第36話 はゆる、すべてを聞かされる①
はるなちゃんの身体に乗り換え、
はるなちゃんは異様なほどの沈黙を保ったまま、片足を少し引きずりながらも迷いのない足取りで歩いていきます。全身黒ずくめで顔面は傷だらけの少女が近づいてくるというのは相当に不気味なのでしょう、道の向こうからやってくる人々はみんなこちらを認識した途端ぎょっとした顔をして左右に避けるので、モーセになった気分でした。
それにしても、はるなちゃんの身体の居心地がこれほどまでに悪く感じることがあるだなんて、想像だにしていませんでした。はるなちゃんに問いたださなければならないことは山ほどあるのに、そのどれもが言葉になる寸前で消えていきます。言葉にしてしまったら、その瞬間に私は、なにかとてつもないものを失う気がするのです。
いや、もしかしたら、もうとっくに――それこそ身体を奪われた瞬間から――なにもかもが私の手には負えなくなっているのかもしれません。そんな諦念を抱いてしまうくらいには、私は今のこの状況にたいへんな恐怖を感じています。
「……着いたよ」
はるなちゃんが唇の隙間から乾いた声を漏らすまで、私は
その建物は、燃える夕空に浮かび上がる蜃気楼のようでした。
本来子どもたちが家族同然の暮らしを営む温かい空間であるはずが、凹凸に乏しい白い外壁はやけに冷たく見えます。墨の字で「楓縁館」と記された下の、なんの変哲もない自動扉が、まるで魔界への入り口に思えました。近づいていくと、扉は静かに左右に割れ、私たちを迎え入れました。
ひっそりと静まり返る館内を、はるなちゃんはゾンビウイルスに感染して発症しかけている人みたいに、よたよたと歩きます。はるなちゃん自身の意思で歩いているというより、海底の大穴に吸い込まれるかのように、抗いようのない力に引っぱられている感じがしてなりません。
暗い階段を上がり、永遠に奥まで続くようにも見えた二階の廊下を進むと、突き当たりには非常階段へと続く扉がありました。
「
金属のノブに手をかけて、はるなちゃんが言いました。私は全身の動悸を抑えながら、開かれるのを待ちました。
※ ※ ※
淡い色のワンピースに身を包み、後ろで束ねた髪を風になびかせながら、〝私〟は佇んでいます。
片手を手すりに乗せて身体をわずかにこちらに傾ける姿勢で、パティオとでも言うのでしょうか、屋根のない空間を見下ろしています。その表情からは喜怒哀楽のどれも読み取れず、なにを思っているのか、まったくの謎でした。
それにしても、「身に覚えのない自分自身が目の前に確かに存在している」というのは、言いようもなく奇妙な感覚がします。クオラル堂で防犯カメラの映像を確認した時にも似たようなことを思ったけれど、あの時はあくまで画面越しでした。それに普段
そんなことを考えながら、私は唾を飲み込んで、一歩前に出ました。
「あなたは――」
「空、」
私とまったく同時に、〝私〟は私の声を発しました。
「空について考えるのは、もうやめた。ただ寂しくなるだけだから」
かと思えば、いきなり不可解なポエムを朗読し始めました。
「寂しいと言えば、かつて楓縁館の向かいにあった喫茶店がいつの間にかなくなっていた。個人経営の小さなお店だったから限界があったのかもね」
「あそこのクリームソーダは好きだったなあ。いちごソーダにレモンソーダ、マンゴーソーダ、挙句の果てにきゅうりソーダなんてのもあったのに、メロンソーダは置いてないというね」
「でもその代わりか、乗っかってるアイスクリームがメロン味で、なるほどこれならメロンソーダと言えなくも――」
〝私〟はパティオに視線を投げかけたまま、脈絡のない話を一人でぺらぺらと喋り続けています。私はいよいよ痺れを切らして、漂意を始めました。
しかし、先ほど紅愛ちゃんの身体から飛ぼうとした時と同様に、私の魂はぶちっと弾かれ、はるなちゃんの身体へと戻されました。
「漂意ができない――?」
その時、〝私〟はようやくこちらを向いて、不敵な笑みを浮かべました。
「このゴールデンウィークの間、本当はなにが起きていたのか……あなたはなんにも知らないのね」
そう言って、〝私〟は非常階段をこつこつと降りていきます。私は言い返すこともできずに、自分の身体を追ってパティオに出ました。四方を建物に囲まれているためか、屋外なのに閉塞感があります。
「話をしようか」
〝私〟はパティオのちょうど真ん中あたりで立ち止まると、こちらを振り返りました。
「そうね……私が目を覚ました時のことから、教えてあげる」
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