第34話 はゆるの爆走

 私は反射的に駆け出していました。何メートル、何十メートル離れているのかはわかりません。でも表情が視認できるくらいの距離です。本気で走れば追いつけるはず。マナーや倫理を今だけは完全に無視して、墓地のど真ん中を全力疾走です。


 しかし、私は甘く見ていました。というより、知らなかったのです。

 紅愛ちゃんの、圧倒的な脚力を。


『どうしてこんなに足が遅いのです!?』

「そ、そんなのっ、私に言われても! って、私にしか言いようがないか……」


 私は必死に腕を振り、目にも留まらぬ速さで両足を繰り出しているつもりです。それなのに、視界の左右を通り過ぎていく墓石に彫られたお名前が、容易に判読できてしまうのです。


『もうっ! 紅愛ちゃん体育の授業好きでしょう!?』

「好きだけど、だからって走るのが速いってことにはならないよ!」

『普段走ったりしないのですか? その、部活とかで……』

「演劇部はそんなに走ることないって!」

「和泉さんッ!」


 渡くんがえると同時に私こと紅愛ちゃんの手首を掴んで強く引きました。


「なにやってんだよ!? 飛べッ!!」


 言われて、私は愕然としました。


 どうして最初に思いつかなかったのでしょう。私には漂意という特技があるのです。真実を語った直後で、無意識に漂意について考えるのが嫌になっていたのかもしれないけれど、そうも言っていられません。そもそもこれは私が自分の身体に戻るための旅なのでした。


 黒ずくめの〝私〟は身をひるがえして軽やかに滑り台から飛び降りると、黒服をマントのようにはためかせて駆けていきます。その姿を私は視界の中心にはっきりと収め、漂意を始めました。確かな手ごたえがあり、魂がふわりと浮遊しました。

 しかし〝私〟は後頭部に瞳が付いているかのようにちょうどその瞬間真横に跳んで、遊具の陰に上手く身を隠しました。私の魂は弾かれ、再び紅愛ちゃんの中にすっぽりと戻りました。


「あれっ、おかえり映ちゃん!」

かわされてしまいました。相手は私の力を把握しています』

「じゃあ、やっぱり追いつくしかなさそうだね!」


 と、紅愛ちゃんは意気揚々と袖をまくるけれど、その足がようやく墓地を抜けた今、黒い後ろ姿はもうどこにも見当たりません。

 膝に手をついて息を切らしながら、呆然としていると、


「映!」


 今度は日向太さんが叫びました。「俺に乗るんだ」


 私は身を起こして、日向太さんをじっと見つめました。痺れるような感覚とともに目線の高さが頭ひとつ分上昇し、直後には首の汗を拭う紅愛ちゃんを見下ろしていました。成功です。


「まだそう遠くには行っていないはずだ」


 言い終えるか終えないかといううちに、日向太さんは地面を勢いよく蹴りました。

 その瞬間、私の魂はぐんっと背中側に引っぱられ、危うく置いていかれそうになりました。


 私はさっきとは違う意味で呆気にとられました。


 全身で風を切りながら猛然と駆けていく様はまさに「疾風迅雷」という四字熟語がふさわしく、周りの景色までもが少し引いた目でこちらを見ている気がします。紅愛ちゃんの足が比較対象であるせいか、なにかの冗談かと思ってしまうほどの速さです。

 日向太さんは言葉の通りあっという間に公園を抜けてしまうと、靴底をブレーキ代わりに急停止しました。墓地の反対側は通りに面していて、賑やかではないにせよ閑静でもない住宅街が広がっています。


「散々回りくどい仕掛けを用意して映を翻弄しておいて、いざ見つかれば一目散に逃げるとは……奴はいったい、なにを考えているんだ?」


 日向太さんは息を整えながら恨めしそうに言うと、再び両足に力を込めました。

 みち行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駆け抜け――はさすがにしていないけれど、少なくとも沈んでいく太陽の十倍速いのは確かでした。

 その時、信号の向こうを黒い影が瞬時に横切りました。間違いなく〝私〟です。


「日向太さんっ!」

「ああ、任せろ」


 日向太さんは〝私〟が姿を消した路地への、考えうる最短の距離を、人が発揮しうる最大の速度で走ってくれます。青信号がちかちかし始めたところで、ちょうど渡り終えることができました。


「映ちゃーん!」


 後方から明るい声がしました。ふと見ると、ようやく追いついた紅愛ちゃんが手を振りながら、横断歩道をぽってこぽってこ渡ってこちらに向かってきます。


「わぁっ、待て待て待て!!」


 そこに、渡くんの焦った声が重なった、その刹那せつな――私の見ている光景は、ぴたりと静止画になりました。




 横断歩道の真ん中で、前のめりに転倒しかけている渡くん。




 その腕に抱かれたキャリーバッグから、ようやく出番が来たとでも言うように躍り出るのびしろくん。




 身体ごと振り返って、大慌てでのびしろくんのほうに手を伸ばす紅愛ちゃん。




 そして、二人と一匹に向かって、耳をつんざくクラクションを鳴らして突っ込んでくるトラック――




 私は咄嗟に紅愛ちゃんをめがけて漂意をしました。静止していた光景が動き出すとともに、渡くんとのびしろくんを抱いて道路の反対側へと飛び込むように転がります。重たい風に背中を横から叩かれ、トラックの大きな影がすぐ後ろを通り過ぎていきました。


 お互いの無事を確認して、私たちは空気の抜けた人形みたいにへなへなと地べたに座り込みました。周囲には、まだクラクションの音が溶け残っています。


「はあ……ごめん和泉さん、助かったよ……」


 渡くんが、肩を上下させながら言いました。

 私は返事の代わりに、とびきり大きな溜息をつきました。やっと状況を把握したのか今になって心臓が早鐘を打ち始め、息が小刻みに震えました。


「っ……!!」


 その時突然、紅愛ちゃんが顔を歪めて、左足を押さえました。

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