗二はスッと顔を上げ、何事もなかったかのように再び進み出す。

 しかし、後ろから肩を掴まれたことですぐにその歩みは止まった。


「おいおい、止まれよお前ら。まさか俺らを無視するのか?」


 フォーティスの国では彼らの言うことは絶対だ。

 男に引き止められたことで、サピエンスである宗二らは止まらざるを得ない。


「よろしい……けど、最初は俺らのこと無視したよな?」


 途中で声が耳元まで近寄り、一段低くなったことで、隼人の体が硬直したのがわかる。


「その罰だ。こっち向いて土下座して、そんで地面に頭擦り付けろ。出来るよな?」


 当然、この脅迫めいた指示にも従わねばならない。

 二人はカクカクと壊れた人形を思わせる動作で向き直り、斧を置いて男衆の足元に跪く。

 土下座の体勢を作り、地面に額が擦れそうな位置まで頭を垂れた。

 必死に笑いを堪えているのだろう。

 息が漏れるようなクスクスとした笑い声が降り注ぐ。

 二人が命令に応じたことがお気に召したようで、男はにんまりと歪めた口を開いた。


「そうだそうだ。お前ら”女狐”はそうやって無様に地面に這い蹲ってるのがお似合いだよ、なあ?」


 そう言った男は、無防備な宗二の後頭部に足を乗せ、容赦なく踏み付ける。

 押さえつけられた頭はグリグリと地面に擦り付けられ、額に幾つも小石が食い込んだ。

 惨めな格好で土と戯れる宗二が苦々しく奥歯を食い縛ったのは、額に走る頭蓋が割れそうな痛みの所為だけではない。


「ゔゔぅ……」


 漏れる苦悶の唸りに、三人衆は互いに顔を合わせると、笑いを堪えきれないとばかりに吹き出しゲラゲラと汚い声で笑い合う。


「おいチビ二人! 地面舐めながら『無視してごめんなさい』って謝れ!」


 笑いが醒めぬ内に、次の指示を勢い任せに告げる。

 降って湧いた笑い者を心ゆくまで嬲り続ける腹積もりなのだ。

「ほぉら、地面舐めろ!」と男は踏み付けていた足を上げ、宗二が地面を舐められるようにする。

 ところが、自由を得た宗二は彼らの思い通りには動かなかった。

 宗二はおもむろに立ち上がったのだ。


「おいおい! こいつ急に立ちやがったぞ! ……って、あ?」


 宗二の突然の行動に笑いは爆発し、しかし、彼の表情を見たことで緩かった空気がピンと張り詰めた。


 顔を上げた宗二は伐採用の斧を片手に、煮詰まった憤怒を隠そうともしない鋭い眼光で男衆を射抜いていたのだ。


「……”女狐”の分際でそんな態度が許されると思ってるのか?」


 脅すような重い口調の男の言葉で、更に緊張する林道の空気。

 肌を刺す空気の冷たさを痛いと感じたのは、きっと冬の寒さの所為だけではないだろう。


「耳付いてないのか? 土下座しろ土下座」


 居丈高な男の煽りに、斧を握る手の力がギリッと強まる。

 憤怒が今にも堰を切りそうなことに気付いた隼人が、「素直に土下座しよう」と彼の腕を引くが、怒り心頭の彼を止められるはずもなく手は乱暴に振り払われる。

 宗二は力強く一歩踏み出し、二人の距離が狭まったことで、彼らの身長差が顕著に見て取れるようになった。


「謝るのはそっちだろうが。人の頭踏み付けやがって」

「ああ?」


 おそらく同年代だろうに、実に頭一つ分以上高くに位置する男の顔を、宗二は忌々しげに見上げて反抗する。

 対する男は、その太い首をゴキリと鳴らしながら文字通り見下す。


「――――」


 風が止み、林道から、林から音が消える。

 無音の中、抜き身の刃物を思わせる冷たく鋭い眼光で睨み合う大小二人の男。

 正しく一触即発。

 隼人は不安げに身を縮めて、男の連れ二人は憎々しい笑顔を浮かべて、事の成り行きを見守る。

 そして、限界まで張り詰めた空気がプチンとはち切れて、そのまま事が起こる……はずだった。


「――はいはーい、君たち喧嘩はダメダメッ」


 いけしゃあしゃあと間の抜けた声が割って入らなければ。

 先程までの緊張感が嘘だったかのように空気は弛緩し、睨み合っていた二人は声の方向に間の抜けた顔を向ける。

 二人共邪魔されたことに怒りを覚えなかったのは、その声に聞き馴染みがあったからだ。


