耽溺する肉聲、熟れたレイシを喰す

桑鶴七緒

第1話

世はわずらわしいものばかりとは限らない。しかし人間は特定の物や人に飽きてしまうと、気が移り別の物や場所へと行きたくなる習性がある。

どうにか呼び止めて引き返そうとしても、時には逃げるようにこの手元からすり抜けて、まるで透明な空気を掴んで悪戯に操られそうにも陥ってしまいそうになる。


自分は別物だと思っていた。慕う者には己の矜持きょうじを持ち合わせていて寄り添い、曖昧にもなるところで踏み止まりながら対等に生きている者だとばかり考えていた。

だが人間は、一度でも曖昧な誘惑に陥ってみないと理解し難い事情も、いつも足元には棲みついている生き物なのだ。


── 昭和三十八年、東京。春が終わる頃を迎えて小雨が降る時期に差し掛かったのか、最近居間の窓が開け閉めする時に妙にレールに引っかかるようになった。いつの間にかところどころ細かな錆が出てきている。

潤滑剤を試しにつけてみたがそれ程効果が見られない。力を加減しながら窓を全開にし、取り敢えずは空気の入れ替えをした。


今日は日差しが出て空の雲も薄く線を帯びるように広がっている。太陽に手をかざすと肌が透き通るように流れる血管が見えてきた。この地で生きている証が改めて喜びとして感じている。住宅地沿いの剪定された垣根に石楠花しゃくなげが花弁を恥ずかしげに染めて咲き始め、南西の方角からは清和の風が頬を伝って流れてきた。


私の名前は浦井 直純ただすみ


一年前まで鶯谷の繁華街の一角にある男色が集まるローズバインという店で働いていた。そこで客人相手となる指名人ボーイと呼ばれる者の中には、他店の男娼あがりの者もいたが、半数は未経験や異業種の者が入ってきたことが多かった。

私もかつて軍人だったが両性愛者として世間から身を潜めるようにこれまでに於いて日常を送ってきている。


「ただいま、今日午前勤務だったんだ。」

「おかえり、待ってたぞ」

「荷物片付けるから、もう少し時間を頂戴」


私には恋人がいる。彼は深瀬淳哉。同じ店で働いていた事がきっかけで共に伴侶になり、田端のアパートで同居して今に至る。

源氏名だったところから、お互いに私はジュート、彼はナツトと呼び合っている。

今日はこれから新宿まで二人で長年世話になった店主であるローズママのスナックバーの開店祝いに足を運ぶ。私は支度を整えて彼を待っているが、何故かよそよそしくしている様子だったので声をかけるとひやりと驚いていた。


「何か隠してる?」

「な、何でもない。ボタンが上手く入らなくて……」

「貸せ。見てやる」

「いいってば」

「もう時間が迫ってる。かけてやるよ」


ナツトの支度も終わるとすぐに家を出た。電車に乗っていくと車両の中の人も混み合ってきた。新宿駅の構内は相変わらずのごった返す人ごみで忙しげに溢れている。

東口改札を出て階段を登り地上へ出て、ビル街に沿って歩いて行き、歌舞伎町の歓楽街を抜けた所にある五階建の建物に着いた。

古びた階段を上がると足音が響いていき、三階に着くと店の扉を開いた。


「いらっしゃい。よく来てくれたわね」

「お邪魔します」


ママは笑顔で私達を迎えてくれ、ナツトが用意した花束を渡し、カウンター席に座り、手始めにハイボールを頼み乾杯をした。ローズバインの頃よりは内装も控えめでこじんまりとした雰囲気だが、ママの包み込む優しさは変わらず心地良く昔話も弾んでいった。


「ミキトは元気?」

「ええ。この間ここに顔を出してくれたわ」「千葉からわざわざ来たの?」

「私の為ならって言って貴方達と同じ様にお花も持ってきてくれたの。あの子らしいわ」


ミキトという男性はローズバインでトップだった人物で、時折私に敵対視する眼差しが懐かしく軽い冗談を交えながら皆で思い出していた。


「ミキトが一般職にね……。どうなるかと心配していたけど、元気なら嬉しい」


ナツトにとっては歳も近い事もあったので兄の様に慕っていた。敵対視と言っても、それは店の来客の為であり、ママや従業員たちに長く店に居て欲しいという思いや情熱が人一倍強かったからだ。


ママはある話を持ちかけた。


歌舞伎町のとある店で働いていた人物がローズバインが閉店になる一ヶ月前に客として訪れたという。その時に私がママの新規の店に来たら自分の事を伝えて欲しいと言ってきたらしい。しかしママは、私に会いたいと言ってきているその人物はどこか不審げな雰囲気を漂わせていたので、敢えて話を伏せていたという。


「また近いうちにここに来るって話していたの。ジュート、時間取れそうかな?」

「まあ一度だけなら会っても良い。今の時間帯よりは昼間の方が良いかも。そうしたい」

「分かった。また連絡が来たら貴方にも伝えるわね」


それから三人で会話を交わし、終電が近づく時間まで店に居させてもらった。帰りの電車の中でナツトが気分良く酒に酔いしれたのか、赤ら顔になりながら私の肩に寄りかかり時々口角をあげては表情が綻んでいた。私も少しの間だけ彼の頭にもたれるように寄り添っていた。

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