第9話 はゆると渡くん④
どうにか帰ってくることができました。
ただ、家に帰る。そんな何気ない日常が、実はなにより幸せであることを実感しています。
渡くんの身体でソファにぼふっと座り込むと、そのまま生クリームに落とした苺のように、身体がずぶずぶと沈み込んでいきそうな気がしました。数時間分の疲れが一気に覆いかぶさってくる感じがします。
ふいに、視界に渡くんの
「僕はピッキングまで得意だったのか……。万が一マジシャンになる夢が
『それだけは避けてほしいので、絶っっ対にマジシャンとして名を
はあ、と息をこぼして、私は無機質な天井を見るとはなしに見上げました。この部屋は間取りこそ1Kですが、私一人で住むにはいささか広すぎて、それが余計に孤独感を増長させます。
ところで、この無駄に広い部屋には無駄に大きな窓が付いています。窓際に立ってみると、眼下には澄み渡る空を背負う住宅街が広がり、時の流れがとてもゆっくりに感じます。きっとこの光景を見た人が「閑静」という言葉を考案したのです。
そして奥のほうには、大きな山がぼんやりと無人島のように浮かび上がっています。今日のように晴れていると、たまに見えることがあるのです。
あそこが無人島だとしたら、この空は大海原でしょうか。潮の匂い、煌めく海面――家々はそれぞれの船で、そして私は、その船の間を縫うようにして、波に揺られてあてもなく漂流する――その時、
ぐぅ〜ぎゅるるるる……
と、蛙の鳴くような音で、私は想像の海から引き戻されました。鳴ったのは渡くんのおなかでしょうか。それとも私でしょうか。
「なんとなく体温を測ってみたら、微熱があるとわかった。それまでは平気だったのに、その途端急激に体調が悪化したように感じる」
渡くんがおなかをさすりながら呟きました。
『なんの話です?』
「それまでは特になんとも思ってなかったのに、腹が鳴った途端急激に空腹を感じるってのも、同じような原理なんだろうな」
渡くんは重たそうに身を起こしました。
「なにか食べないと」
※ ※ ※
渡くんは器用なくせに料理の経験がほぼないとのことで、私が腕を振るうことになりました。まあ正確には私が渡くんの腕を振るわせてあげるのだけど。
「和泉さんに任せて大丈夫かよ?」
『ご心配なく。あなたと違って私は毎日自炊をしているのです』
私は調理器具と食材の準備を整えると、手際よく冷製パスタを作り、ナムルを仕上げ、昨晩の残りのサラダを盛りつけました。
『どうぞ』
「うおっ、意外と
『意外と、は余計です』
思えば漂意中に受漂者が食事をとるなんて初めてですが、ちゃんと渡くんの味覚を通して味わい、渡くんの満腹中枢を通しておなかが満たされていきます。自分の体質に関して、これまで知り得なかったことをたくさん発見できると思うと、身体が奪われたという事実をほんの少しは肯定的に捉えられる気がします。
「んん、美味い」
私がそんなことを考えている間、渡くんは無心にお箸を口に運び続けています。ずいぶんおなかぺこぺこだったようです。
と、その時、私ははたと気がつきました。
「――
思わず、渡くんの声で言ってしまいました。声に出さざるを得ないくらい、限りなく奇妙な味に感じたのです。
勘違いかと思って、私はもう一度、今度は集中して、自分の作ったものを味わってみました。けれど、魚肉ソーセージパスタもドラゴンフルーツのナムルもプリンドレッシングのサラダも、めちゃくちゃな味でした。それまでは一切意識していなかったのに、渡くんの口を通して不味いと感じた途端急激に、そうとしか思えなくなってしまったのです。
『渡くん、正直に答えてください。私の料理の味はどうですか?』
尋ねるまでもないことです。普段通りの味付けをいまの私が美味しく感じられないというのは、私の作ったものが渡くんの味覚には合わないという事実の証左にほかならないのです。
「ん? 美味しいよ」
『味が、変ではありませんか』
「いやいや、むしろ普段食べない味付けだから、新鮮な気分だよ」
渡くんの優しい言い方は、柔らかい雪のように私の心の奥深くまで
その間も渡くんは味の壊れた料理を食べ続けて、今にも完食してしまいそうな勢いです。
『……無理して食べないでください。今から作り直します』
「はあ? なにを無理するって言うんだよ?」
『私の料理、お口に合わないのでしょう』
「そんなわけないって」
『気にしないでください。無理に食べられても申しわけないだけなので』
私は半ば怒ったような口調で、渡くんの気が変わるのを待ちました。なにに対して怒っているのかは、自分でもわかりません。
それは例えば、休日に自分以外のクラスメイトが集まって楽しそうに外出しているのを、自室で一人SNSを通して知った時みたいな――わけもなく落ち着かなくて、むしゃくしゃして、叫び出したくて、でもそんなふうに取り乱している自分自身のことがいちばん嫌、そんな状態でした。私はどうしたらいいかわからず、途方に暮れるしかありませんでした。
「さすがだなあ、和泉さんは」
ふと、渡くんが思い出したように言いました。
「人のためなら妥協を許さない、そのストイックな姿勢! 僕には真似できそうにないですねえ」
わざとらしく笑って、再びサラダを口に運びます。
「それとも、どうしても僕を料理で喜ばせたいのか? まったく、そんなに僕のことが好きだったのか」
『……いいえ』
「素直じゃないなあ」
『私は常に本心しか話しません』
「はいはいそうですか」
渡くんはついに完食して、ふうと息をつきました。
「味がどうこうとか、なんにも気にしないさ。こうして作ってくれただけで、僕は十分嬉しいからね」
その言葉に、はっと息が詰まりました。渡くんはこんなにも私を思いやってくれてるのに、私のほうは自分の感情しか考えていない――そう思い当たって、心の奥のほうを突き刺されたような気がしました。
『あの……渡くん』
「なんだい」
『今日は紅愛ちゃんとの会話の中で、いろいろと失礼なことや馬鹿にするようなことを言ってしまって……ごめんなさい』
今さらだけれど、私は頭を下げました。
「失礼なことなんて言われたかな?」
渡くんはきょとんと首を傾げると、
「和泉さんが上手いこと
そう言って立ち上がり、「ごちそうさまっした!」と明るく笑いました。
※ ※ ※
食器を洗い、一通り片付けてから、私は声をかけました。
『お風呂はどうしますか』
「あッ!!」
渡くんは間違い探しの最後の答えをようやく見つけたみたいな声を上げました。
「そうだよ、僕は勝手に泊まることにされたんだった……」
『で、どうするのです』
「そりゃあ熱々のお湯に浸かって休みたいけどさ、和泉さんが僕の中にいるんじゃ、」
そう言うと思いました。
『大丈夫です。私はひと足お先に眠っておきますので。眠ってしまえば私のあらゆる感覚はシャットアウトされ、あなたは普段となんら変わりないあなた自身として行動することができます』
渡くんは怪訝そうに顔を歪めました。
「和泉さんが眠ってるかどうかなんて、どうやって判断するんだよ……?」
『なんとなくでわかるはずです』
「そういうもんなの?」
『ええ。お風呂は一般家庭にあるものと変わらないので、使い方を説明する必要はないでしょう。入浴剤はそこの棚の下段にあります。パジャマはフリーサイズのものがどこかしらにあるので探してください。冷蔵庫にあるものは好きに食べたり飲んだりして構いません。あと、お布団は押し入れから適当に出してください』
私は一方的に
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