 仄暗い脇の林から気配もなく、ランタンを手に現れた声の主は、一見すると女性のフォーティスに見える。

 肩まで伸びる柔らかな黒髪。中性的で端麗な顔立ちに、少し眦の下がった二重の目が可愛らしい。

 宗二より若干高い、曲線を帯びたしなやかな肢体も相まって、容姿だけ見れば女性にしか見えない。

 しかし、声を聞けばその考えは覆る。

 おどけたような、或いは何処か芝居じみた喋り方をするが、声質は完全に男性。

 実際、性別も紛うことなき男性だ。

 彼の名は東屋あずまや駿しゅん

 フォーティスでありながら、サピエンスに対しても分け隔てなく接する稀有な人物だ。

 そういった人柄もあり、彼は宗二にとって唯一の、気心が知れた仲のフォーティスだったりもする。


「こらこら、二人共離れるっ!」


 彼は「いっけないんだ!」と、怒るぶりっ子のようにこちらを指差し、しかし声はちゃんと男声で叱る。

 すると、大男は宗二を複雑な目で一瞥し、渋々といった様子で引き下がる。


「よしよし。喧嘩はもうしちゃ駄目だからね? わかった?」

「でもな――」

「”でも”じゃない。早く帰らないと今日のこと君のお父さんに話すよ?」

「……チェッ。しゃあねぇな」


 傍に近寄りながら念を押す駿に男は食い下がろうとするが、何か弱みを握られているようで、悪態をつきながらも存外すんなりと踵を返した。

 ドスドスと足音を立てて歩く彼の後を従者二人が静かに追い、やがて彼らの背中は薄暗闇に紛れた。


「ふぅ」と、危機が去って緊張の抜けた隼人は安堵の吐息を付く。

 それを尻目に、駿は立ち尽くす宗二の隣にピタッと並んだ。


「大丈夫? 怪我はない?」

「はい、お陰様で。助けて下さりありがとうございます」


 殊更明るい調子で聞かれると、宗二は目を伏せて些か素っ気なく答える。

 それが気に掛かったようで、駿は珍しく声のトーンを落とし、俄然真面目な雰囲気で問うてきた。


「やっぱり少し不満?」

「まあ正直、はい。心からムカついたから、あいつの顔面一発殴ってやりたかった。でも、喧嘩しても……」

「勝てなかった?」

「――――」


 図星を指され、宗二は弾かれたように顔を上げるが、反論の言葉は出て来ずに口籠る。

 駿の指摘した通りだ。

 募った怒りをぶつけることで発散はしたかったが、喧嘩になったとしてもフォーティスであるあの男相手では勝ち目がない。

 だから、そうなる前に助け船を出してくれたことには感謝している。

 感謝はしているが、それでもやはり溜まった鬱憤が消えてなくなる訳ではなく、ムカムカとしたやり切れなさだけが胸に残ってしまったのだ。

 手に余る複雑な感情に居た堪れなくなり、衝動的に斧の柄を強く握り締める。


「危ないから取り敢えずその斧置いてっ?」

「ああ、はい」と、握っていた力を抜き、一度深呼吸してから斧を地面に置く。


「貶されてムカつくのは分かるけどね? 宗二くんはまだ気持ちの整理を付けにくかったり、葛藤とか多い年頃だから仕方ないとは思う」


 正面を見据え、厳かさを感じるほど真面目に諭す駿の、ランタンが照らした横顔を眺める。


「……でも意味のない喧嘩はやめて? 怪我でもしたらどうするの? 宗二くんが怪我して仕事できなくなったら、お母さんも困るでしょ?」


 こちらに向き直って問う駿に、宗二は「まあ」と不貞腐れたような表情で首肯する。

 しかし、会話をしながらも彼の意識は別の方向を見ていた。

 やはり驚きだ、と彼は思う。

 話の内容にではない。

 語る駿のいつにない真剣さにだ。

 普段はおどけた振る舞いをしているだけに、今醸し出されている硬い雰囲気にはどうしても違和感を覚えてしまう。

 彼にもそんな一面があるのか、はたまたちょっとした芝居なのかと、そんな事を考えていると、


「どうしたの? そんなキョトンとして」


 表情に出てしまっていたらしく、駿がその垂れ目を気遣わしげに丸めてこちらの顔を覗き込んでいた。

 声は完全に男。

 おまけに歳は二十半ば程だろう。

 でも話し方も仕草も容貌も妙齢の女性のそれであるため、間近に迫られて思わず慌ててしまう。


「ああいや、なんでもないです」

「そう?」

 

