第9話

──リクは私がこうした色欲を持つ姿に"奇蹟"だと口にした。偶然の産物にでも手にしたようなものなのか。色濃く濁る泥水の中から顔を出した時、彼は私の腕枕の中で呆然としながらこちらをじっと見つめていた。


「リク。何故是れ程に俺を求めてる?」


清廉潔白せいれんけっぱく。僕は十五の時、この言葉がどれだけ人間にとって希望に満ちたものか、いつか手に入れたいと願いながら清らかな少年として生きてきた。でも、性さがは嘘はつけなかった。身売りになったのは金が欲しかった。家庭が貧しかったから少しでも仕送りになればと考えて、その世界に踏み入れたが、あれだけ欲に塗まみれた地獄だと……手にしたものは儚くておぼつかない現状だった。店を辞めてからしばらくして時間が経った時、少しでもいつかの少年の頃を取り戻せるか色々と考えている時に、ローズバインでママ達に出会って、貴方の存在を聞かされた。どんな境遇にいる中でも、誰よりも周囲の事を考えて働いていると知らされて、いつか会って話しがしたいと胸に秘めていた。そうして……やっと出会えた。僕の願いが叶うならその言葉を持って貴方にこの身を捧げても良いかと。……自分、勝手でしょうか?」


「いや。正直に話してくれた事はありがたいよ。誰もが辛い思いをしながらこの時世に身を寄せ合い生きている。決して他人事ではない。世間体とは離れた中で密やかに過ごす俺らでさえ、居場所は必ずある。軍人だった頃には考えられない自分だが、是れが本来の自分ならそれで良いと全てを受け入れた。」


「何が……見えたんですか?」

「俺もまだそれが何なのか探している最中だ。特異に何か見えたら、きっとそれは世の終わりを見据えてしまう事にもなり兼ね無い。目の前にある出来事で忙しく生きている事が本当の奇蹟であるようにも思える。しかりとこの目で確かめていく事を止めたくない。其れが今の俺なのかもしれん」

「無理に答えを求めても、きりがない。そうして己と向き合う事でしょうかね。少し荷が降りた気がするな……」


リクは穏やかな声と表情で私の背中を抱きしめながら暫しの眠りについていった。私もその寝息を耳にしては心地良さに時間を委ねて、彼の指先を絡めて強く握りしめた。


──十七時を過ぎた頃、雨上がりの湿った空気に包まれて大塚の自宅へ帰ってきた。玄関の鍵を回して扉を開けると台所にナツトが夕飯の支度をしていた。彼は返事をする事なく硬い表情で私に背を向いたまま、食材を包丁で切っては調味料の付け合わせをし、いつになく調子の良い手つきで取り掛かっていた。

食卓に出来た惣菜や味噌汁、炊き立ての白飯が揃い、いただきますと告げると彼は無言で食べ始めた。食事を終え後片付けをして、食器棚に茶碗や皿をしまうと、先に風呂に入ってくれと告げてきた。


三十分程経ち浴室から出て居間に行くと、隣の寝室で彼が何か荷造りをしている様子が見え、実家にでも帰省するのかと尋ねると、彼が振り返り私に話しがあると返答した。


「リクさんと会っている事に気持ちがやきもきするんだ。嫉妬じゃなく怒りが収まらない」

「其処まで怒らなくても……」

「俺はこの家の何?給仕人?雇われの身かい?」

「何か勘違いしていないか?」

「していないさ。……馬鹿馬鹿しい。自分は良いとして他所よその男に愛想振り撒いて、取り繕って何事もなかったように、平然とした態度で帰ってきてさ。人生を存分に謳歌して良い気分だよな?」

「お前……また始まったな。あのな、リクとは確かに関係を持っている。慰めのつもりじゃない。向こうだって必死で過去を振り切ろうとしているんだ。俺は応援しているんだ。もう少し彼を見ていてやりたい。時が来たら離れる。だから、俺に時間を……」

「待てないよ!いつまでも彼と夢心地に浸っていたいんだろ?飽きたら捨てる。其れがジュートの溺愛してきた男達の付き合い方だもんな。虫唾が走るさっ!」


私は激昂げっこうし思い切りナツトの頬を引っ叩いてしまった。彼は目に涙を浮かべて私を睨みつけ、シャツの襟首を掴み掛かり窓側の壁に沿って押し付けてきた。


「どこまでお人よしで馬鹿なんだよ……。付き合いきれないよ、こんな男に……」


彼は上着を羽織り荷物を抱えて玄関へ向かったので、何処に行くと聞くと、暫く知人の家に居候するから、その間頭を冷やせと言い放ち家の外へ出て行った。

上手く伝えられないリクへの思いと宥められないナツトの激情に、己の秘め事の無用途さを痛烈に突き刺された。

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