第46話 Hayuru, learns about HER hidden past.

御守みもり春江はるえと申します」


 おばあちゃんは丁寧に自己紹介をした。私はただ黙りこくって、その名前を脳内で反芻することしかできなかった。挨拶を無視するのが失礼にあたるとか、そういうことには思い当たらなかった。


「お部屋の前で、会ったわよね? 覚えているかしら」


 おばあちゃんはそう言って、微笑みかけた。私の中で、なにかがぱりんと割れた。

 そうだ――この人は、はゆるの隣の部屋の住人だ。


「あの……お隣さんが、私になんの……」

「あなたは、映ちゃん」

「えっ……?」

「あなたは映ちゃんで、はゆるちゃんではない」


 春江おばあちゃんは柔らかな微笑みを一切崩さないまま、続けた。その笑顔を向けられるのは、どれほど眼光鋭く睨まれるのよりも、恐ろしく思えた。


 この人は、只者じゃない。


 なんというか――人間としての、本質的な差。目元や頬に刻まれた皺の一本一本が、それをはっきりと物語っていた。


 二の句を継げずにいる私から、春江おばあちゃんはほんの少しだけ視線を外した。


「ひと目で気づいたのよ。あなたが、はゆるちゃんじゃないって。すれ違ったのは一瞬だったから、そのことを伝える時間はなかったけれど。もっとも、あの時あなたが立ち止まってくれていたとして、伝えていたかどうかは……なんとも言えないわね」


 おばあちゃんは少し悲しそうに眉根を下げた。


みぎわのことは、上手く足止めしたつもりだったけれど……一歩遅かったみたいね」


 わからないことだらけだ。

 どうしてお隣さんが、はゆると私のことを知ってる?

 それに、汀さんのことまで。足止め? このおばあちゃんが? 汀さんが電話で言ってた面倒なことって、春江おばあちゃんのことだったの?


 その時、おばあちゃんは私の心を読んだかのように、静かに、こう告げた。


「私はね、楓縁館ふうえんかんの元館長なの。というより、楓縁館という児童養護施設を建てた人、と言ったほうが正しいかしらね」


 私は、あっと声を上げることすらもできなかった。


「十五年近く前まで、私は楓縁館にいたのよ。幼いあなたを引き取ったのは、この私。さすがに、あなたは覚えていないでしょうけど」


 春江おばあちゃんは言った。孫に絵本を読み聞かせるみたいに。


 でたらめを喋ってるようには聞こえない。でも、にわかに信じがたい話だ。わからないことにわからないことが重なって、頭を鉄の輪で締め付けられてるみたいに感じる。


「元館長さんが、今になって……なんのために私に会いに来たの?」


 私が辛うじて思い浮かんだ疑問を口にすると、春江おばあちゃんはゆったりとした動作で私の隣に腰を下ろし、小さく息をこぼした。


「館長の職を辞した後も、私は楓縁館との関わりをある程度は保っていた。ある日……そう、三年前のある日、映ちゃんの身に重大な事故が起きて、映ちゃんは楓縁館を追い出されることになったと、知った」


 私は、唾を飲み込んだ。春江おばあちゃんには聞こえないように。


「独自の調査の結果、わかったのは……汀がなにかをしくじったこと。それだけだったわ。以来、私は別人となってしまったはゆるちゃんを、密かに汀の手から守ってきた。正体を隠して、ただの隣人のおばあちゃんとして接しながら、ね」


「どうして、正体を隠す必要が……?」


「……楓縁館を追い出された時、はゆるちゃんがどんな仕打ちを受けたのかを知ったのよ。彼女には、楓縁館に関することを、なるべく思い出してほしくなかった。彼女が、男の子の姿をしてお部屋から出てきた時にも……本当は見抜いていたけれど、私はなにも言わなかった」


 私のあずかり知らぬことまで、春江おばあちゃんはすらすらと話す。こんな言い方は我ながらどうかと思うけど、見た目から想像される年齢に対して、だいぶ頭脳が明晰なようだった。


「はゆるちゃんと、話をしたかしら」


 と、ふいに問いを投げかけられる。私は慌てて姿勢を正し、隣に目をやる。

 春江おばあちゃんは相変わらず、お地蔵さんのような笑顔。私はゆっくりと顔の向きを戻した。暗い地面を見るともなく見つめる。


「はゆるは……私の身体を、私の人生を奪った。ただの泥棒」


 今でも、そう思ってる。

 というより、そう思うことが正しいんだって、信じてる。


「あいつに話してやることなんか、なにもない」


 そう呟いて、唇を結んだ。ふと、はるなの顔をしたはゆるが、脳裏をよぎった。


「……やはり、なにも聞いていないのね」


 春江おばあちゃんが、溜息とともに言った。


「なにも……って?」

「はゆるちゃんが、こちらの世界にやってきた理由。あなたは、知らないようね」


 私は、眉間に皺が寄るのを感じた。

 はゆるがこっちの世界に――つまり、私の身体に入った理由ってこと? そんなの、私が知るわけない。別に、理由とかどうだっていい。


 なんて、むすっと腕を組んでいた私だったけれど――その次におばあちゃんが放った言葉は、私を大いに動揺させるものだった。


「失火、だったそうよ」


「…………?」


「はゆるちゃんは、私にだけ、何度か話してくれた。どうして、ずっと一人ぼっちで暮らしているのか……。

 彼女は言った。私のせいで、大好きなお父さんとお母さんが火事の犠牲になり、自分ひとりだけが生き残った、と。きっとそれは、彼女の世界で、実際に起こったこと」


 ――そんな。


 と、発したつもりだったけれど、喉が急激に狭くなって声が出なかった。

 胸を内側から殴られたような感覚だった。はゆるも――別の世界の私も、私と同じように両親の喪失を経験していただなんて。それも、ちゃんと愛を注いでくれていた両親を。

 どういう感情で、どうやって受け止めればいいのか、わからなかった。


「でも……はゆるちゃんは、ただひとつ、事実を誤認している」


 目を見開いたまま硬直している私に、春江おばあちゃんは続けて言った。声のトーンを数段階落として。


「あなた……疑問に思ったことはない? はゆるちゃんの魂は、この世界にやってきて、そしてあなたの身体に入った。その時以来、元の世界での彼女の身体は、ずっと空白のままなのか……」


 おばあちゃんの声が、私の耳に届いて、私の脳内でひとつひとつ意味を形成していくに従って、全身にぞわぞわと鳥肌が立った。


 私は自分の見落としを、詰めの甘さを悔やんだ。

 そのことについて私自身も疑問を抱き、一度は汀さんに尋ねたことだってあったのに……どうしてあの時、もっと深く追及しなかったんだろう。

 でも、悔やんだって遅い。答えは、もう出てしまった。


 そっか。そうなんだ。


 はゆるは――


「はゆるは……もう…………」

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