 咄嗟に両手を振りながら否定してしまい、でもやはり聞けばよかったと後悔する宗二。

 再び考え込む素振りを見せる彼に駿は「まあでも」と言うと、今度は先程までの奇妙な硬さが瞬く間に消え、

「宗二くんが無事だったから良いんだけどね!」と満面の笑みで宗二の背中をトントンと叩く。

 コロコロと変わる表情に宗二はついていけず、ただ呆然とそれを眺めることしか出来ない。

 話したいことを一通り話し終えたのか、背中から手を離した駿は「じゃあ」と手を挙げる。


「あの、今日はありがとうございました!」

「全然僕は何もしてないよ~。そんなことより……」


 慌てて感謝を述べられた駿はそう言い、うんうんと軽く頷いてから、綺麗な黒髪をなびかせて踵を返す。


「――怪我がなくて良かった良かった! ふっふふ~ん」


 遠ざかるランタンの光から届く、機嫌の良さそうな鼻歌交じりの言葉。

 それをすっきりとした面持で聞く宗二の傍に寄りながら、隼人は感心したように話す。


「駿さんやっぱりいい人だよねぇ。種族で差別しないフォーティスなんてあの人以外に知らないよ」

「俺もだよ。駿さんと仲良くなれて本当に良かった。お陰でフォーティス全員を無条件で嫌わずに済んだ」

「まあ、駿さん以外はあれ……だけどね」


 隼人の言葉通り、駿はいい人だ。

 貶められたサピエンスとも対等の立場で接する彼は、我らサピエンスから見れば”聖人”と言っても差し支えない。

 だから当然のように宗二も彼を尊敬しているし、近しい間柄になれて良かったと思っている。


 ただ、同時に彼は、大方のフォーティスを心底から忌み嫌う宗二にとって一際特別な存在。

 宗二がフォーティスを一纏めに憎悪の対象とすることを瀬戸際で踏み留まらせる役割――いわば”最後のストッパー”でもある。


「……ってそうそう、思ったんだけどさ。駿さんってなんか宗二には特段と甘くない?」

「そうか? まあ、俺と駿さん仲いいしな」


 自慢げに胸を張る宗二に、隼人は「そう……だよね」と遠慮がちに答える。

 暗くて表情は見えなかったが、その声は浮かないといった風に昏く、何処か寂しげに感じた。

 けれどそれも一瞬のこと、次の瞬間には普段どおりの優しい口調に戻った。


「もう時間も遅いし、早く帰ろっか」

「そうだな――」


 並んで進み出した二人の談笑する声音が冷たい風に紛れる。

 林道は疾うに真っ暗だった。




 ◆




「ただいま……ってあれ?」


 役場への成果報告後、夕食時に母を待たせては悪いと宗二は真っ直ぐ帰宅した。

 ところが、玄関の扉を開いてみるとそこは真っ暗。

 部屋の電気が消えていることに気が付いた。

 母さん、出掛けてるのかな。

 そう思いつつ電気をつけて居間へ向かうと、こたつの上には作り置かれた夕食と共に置き手紙があった。


『友達に食事に誘われたので帰りは遅くなります。夕食作っておいたので食べて下さい』

 

