1-3
「おはよー」
と、千歳は三年五組の教室に入り、もうすでに到着している亜弥たちに挨拶した。
このクラスは進学クラスで、女子は千歳たちのグループを含めて七人しかいない。今のところ教室にいる女子たちは千歳たち四人だけだった。
別に千歳はわざわざ進学クラスに在籍するほど偏差値の高い大学を狙っているわけではないのだが、もともと成績がよかったし、他の三人がみんな進学希望だったので、それでは、と一緒にしただけだ。千歳の進路は家政科で、将来は調理に関する仕事がしたいな、と思っていた。千歳の趣味は料理だった。
「おはよう千歳」と、亜弥は千歳が来るのをいまかいまかと待っていたようだった。「どうだった?」
「なにが?」
「なにがって」
「北原くんに告白したんでしょ?」と、やや小声で翼が訊いてきた。「その話に決まってんじゃん」
「ああ、うん。それは、まあ」
「ダメだった?」
中学生のときから一緒の乃梨子が同情したように言った。乃梨子のそばにいた彼氏の
「ダメというか」
「え! じゃ、オッケーだったの?」
「うーん……」翼の驚きについて戸惑うのはどう考えてもおかしいのだが、しかし、と、千歳は言う。「恋愛は、ダメだった」
「あ〜……」
と、三人はうなだれる。いい友達たちだ、と、千歳は彼女たちに感謝した。
「でも、友達になれたよ」
「友達〜?」翼は怪訝そうな顔で訊く。「それ、あんたの提案?」
「そうだよ」
「それじゃあ断れないわな」
「え、どうして」
「だってねえ」
ねえ、と、他の二人に訊き、亜弥も乃梨子も、うん、と、翼に同調せざるを得ないようだった。二人はそれぞれ申し訳なさそうに言った。
「自分が振った相手だもん。了承せざるを得ないっしょ」
「だから、恋愛にはならないんでしょう? 千歳はそれでいいの?」
「いいんだ」千歳は晴々しい顔で言った。「仲良くなれそうだって、そう思ったから」
「はあ、なるほどねえ」
そんなもんかね、と、翼は怪訝そうな顔をしたが、まあ、千歳がそれでいいなら、と、思った。
「だから仲良くなれたらいいなって」
とにかく、と、乃梨子は言った。
「よかったのかな? 千歳にとってはその結果で」
完全に望ましい結果である、とは言えない。だが、“仕方がない”。それに、光と昨日小一時間会話し、やっぱりいい人だ、と思えたのも事実なのだ。
「うん!」
千歳は笑顔でうなずいた。
だが、そのとき近くの自席に座って本を読んでいた萬屋和洋が立ち上がり教室を出て行った様子を、千歳はなんとなく眺める。
あいつがあたしの恋の宿敵なんて、と、千歳は、しかしあいつじゃ敵わない、と、どこかそう諦める気持ちもあった。
「あ、北原」
廊下を歩き教室へと向かう光に、和洋は声をかけた。
「萬屋くん」
光は胸をときめかせた。和洋が自分に声をかけることはまずない。用事がないのだから当然だった。それなのにいま、恋しい彼が自分に声をかけている。これは確かにときめくことだったが、しかし一方でどうしたのだろう、と客観的な自分もそこにいた。
「おはよう」
と、和洋は笑顔で光に挨拶した。
「おはよう」
光も挨拶するが、どこか暗い。その反面、心の中はお祭り騒ぎだった。
ずっと好きだった和洋が、自分にわざわざ挨拶をしてくれている。嬉しい。いつも心の中で彼に挨拶していた光の心の中はまさにパーティ状態だった。しかしどうしたのだろう、とも、思う。
「あの、ちょっと訊きたいんだけど」
「なに?」ちょっと冷たい声になってしまっただろうか、と、光は思う。しかしだからといってハイテンションで応じるわけにはいかない。自分の恋はただでさえ秘密にしなければならないのだ。「どうかしたの」
「うん。あの〜、大黒のことなんだけど」
なんだ、と、光は内心ひどくがっかりした。自分に対して用事があるわけじゃないんだ、と、やっぱり現実こんなものなのだ、と思う。百億万分の一の可能性で自分に恋心があるのではないだろうかと一瞬考えたことを自己嫌悪する。
「大黒さん?」
「うん〜。あの〜。昨日〜、ファミレスで一緒にいただろ」
「それが?」
「さっき、石川たちと話してるの訊いちゃったんだけど、昨日その、北原が〜……大黒を」
「あ」
これはもう間違いない、と、光は思った。
昨日の今日のこのタイミングで、和洋が大黒千歳の話題を彼女を振った光に訊ねている、となれば、そこにある答えは唯一だった。
「萬屋くん、大黒さんが好きなの?」
「え」
一瞬で顔が真っ赤になった。これ以上の答えはない。
指で頬っぺたを掻き、はにかみながら、和洋は、うん、と、うなずいた。
「一年の春ごろからなんだけど、ずっと好きで、実は」
「そうなんだ」
「それで、さっき石川たちと、その、北原が」
「ちょっと、ごめんなさい、って言ったんだよね」
「なんで?」
畳みかけるように質問する和洋に光はうろたえた。
「いろいろあって。あんまり訊かないでほしいんだけど。プライベートなことだから、というか……」
やや迫ってしまった自分を和洋は恥じた。
「そ、そっか。ごめん」
「いや別に」
もっと普通に話せたらいいのにな、と、光はいつも思う。
好きなのだ。本当に好きなのだ。和洋のことが好きで好きでたまらない。一年生の春、恋に落ちてから和洋のことしか見ていなかった。しかし告白なんてもってのほかだった。どうせ和洋はゲイではない。そもそも石川亜弥と付き合っていたというのはなかなかの噂だったし、和洋が異性愛者であるのは明白だった。自分が告白なんてしたら、自分は不登校になって退学するかもしれない。自分の世界を守らなきゃ。そう思うと、光にとって学校生活を円滑に送る上で多少の演技は必須だった。
だから、いま、どうしてもクールに振る舞ってしまうが、本当だったら、もっと自然に振る舞いたいのに、と、光はいつもそう思う。
「いや、話って、それなんだけどね」と、和洋は改めて言う。「悪かった」
「いや。だから––––」
だから光は、和洋を応援しようと思う。どうせ自分の恋は叶わないのが絶対なのだ。それならせめて、もし自分のアシストで和洋が幸せになれるのであれば、そうなるのが一番望ましいはずだ、と、思った。
「告白、してみたら?」
「えっ」
「うまくいくかもしれないよ?」
目をくるくるとさせ、和洋は、うまくいく、自分と千歳がうまくいくかもしれない、何の根拠があって北原光はこんなことを言うのだろう、と思った。
「なんで?」
だから訊ねたが、光には特に根拠があるわけではない。だが、自分の恋と違って和洋の恋は一生懸命頑張れば叶う可能性があるのだ。ただそれだけの根拠のない理由だった。
「チャンスがあるなら、おれなら頑張るってだけだよ」
まっすぐに自分を見てそう言う光を、和洋はややリスペクトし始めていた。
「そうかな?」
「わかんないけど––––おれなら、風が吹いたら、掴む」
「––––そうか!」
やや詩的な表現の光に、和洋は大いに納得させられた。
「わかった。俺、頑張ってみる」
「頑張って」
「ありがと北原! 俺、ほんと頑張るよ!」
笑顔で、やがて和洋は去っていった。
ひとり残された光は、ここであることに気づく。
「ヤバいな。トライアングル完成しちゃってる」
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