 そう書かれた手紙を黙読し、ほっと吐息を付く。


「それにしても、急に食事って珍しいな。いつもだったら直前の誘いは断るのに」


 母が友人と食事すること自体は珍しくない。

 が、大抵の場合は数日前までには予定を立て、予め宗二にもある程度詳細を伝えてから行っていた。

 逆に、急な誘致は何かと理由を付けて断ることが殆どだった故、今日のことは怪訝に思えてしまう。

 それほど重要な何かがあるのだろうか。

 それとも――、


「――絶対に断れないような事情があったか」


 頭を過った悪い事態を懸念し、自ずと頬が強張る。

 だが、幾ら考えたとて真相がわかる訳もなく、考えるだけ無駄だと食事に手を付け始めた。

 半分ほど食べたら腹は膨れてしまった。





 食事を摂り、風呂に入り、ストレッチをし、テレビを見て、暫く時が過ぎ。

 しかし、母は未だ帰らない。

 初めはソワソワと落ち着かない程度でしかなかった不安は、時間の経過と共に際限なく膨れ上がっていった。

 テレビを見ながらも意識は時計に向き、まだ帰らないかまだ帰らないかと気が急き、些細な物音にも反応してしまう程。

 そして、時刻が九時を回ったことがトドメとなった。

 田舎であるこの辺りでは、夜九時はどの飲食店も店を閉める時間だ。

 その時間になっても帰らないことは、つまりそれは通常の食事ではないということ。

 懸念でしかなかった想像が一気に現実味を帯びたことで、募りに募った不安は遂に我慢の限界を超える。

 居ても立っても居られなくなった宗二は気付いたら家を飛び出していた。



「あの、母さんを何処かで見掛けませんでした?」


 家を飛び出した宗二は、村の食事処が集まっている区画に向かいつつ、道行く人々にこの質問をぶつけて回った。

 フォーティスには「周りをチョロチョロするな餓鬼」と突っぱねられ、そも話をすることすら儘ならず。

 サピエンスは皆真摯に問答してくれたものの、「知らないなぁ」「今日は見掛けてないよ?」などと芳しくない反応ばかり。

 結局誰一人として目撃者は発見できぬまま、そうこうしている間に食事処の多い区画に着いてしまった。


 十軒ほどのこぢんまりとした食事処が並ぶ通り。

 街灯などなく、消灯する店も出始めたため通りは全体的に薄暗く、客が既に出払っていることも相まって寂寞とした印象を受ける。

 当然、全ての店は閉店済み。

 幾つかの店はまだ電気がついているが、後片付けをしているだけだろう。

 そんな中、店先で店仕舞いをしているサピエンスを発見した。


「よし、この人で最後にしよう」


 宗二は自身にそう言い聞かせる。

 今のところ、探して得られた成果はゼロ。

 このまま無闇矢鱈に探し回ったとて、見つかる目算は一切ない。

 だから一度家に戻って仕切り直そうと考えている。

 それに、宗二は勢いのまま家を飛び出したが故に、置き手紙など自分の外出を知らせるものを残していない。

 宗二が留守にしている間に母が帰っているかもしれないし、宗二の不在を心配して今頃逆に探し回っていないとも限らない。

 それを確認するためにも、一度切りをつけて家に戻らねばなるまい。

 

 まだまだ捜索を続けたい気持ちを抑え、踏ん切りをつけた宗二は、店先で掃除をする店主と思しきおじさんに声を掛ける。


「あの、母さんを何処かで見掛けなかったですか?」

「ん、涼子さんかい? んん、見てないと思うけど……」

「そうですか……」


 この短時間で嫌というほど繰り返した質問に、聞いた回数だけ心が沈んだお馴染みの回答をされる。

 やっぱり駄目か。

 諦めて踵を返そうとした時、別の聞きたいことが思い付き「あっ」と声が出てしまった。


「どうしたんだい?」

「あの、この村に夜遅くまで開いてるお店ってないですか?」

「いやぁ、皆九時には閉めると思うけど……」

「本当に全部の店がですか?」


 執拗に食い下がる宗二に、店主は腕を組んでうーんと考え込み、しかし次の宗二の言葉を聞いて血相を変えた。


「例えばですけど……。フォーティスのお店とか」

「――ッ!」

「何かあるんですか!? 教えてください!」


 店主が明らかに動揺したことがわかった宗二は、鬼気迫る様子で詰め寄って詳細を聞き出そうとする。

 対する店主は、その矮躯が更に小さく見えるほど怯んだ様子で周りに人が居ないことを確認し、目は合わせずにおっかなびっくり答えた。


「……南の町外れに、”百万亭”というフォーティス様たちが――」

「どんなところかはいい! 場所をもっと詳しく!」

「この道を真っ直ぐ行けば看板が見えるはず……って、ちょっと待て! あそこはフォーティス様の店だから――」


 礼もなく飛び出した少年の背中に、慌てて忠言を投げ掛ける店主。

 その内容は、一も二もなく夢中で走り出した宗二の耳には届かない。

 今は一刻を争う状況だ。

 仮に母がその店に居るとしたら……考えるだけでも息が詰まる。

 夜の凍て付くような空気で肺を満たし、余分な思考を息と共に吐き出す。

 全力疾走。

 すっきりした頭で、今はそれだけを考えて。

 灯りの消え始めた家々の合間を駆け抜ける。

 一秒でも一瞬でも早く着かんと、出しうる全身全霊で足を回転させ。


 到着した。

 村の南外れにある、この辺りでは標準的な外観の家屋。

 木製の壁に急勾配の屋根を乗せた、二階建ての民家風の建物だ。

 そして看板には、

 

「”百万亭”」


 正面に構える片開きの扉を荒々しく、バタンと音を響かせて開く。

 騒がしかった店内が突然の音に静まり返り、全員の視線がこちらに向く。

 だが、宗二の目にはそんなものは映っていない。

 彼は店内のとある箇所、とある人を見て、固まった。

 足が、視線が、表情が、呼吸が、時間が、思考が、魂が、固まった。







 破られた服で辛うじて下半身を隠した姿で、ソファに仰向けで寝る母。


 ――その胸には、血に濡れたナイフが深々と突き立てられていた。


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